第73話『山の上下と書いて峠と読む』
長野県飯田市。時刻は18時50分。
既に日没すれすれである。地方の道路は東京のようにくまなく街灯が配置されているわけではないため、通常、日が沈めば車両の走行ペースは落ちる。
そう━━あくまで通常ならば。
『おああああああああああああああああああああああ!!
つつつつつ、椿ぃぃぃぃぃぃ! お前、ちょっとは加減せんか! お客様がいるんだぞ、おいこら!!』
『っつーてもよ! 急ぎの急ぎ、超特急なんだろ!?
そんな状況で俺の腕を頼ってくれたからには、どんな乗り物よりも早く連れてってやらねーとなあ!!』
排気音。スキール音。がくんがくんと上下しつつも、迅速に収束するサスペンションの動揺。
タイヤはグリップの限界をしばしば超え、後方には白煙が舞う。
自宅の庭から、あるいは歩道からその走行を目撃した歩行者は、何事かと驚愕する。
『あっはっはっはっ!
いいな……今日はいいぜ! 気分もよければ、クルマの調子もいい! おーい、キミズとか言ったな、おっさんよ! タイム測ってもらえば良かったよな! なあ!?』
クルマという乗り物で、日本の公道をもっとも速く走る秘訣は。
アクセルの開け方でも、ブレーキングテクニックでもない。ひとえに前走車に対するパッシングの『見切り』である。
『行ったぁ!!』
リアシートで必死に天井へ手を突っ張っているコウからは、ほんの十メートルほどしかないように見えるストレートで、椿はあっさりと前走のトラックを追い抜きにかかった。
ストレートの先はブラインドのヘアピンコーナーである。
トラックの車体を半分ほども追い越したか、というタイミングでコーナーの先から白い光が見えた。
しかし、その光の主━━つまり、どこにでもいる自動運転の対向車が姿を表す頃には、コウたちの乗るランサーエヴォリューションはすでに追い越しを完了し、車線へ復帰している。
『余ぉ裕ぅぅ!! ほぉぉぉぉぉぉ!』
奇声にも近い叫び声をあげながら、椿の駆るランサーは対向車とすれ違う。
まもなくヘアピンコーナーだが、椿は減速操作をしない。
そのかわり、アクセルを全開にしたまま大きく車体を振って、ドリフト状態でコーナーをパスする。
車体を振った関係上、ランサーエヴォリューションの後ろ半分は対向車線へ飛び出しているが、椿は意にも介さない。もっとも、コウにはそんなクルマの状態を確認する余裕すらない。
(叔父さんと……前の人、ひょっとして気持ち悪いのかな)
せいぜいコウに分かるのは、ナビシートで真っ青になっているメガネのスーツ姿━━つまり湯河原と。
ロールバーの先を猛烈な勢いで流れていく光景を見つめながら固まっている、キミズ叔父の表情だけだった。
「きゃ~! きゃ~! すっごーい! ジェットコースターみたーい!!
コー兄に押しつけられるぅ~! むぎゅ~~~!!」
そして、キノエは━━と言えば、こんな状況が楽しくて仕方ないのか、コーナーのGがかかるたびにわざと体を押しつけて、黄色い声をあげている。
「お・ま・え・は、すこし静かにしろ!!」
「ぅにゅじにゅにゅ~~~!!」
そのほっぺたを掴んで、コウはきつくキノエを睨みつけるのだが、キノエはあくまで笑い続けている。
(リニアはあんなに快適だったのに……なんて落差だ!)
再び襲いかかってきた横Gへの対処が遅れ、ピラーに軽く頭をぶつけながら、コウは舌打ちしたい気分になる。
『ひゃーっはっはっはっは! いやっはあああああああああ!!』
椿はとにかく叫びつづける。やかましい。
しかし、どう考えてもそのままでは車検を通らないと思われる、ランサーのエキゾーストノートもまた、実にやかましい。
━━そして。
何台のクルマをパスしたことだろうか。長野の公道に黒いタイヤ跡を幾条も刻んだことだろうか。
程なくして椿の駆るランサーの平均速度はぐっと低下した。それ同時に、コウ達は強烈な登り勾配が始まったことを悟る。
(ここから山に入るのか……)
まだ電波状態は良好である。激しく揺れる車内でコウが見つめる『The・フォン』の地図には、しらぞひ高原へ向けて激しく曲がりくねったワインディングロードが刻まれている。
(さすがにここからは遅くなるはずだ……)
そんな淡い期待をコウが抱いたそのとき。
『行くぜェェェェ、こっから本領よ!!』
椿の上げた一声に、コウは。
そして、ナビシートの湯河原は。キミズ叔父は愕然とした。
「ふ~ん、そうなんだ。そろそろ飽きたから、早くつくといいね~」
1人、キノエだけは平然としていたが、男の便乗者3人が「ちょっと待て」と口にしかけたその瞬間。
『とぅオオオオオオオオ!!』
吠える。エンジンが。排気。何よりタイヤが。
同時にコウたちの体はそろって右側へ吹き飛ばされている。
天井やロールバーにつかまり、ベルトで身を拘束していなければ、激しく体をぶつけていただろう。
「ちょ━━」
『しゃオォらああああああ!!』
椿はただ、ランサーをヘアピンコーナーへ放り込んだだけである。
対向車もなく、日も沈んだ山岳ワインディング。そのヒルクライムによくあることだ。
だが、そのコーナリング速度は70kmを超えており、旋回半径はぞっとするほど狭く、小さい。
二輪車には絶対に不可能なレベルの超高速グリップ走行である。
当然、乗車している人間にかかる横方向のGは凄まじいレベルとなり、実体験のないコウ達が吹っ飛ばされそうになったのも無理はなかった。
「わーわー。コー兄、これ凄いね。
ジェットコースターみたいじゃなくて、ジェットコースターそのものだね。もっと頑丈なベルトが欲しくならない?」
「……お前、さっきまであんなにはしゃいでたのに、冷静だな」
「こういうスリルって、結構すぐ慣れちゃうんだよね~。
あと気をつけないと舌噛むよ。しゃべるときはこうやって耳元でぽそぽそと━━あいたっ!」
「っっっっっっっ!! 痛てー!! 頭ぶつけたぞ、こらっ!!」
「あたしだって、すごく痛かったもん!」
「お、お前ら……本当に仲いいな……」
『ひゃっはああああああああああああ!!』
もはや失神しているナビシートの湯河原と。レイプ目で呆然とするキミズ叔父と。
そして、強烈に頭をぶつけあって涙目の兄妹をのせて、三菱ランサーエヴォリューションは山道を駆け上がっていく。




