第54話『フランス・ボルドーにハムは孤立する』
「こりゃ一体、どうなっているんだ?」
彼の符丁はコールサイン・TKAMSK。
欧州のアマチュア無線家ならば、その羅列だけで彼がフランス在住であること、あるいは、ざっくりとした地方まで当てることが出来るかもしれない。
(いや待て。本当に……どうなっているんだ、この状況は)
小高い丘に建つ自宅の屋上から、お手製のアンテナたちと共に見下ろす故郷の光景は、平和そのものである。
フランス・ボルドー地方。
その名称からは、少なからぬ人々がワインを連想するだろう。
実際のところ、ジロンド川をいただくこの土地は2035年に至るもなお最有力のワイン産地であり、コールサイン・TKAMSKの眺める風景はのどかなぶどう畑のそれであった。
(……だーれもいないじゃないか)
━━基本的に先進国では。
誰かに雇われて働く職としての農業は人気がない。
土と埃、そして雨と虫。
原初の頃から変わらない『濃厚な野外』という環境そのものに耐えられないフランス人も少なくない。
結果として、ボルドーのぶどう畑における作業は、そうした『濃厚な野外』をいとわない移民が主力であった。
近年では、限定的ながら農作業ロボットの導入も進められたものの、ブランド・イメージへの影響や人工知能技術に一定の距離を置くフランス・E連合の傾向もあり、『伝統的』と称してもさつしかえない20世紀さながらの作業が行われている。
むろん、今は7月である。
たとえばボジョレー・ヌーヴォーについて基本的な知識を持つ者なら、その醸造期間と解禁日から簡単に逆算できる通り、ぶどうの収穫はまだはじまっていない。
(……それにしたって、誰もいないのはおかしいだろう)
普段ならば、農園を見回る誰かの姿があるはずだ。観光客が通りかかって、写真を撮っているはずだ。
忙しく作業をしている移民の姿があるはずだ。優雅にそれを眺めるオーナーたるフランス人の姿があるはずだ。
どこかに誰かがいて。何かしら行動しているはずなのだ。
それが今はどうだ。静まりかえり、まるで地方をあげての葬儀中ではないか。
「━━オヤジさん」
『おう、フォッシュのところの無線坊やじゃないか』
ぞわぞわとわき上がるような不安にかられて、コールサイン・TKAMSKは自宅の立つ丘から下りた。
ぶどう畑の1つに、知った顔を見つけて話かけると、相手は「何を青い顔をしているんだ」という顔で笑った。
『どうした、自慢のハンドメイドアンテナが壊れたか?』
「そうじゃないんだ。
どうしたんだ、これは。何だって誰もいないんだ。オヤジさんのところで雇ってる連中たちは?」
『何だって……と言ってもな』
くっくっくっ、とシニカルな笑みを浮かべながら、あと十数年で年金がもらえる年になるフランス人は。
そして、収穫時期になれば、数十人の移民を臨時で雇用する、ぶどう畑のオーナーはこう言った。
『みんな帰っちまったよ』
「帰った……? 2年前から働いていたスロヴァキアの彼も? チェコから来たあの姉さんは?」
『誰も彼も、さ。
いきなりα連合国と戦争が始まって━━知らないうちに終わってて。
しかし、通信だけは一向に回復しやしない。俺だって、パリの親戚とは直接何回か会ったっきりさ』
肩をすくめながら、ぶどう畑のオーナーは言った。
『道路情報も何もかもいかれちまって、まだ直っていない……ひどい渋滞の中を1日かけてパリまで行って、クタクタになって帰ってきて。
おまけに在庫のあるガソリンスタンドを探すだけでも大変さ』
「そりゃあ……大変だね」
『徐行運転してるらしいTGVの方が速いんじゃないか、ってな。まあ、駅まで行かないとチケットも買えないが。
こんな状況で、自分の母国が不安にならない奴がいると思うかい? もし、坊やがよその国で働いていたら、どう思う?』
「………………っ」
喉元まで出そうになった言葉を、コールサイン・TKAMSKはぐっと飲み込んだ。
(だったら)
そう━━情報が届かないのだったら。
なぜ、自分を頼らなかったのか。
なぜ、アマチュア無線家を頼らなかったのか。
(こっちは……今でも毎日、通信し続けているってのに……)
ベルギーと。スペインと。ポーランドと。イタリアと。
E連合のみならず、世界中と片っ端から通信し、情報を集めているというのに。
(……いや、でも無駄なんだ)
それら全ては点と点の情報でしかない。
どれだけ情報が集まったところで、それは伝わらない。見えない無線という、一本のケーブルですらないものでつながっているだけの情報に過ぎない。
しかも、それを集約する機関もない。
聞けば、いくつかの国では整理した情報を地元のマスメディアに連携する運用をはじめているらしいが、少なくともコールサイン・TKAMSKにはそんな話は来ていないし、自分から言い出したこともない。
(そんな状況で……俺1人に何ができるっていうんだ)
フランスのボルドー地区で働いている移民の誰かについて、どんな情報の仲立ちができるというのだ。
(けど、それでも……)
発音はひどいが愛想だけは良かったスロヴァキアの彼も、息を呑むような美人だが酒を飲むと大荒れするチェコの彼女も。
せめて母国がどんな状態か。平穏か。そうでないのか。
晴れているのか。雨なのか。
そのくらいなら、アマチュア無線家のネットワーク網を使って、いくらでも伝えられたはずなのだ。
『何か言いたそうだが、どうした?』
「……いや、みんな困っているよね、って思ってさ」
━━それが当たり前な一般人の認識とはいえ。
アマチュア無線の威力について、何も知らないぶどう畑のオーナーに対する、もどかしさが。
何より、これまで様々なことが出来たはずなのに、何もしてこなかった自分自身に対する、苛立ちが。
「早く直るといいよね。なにかも、さ」
『そうともさ。ま、ナチが攻めてきたわけでもないんだ。
俺達はぶどう畑を眺めてのんびり待つしかないさ』
━━ナチが攻めてきたわけでもない。フランス人なら、普通に思いつく感想である。
(……本当にそうなんだろうか)
確かに巨大な死が吹き荒れているわけでもない。特定民族が集められて、いずこかへ消え去るわけでもない。
(……本当にそれだけなんだろうか)
だが、今、フランスが置かれている状況をつくった相手は。
(……α連合国は)
フランスに宣戦布告し、即時の停戦へと追い込んだ相手は。
(ひょっとするとナチなんかより……ずっと恐ろしい相手なんじゃないか?)
コールサイン・TKAMSKの胸には言葉に出来ぬ不安が広がる。
しかし、それに応える者はいない。応えられる者はいない。
無線機の前にいない彼は、世界のいずこともつながらず、ただ、このボルドーという故郷で孤立しつづけているのだ。