第65話『西新宿で川野コウは働く』
欧州の一部国家で散発的な戦闘が続いていた頃。
「コー兄疲れた。
癒やして~。それ以上のこともして~」
「何を言ってるんだ、お前は……」
ところは変わって、極東の島国。すなわち、日本。
大きめの椅子に腰掛けて、つかの間の休息をとっている川野コウの膝元には、ひどく疲れた様子の妹━━つまり川野キノエが上半身を押しつけるようにして、もたれかかっている。
どうやら彼の妹は、その豊満な物体をわざと膝に押し当てているつもりらしいのだが、当のコウ自身は太った猫が載っている程度にしか思っていない。
一応、癒しを求められているので、太った猫にそうするように、キノエの頭をなでなでしてやると、彼女はおおむね満足したのか、上半身をぐりぐりと押しつける動作を停止した。
「えへ~、コー兄やさし~」
「優しくなったつもりはないけど、僕も……すこし疲れたかな」
見上げる天井では、オブジェとも空調ともつかないプロペラがゆっくりと回転している。
日本に帰国してからおよそ1ヶ月間。
世界の超大国が戦争をはじめたというのに、異常なほどこの国は静かであり、平和であり、しかし、目に見えぬほころびがじわじわと広がっている。
(……今日も政府叩きか)
ニュースに。映像に。踊るセンセーショナルな単語はしかし、どれも空虚であり、少なくとも国民の支持は得られていない。
この日本にとっては長年の同盟国だったα連合国が、突然欧州と戦争をはじめた。
そして、引きこもった。
異常としか言い様のない突然さで、α連合国は諸外国との外交チャネルを閉ざし、一切の対話を拒絶したのである。
(……それでいて)
物流だけは信じられないことに順調だった。
通信ケーブルを切断し、民間人の移動は完全にシャットアウトしておきながらも、α連合国は海運と空輸については一切、遮断しなかった。
それどころか彼らは『α連合国は世界の海上において、空中において、海中において、民間貿易については交戦国・非交戦国を問わず、これを保護する』と宣言したのである。
はじめはおそるおそる出航した貨物船も、タンカーも、世界の行く先々でいかなる脅威もないことを知ると、意外なほどのスピードで通常運航を再開していた。
(飛行機もかえって忙しくなった、って言うもんな……)
だからといって、2035年の世界では必須のネットワーク通信が遮断されていることに、変わりはない。
金融市場は大荒れという表現も生やさしいほどの嵐が吹き荒れたあと、全面的に通貨や株式、債権の自由取引を停止していた。
元より、通貨ひとつ買おうにも国際的な通信ができない状況では、流動性が死んだも同然である。
昨日まで買えていたドルもユーロも、あるいは円もフランも、コンピューターの前に座ろうが、銀行へ赴こうが、買えないし、売ることもできないのだ。
そして流動性が死んだ金融は、あらゆる意味で害悪しか生まない。
劇的な上昇、あるいは暴落。それを避けるための見えざる手が一斉働かない。
この歴史に残る異常な戦役の中、世界各国の金融当局が一週間少々で前例のない事態に対応し、そろって自由取引を停止したのは彼らの優秀さを表す1エピソードであった。
━━つまるところ。
川野コウはこの一ヶ月間続いてた巨大な混乱の中で、足りぬ知識と知恵と経験を総動員しながら、叔父の仕事を手伝い続けていたのである。
(ぐったり疲れもするよな……)
気を抜くと、目の前の景色がぐにゃり、と歪みそうになる。
だが、まだ倒れるわけにはいかない。今日もキミズ叔父から任された━━正確にはその秘書から送られてきた仕事は山積みだ。
とはいえ、これでも量を減らしてくれているらしい。情報に携わる仕事とはどんな無理ゲーなのだろうと思ってしまう。
「ふう……」
窓からお世辞にも見通しがよいとは言えない景色を眺める。
コウが今、滞在しているのは東京・西新宿にある古いレンタルオフィスである。
日本有数の超過密ビジネス街にあっては、ビルと呼ぶのもおこがしいほどの低い三階建て。築年数も45年以上━━つまり、20世紀に建てられた代物だった。
(……もうちょっと綺麗なところだといいんだけど)
ほんの百メートル弱も歩けば超高層ビルが林立しているものの、この物件とその周囲は、不思議なことに年数の経った古い物件で占められている。
とはいえ、それだけに西新宿のオフィス物件としては考えられないほど賃料は安い。言うなれば、土地としての西新宿にオフィスを構えたいが、高額な賃料は出せない。そんな企業向けの地帯である。
何の経験もない青年━━つまりは川野コウのために、キミズ叔父が借り上げてくれるオフィスとしては最上級のものだろう。