第66話『遠いあの日に兄妹は泣いていた』
「ね~、コー兄」
「なんだよ。疲れたんじゃなかったのか」
「癒された。だからもっと楽しいことしよ」
「仕事があるからダメです」
「え~え~え~」
大げさに頬を膨らませて、ぶーぶーと口にして見せるキノエ。
これだけの気楽さが自分にもあれば、どんなに単純なことかと思いつつ、川野コウは資料の数字を見つめる作業に戻った。
(……やっぱり縮小してるよな)
彼が今、見ているデータは日本経済における加工前のいわゆる『生データ』である。
それは全分野を網羅したものではないし、日本の津々浦々を余すところなく拾い集めているわけではない。
むろん、GDPや生産に関する統計を、人間ひとりひとりが調べて回る時代は、100年以上前に過ぎ去っている。
そうしたデータは現在でも日本国内のネットワークから集めることができる。
「……ほんの二週間で、ここまで差が出るなんて」
たとえば、コウはある交差点を特定の時間帯に通過する人の密度を見ている。
また、オフィスビルの入居状況の変動を見ている。むろん、商業ビルの閉開店の変動も見ている。
(このまま行ったら、半年後には大変なことになるな)
それらのデータすべてが微細な━━しかし明確な方向を示している。
それは縮小である。行き交う人の数は減り、営業する店も減る。中には高速道路の混雑状況を示したデータもある。
もっともこれは、一時的な物流業界の大混乱に影響された、長期分析には使えないデータとして判定されていた。
「長くて1年……早ければ9ヶ月、か」
コウは一つの数字を導き出していた。
それは現在の水準で通信の遮断と、海運と空輸の正常、そしてα連合国の孤立化が続いた場合、日本の経済が今のレベルをどれだけ維持できるか、という数字である。
それこそが彼が今回、任された仕事の主題であった。
もちろん、こんな重要なレポートを彼のごとき新参に任せるほど、日本は人材不足ではない。
コウはごく限られた分野の限られたデータから、彼なりの根拠でその数字を導き出す。日本に多数存在する情報工作員も、同様のレポートを作成する。
そして、それらを集約する人々がいる。
彼らは取捨選択する。誤りがあれば、指摘し、あるいは無視し、確からしいと思われるデータだけを集めていく。
それだけの過程を経て、はじめて『情報』はこの国を実際に動かしている人々の手に渡る。
それはまともな出版社の書籍が、必ず校閲の手を経ていることと、何の変わりもない。
「う~ん」
コウの手元にあるのは、単なるデータだけではない。当然、比較検討するための資料もまた用意されている。
たとえば、他の情報工作員がまとめたレポートである。
それは━━諸外国に比べて奇跡的なことだったが━━国内通信に限ってはほぼ健全な状態を保っている、ネットワーク上でリアルタイムに共有されている。
一例を挙げるなら、雷帝と呼ばれる強力で、しかし老衰著しい指導者をいただくロシアは、日本よりも長く経済レベルを維持できると予測されていた。
悲惨なのはアジアの諸国で、半年以内には劇的な変化に見舞われると予測されている。
統一朝鮮は数ヶ月以内。インドもまた、一年間はもたないだろうとレポートされていた。
そして、最後にコウが見ていたのは━━
「ぶー。コー兄、ぜんぜん構ってくれないんだから。
さっきから何熱心に見てるの?」
「中国のレポート」
「あ~……ん~と、そんなの見る必要なくない?」
キノエの声にわずかな影をコウは感じたが、数字を追う目線は止まることがない。
「内戦中の国なんか、分かるわけないじゃん~」
「内戦してても国は国だし、人も生活してるだろ」
「別にいいじゃん、あんなところ」
視線を床に落としたままで、頬だけをコウの右肩にあずけながら、キノエはふてくされたように言う。
(あんなところか……育った場所なのに、あんなところなんだろうか)
それとも、育った場所だからこそ、あんなところと言ってしまうのだろうか。
疑問の答えを出せぬままに、コウがレポートへ視線を戻すと、そこにはいささかの驚きを感じる数字が書かれている。
(華北5年江南3年、か)
その年数は日本やロシアとは比較にならないほど長い。
━━それは、つまり。
(中国では今の経済レベルがこれだけ続くのか)
━━それは、だがしかし。
(でも、今の中国には世界がどれだけ荒れていても、ほとんど関係ないってことか……)
α連合国が世界に影響を与える戦争を遂行しており、なおかつ、国際通信がほぼ絶たれているという現状においてなお、中国には影響がない。
中国の現行経済レベルには当面、変化は起こらないということなのだ。
「また、どこかで独立勢力が生まれた、って話もあったよな……」
コウが見つめる中国の地図は、多数の領域に分割されている。
それらは省や群ではない。国である。
2035年時点で7つの国が自らの正当性を主張して戦っている。それがかつて中華人民共和国と呼ばれた領域の現状である。
さらにその地図には、点々と灰色の領域が記載されている。
不思議なことにいくつかの灰色は、かつて巨大経済圏であった都市に重なっていた。
人口曲線は『戸籍データの信頼性を保てないことに注意』の添え書きと共に、劇的な下降線を描いており、少なくとも21世紀初頭の半数以下になっている。
(昔は十数億人もいたんだよな……この土地に)
かつて━━あるいは今も。
その土地では嵐が荒れ狂っている。
台湾海峡での小競り合いからしばらくして発生した、経済の『大停電』と内戦の勃発。
そして自国民同士で核を打ち合うという、人類未曾有の惨劇。
それは中国の大地で今も続いている。
「……コー兄、もう見終わった?」
「ああ、終わったよ」
「そっか」
何かに安心したように、胸へ飛び込んでくるキノエ。
(……あのとき、父さんも母さんも中国で仕事をしていた……)
一人っ子として育てられてきた自分。
中国で戦争が始まったと聞いて、両親がいつ帰国するのかと心配していた自分。
━━「落ち着いて聞け、コー坊」
そして、帰国便の手配がついたと聞いて。両親に会えると思って。
空港へと飛んでいったコウがみたのは、一足先に迎えへ出ていたキミズ叔父と見知らぬ幼い少女だった。
━━「兄貴と義姉さんは……お前の父さんと母さんは帰ってこない。この子だけを何とか飛行機に乗せられた」
まだ義務教育を終えていなかった頃のコウは呆然として、立ち尽くすのみ。幼い少女は不安で泣き出しそうな顔をして震えるのみ。
━━「飛行機が離陸した1時間後のことだ。上海に戦略核が撃ち込まれた」
せんりゃくかく。その言葉の意味が全くわからなかった当時のコウは。
もちろん、メガトン級とか、広島の数百倍とか、そんなことも理解できなかった当時の川野コウは。
━━「お前には話してなかったが……この娘はお前の妹だ。名前はキノエ。今日からお前だけが家族になる。支えてやってくれ」
その後、何があったか、何を言ったか。川野コウは何も覚えていない。
ただ、ひたすらに泣いていた気がする。
自分が泣いていた。妹も泣いていた。
キミズ叔父もまた、泣いていた。
コウの両親、その遺骨や遺留品の類は、今でも回収されていない。