第58話『M4スティーブンス戦車』
(うお……)
頭では分かっていたが、実際に体験するたびに驚かざるを得ない。
砲塔の中にはM1エイブラムス戦車のような、狭く、しかし頼もしい金属の内部構造は見えない。
(まるで巨大なボールの中に入ったようだ)
そこにあるのは、基本的に曲面である。空間の効率的利用という意味では非合理ではあっても、それが防御の面では決して無意味でないことを彼は知っている。
「この360度曲面ディスプレイは軍艦や戦闘機のコクピットにも採用されつつあるというが……彼ら自身は戦車にも使われていることを知っているのかな……」
<ようこそ、少佐>
感動の溜め息を漏らしているローソン少佐を迎えたのは、既に乗り込んでいた仲間達ではない。人工知能のナビゲーション音声である。
車外に張り巡らされたセンサーによって、ローソン少佐の存在はとっくにM4スティーブンス戦車の人工知能ユニットに認識されていた。
後は追跡するだけである。車体をよじのぼり、砲塔のハッチから入ってくる━━そして、ウェルカムメッセージを流した。
ただそれだけのことであった。
車長席にすわったローソン少佐は、オートバイ型のハンドルを掴む。
<多段階生体認証をクリアしました>
通常のオートバイならば、左手のクラッチレバーがあるべき場所には、小指を差し込むスペースがあった。
指紋・静脈認証が直ちに行われ、ローソン少佐はこのM4スティーブンス戦車の特権モードを掌握する。小指を戦闘で失った場合を想定して、10本の指すべてで認証は可能となっている。
むろん、敵に乗員が殺害され、指を切り取られる━━などというグロテスクな状況への備えもぬかりはない。静脈認証の際はそれが『生きている』かどうかもチェックされ、不審な点があれば光彩や顔認証といった、さらなる生体認証を要求することができる。
これらのシステムを備えたM4スティーブンス戦車は、開発予算を獲得する過程において、史上初の『絶対に鹵獲再利用されない戦車』として議会にアピールされたものだった。
「ハロー、アンナ。今日の気分はどうだい」
<至極順調です>
「そいつはよかった」
アンナ、それはローソン少佐が人工知能ナビゲーションにつけた愛称である。
それは戦場でままあるように、公式なものではない。
そして彼以外の乗員たちも人工知能ナビゲーションを好きな名前で呼んでいた。歌手や恋人、あるいはコミックやアニメのキャラクター名で呼んでいる者も多い。
むろん━━中には神や天使の名前で呼ぶ者もいる。
「アンナ、自走モードへ切り替えだ。司令部前につけてくれ」
<了解しました。自走を開始します>
アンナは淡々と答えて、M4スティーブンスを発進させる。
自走と言ってもこの場合、『自』分で『走』らせることを意味するわけではない。
2035年における一般的な意味での自走。
つまり、『自』動『走』行である。
もっとも、ローソン少佐が命じる前にも、M4スティーブンス戦車は自動走行を実施している。
しかし、それはごく微速であり、20年にはすでにテストコースで実現していた自動走行である。
すなわち、輸送機から降車し、所定の場所で隊列を組んで停車するモード。言うなれば『車庫入れ』モードである。
人間とコンピューターの感覚は異なるものであり、幹線道路を決まった速度で走り続けることは、人間にとって簡単でもコンピューターにとっては、案外難しい。
しかし、込み入った駐車場の車列の間へ、バックでそのボディを滑り込ませることは、人間にとって面倒であったとしても機械にとっては比較的たやすい。
(おそらく今は……楽な方だろうな)
司令部へ向かって小走りほどの低速でM4スティーブンス戦車は進み続ける。そして、行き交う作業車両や人間を配慮して、何度も何度も停車する。
これらの処理はその膨大なプロセッシング・リソースからすれば、片手間にも等しいものだ。
(人工知能にナビゲーションされた、最新型戦車……か)
舗装された道路だろうと。草木が生い茂る野原だろうと。瓦礫の都市戦場だろうと。
技術によるアシストではどうにもならない、絶対重量やサイズの制約をのぞき、M4スティーブンス戦車は史上最高の走破性能を持っていると言われている。
それは人間が操縦するよりも、遙かに正確で細やかな判断を行えるからである。草原の小さなくぼみ、都市に転がる瓦礫の一つ一つまで、走破可能か判断しながら、M4スティーブンスは進むのである。
(これから戦いが始まったとして……人間が自分の手でこいつを操縦することがあるのだろうか……)
そんなことをローソン少佐が考えていると、不意にM4スティーブンス戦車は殺人にはほど遠い優しさのブレーキで停車した。