第45話『羽田よ、彼は帰ってきた』
東京・羽田空港。
戦前にまで遡る長い歴史を持つ国内線用の空港にして、21世紀になってから成田と熾烈な競争を繰り広げている、国際線用の空港でもある。
(なんだか、ずいぶん久しぶりに帰ってきた気がするな……)
同じ機体から降りてきた乗客たちが、はっと何かに気づいたように『The・フォン』を取り出して、電話を始めている。
おそらく通話がつながった瞬間、ある者は微笑み、ある者は涙ぐみながら、深い感情のこもった言葉を電波の向こうへと届けているようだった。
(そうか、電波が通じるんだ……つまり、日本国内は通信が生きているんだな)
カナダ国内やα連合国内もそうだったというのに、やはり海外にいると、そこは外国で、あくまで国内は日本なのだろうか。
「……日本、なんだな」
黒い髪の東洋の人々があふれ、背は高すぎず、そして肥満体は数えるほどしか見あたらない。
通路上にはゴミもちらばっていないし、喧噪も、大声もない。といって、北欧ほど沈黙に支配されているわけでもない。
それは確かに川野コウの知る日本という国の光景だった。
「懐かしい……な」
日数にすれば、日本を離れていたのはほんの半月にも満たないというのに、すべてが懐旧の感情をともなって押し寄せてくる。
ふと、嗅覚をくすぐるものがあった。くんくん、と空気の匂いを嗅いでみる。醤油の香りだった。
(へえ……)
外国人の定番ジョークだろうと思っていたが、『日本につくとソイソースの匂いがする』というのは本当らしい。
(……あれかな?)
ふとあたりを見渡すと、シックな店構えのそば屋があった。大判のガラスウィンドウの奥では、職人がそばを打っている最中だ。
とすれば、当然、そばつゆも準備されているわけで、その香りが漂ってきていたとしても、不思議はない。
(もちろん日本中の空気から醤油の匂いがするわけはないけど……ああやって、当たり前に醤油を扱うものがあふれているから、そんなふうに言われるんだろうな……)
であれば、某国に行けばキムチの香りがするし、はたまた某国に行けばナンプラーの匂いがするのだろう。そして、それは外国人にとって慣れない匂いであり、強く感じる香りだ。
したがって、ご当地ごとの調味料や香辛料があれば、それぞれの匂いが『○国につくと……』の匂いなわけだ。
「………………」
もう一度、コウは匂いを嗅いでみる。すでに醤油の香りはしなかった。職人は打ってのばしたそばを切り分けている最中である。
きっと、コウの嗅覚が祖国に順応したのだろう。
と、その時。
「━━どっかーん!!」
「っ、と!」
「1人で鼻ひくひくさせて、何たそがれてんの?」
背中に爆撃。いや、大質量の直撃なので、艦砲射撃と言った方がよいかもしれない。
(お、重い……!!)
どうやらコウの背中に突撃してきた誰かは、首に両腕をまわしてぶらさがるような姿勢になっているらしい。息苦しくなる呼吸。だが、醤油の香りに慣れた嗅覚はしばらくぶりの髪の匂いを鋭敏に検知していた。
「キノエ……苦しい! はなせって!」
「えっへへー」
ぱっ、というヒューマンSEが耳元で聞こえた。そして、後方からはブーツが床に着地する音も遅れて聞こえてきた。
「おかえり、コー兄!!」
振り向けば、そこには1人の少女が両腕を広げて笑っていた。
「1人寂しく帰国した、かわいそうなコー兄のために、かわいい妹のキノエちゃんが迎えに来てあげましたよー!」
「あ、そう。そりゃどうも」
「え~、つれない~! 不満不満! あたしは不満ですぅ~!!」
「重い。頭をぐりぐり押しつけるな」
一回り以上差のある身長で━━つまり、コウの胸のあたりに頭をぐりぐりと押し当てながら、キノエと呼ばれた少女は不満げにもたれかかってくる。
(またちょっと太ったかな……)
体重にして50kg前後だろうか。今度は首ではなく、背中に回された両腕の感触も、わずかながらに太くなったのではないかと思えてくる。
「キノエ。お前、体じ━━ぐ、え」
「年頃の女の子にウェイトの話とか、デリカシーなさすぎ!!」
「い、痛い……わかったわかった、俺が悪かったから、そんなに締めるな……無理。そろそろ無理。肋骨ヒビはいる」
「ぶーぶーぶーぶー」
ブーイングと共に、意外なほど強い力でコウの胴体は締め付けられる。その分、少女の上半身も密着するのだが、たんわりと実った感触よりも今は骨がきしむ痛みの方が圧倒的主張力だった。
「まあ、そろそろ許してあげる」
すう、とコウの胸元で大きく息を吸い込む音がした。
「えー、あらためまして。
おかえりなさい、コー兄! 11日と13時間42分ぶりだねっ!!」
「ただいま、キノエ。
カウントしてたのかよ。時間の長さで課金でも発生するのか?」
「そんなことはないけど、あたしが毎日、寂しさで枕をぬらしていた事実を知ってもらおうかと」
「アホらしい……」
「あー! でもでも!! そんなことより! でもでも!!」
くりくりとよく動く瞳で、やや見上げがちに兄を━━つまり、川野コウを見上げながら、キノエと呼ばれた少女は何かを思い出したように言った。
「コー兄ってば、どうやってメールしたの? α連合国って通信がつながらないんでしょ?」
「……え?」
「え、じゃないよー。昨日、急にこの便で帰るってキミズの叔父さんにメールしたでしょ? それであたしがあわてて迎えに来たんだよ?」
━━不意に、忘れかけていたトラウマがよみがえったときのような感覚だった。
(……そうだ。そもそも僕は)
日本国内に戻ってきて、喜びながら、あるいは涙ぐみながら、家族に、知人に電話をかける人たちをつい先ほどまで見ていたのだ。
そして、しばしの感慨に浸り、自分もそうしようと思っていた━━ところが、背後から妹の急襲を受けてしまった。
(いきなり日常に引き戻されたもんな……)
祭りのあとに、そのまま夜勤の仕事へ向かうとこんな気持ちになるのかもしれない。
だが、今回の場合、それは異常なのだ。まだ日常へ戻るフェイズにはなかったのだ。川野コウと日常をつなぐ『通信』という線は切れたままであり、連絡先をタップすることではじめてつなぎ合わせることができるはずだったのだ。
「…………ール、って」
「へっ?」
「メール……ってさ。どんなのだった? 何時に届いた?」
「なにこわい顔して。これだよー。叔父さんからあたしに回ってきたやつ。返信いっぱいしたけど、ずっと無視するんだもん。
あ、それとも飛行機の中って見られなかった?」
「………………」
キノエが差し出した『The・フォン』の画面には、そっけない文章で今日の昼時に━━つまり、現在とほとんど変わらない時刻に、羽田空港へ日本航空の臨時便で帰ってくる、と書かれていた。
「そう……か。メール、か。メールが届いていたのか」
「そうだよー。メール届いたよー。あ、でもちょっと不満。
送るなら叔父さんじゃなくて、コー兄のことを一番想ってるあたしがスジじゃない!? それで『愛を込めて』とか『帰ったら大事な話がある』とか付け加えるべきじゃない!?」
「そりゃただの死亡フラグだろ……ああ、まったく。
お前といると調子が狂って仕方ないよ」
コウはぐったりと肩を落としつつも、あるいは調子が狂っていたのはこれまでで、今こそが本調子なのかもしれないとも思う。
(……こいつがうるさくてたまらない、それこそが)
自分にとっての日常であり、そして平穏なのだろうと思う。