第37話『大西洋に原子力潜水艦ル・テリブルは佇む』
欧州は。すなわち、E連合はひとつ━━と誰が言い出したものか。
「帰投命令……? それは本当か?」
『はい、艦長』
しかし、我が道を行こうとするフランスの独自性は、たとえE連合の統合が深まれども、決して変わることはなかった。
その最たる面は、軍事に現れている。
「どういうことだ……?」
2010年代に就役した原子力潜水艦ル・テリブルは、フランス海軍が誇る原潜の中でも比較的古い艦である。
2035年現在では最新型へのゆっくりとした交代が進んでいるものの、いかんせん、原潜というものは建造に凄まじいコストと高い技術が必要とされる。
ナポレオンの時代ならばさておき、世界の中でも五指にギリギリ入るか入らないか、というレベルまでフランスの相対的地位が後退した時代にあっては、そうそう新型を建造できるものではない。
「本国で大災害でも起こったのか?」
『さあ……少なくとも最悪の事態勃発というわけではないようですが』
しん、と静まりかえった司令塔。
副長が肩をすくめると、ロッシュ艦長は難しい顔で考え込んだ。
言うまでもなく、原子力潜水艦ル・テリブルの役割は━━中でも弾道ミサイル搭載原潜の役割は核抑止力である。
もっとシンプルに言えば、核戦争が始まったそのとき、搭載するSLBMを敵国に叩き込んで破滅させることである。
そしてそれゆえに実戦を経験したことはない。
むろん、これはα連合国も、そしてロシアも、イギリスも中国も……戦略核搭載の弾道ミサイル原潜を保有する各国はすべて同じことである。
(わざわざこの艦に連絡してくるということは……)
その意味をロッシュ艦長は考えこんでしまう。
元より、大西洋の深海にその身をたたえる原潜ル・テリブルへ、地上から通信する手段は皆無に近い。
基本的に水は電波を通さないし、レーザーの類いも然りである。
むろん、例外はあり、極超々波と呼ばれる凄まじく波長の長い電波であれば、海中にも届く。
だが、そんな波長の電波は、発信するだけでも大きな山の斜面をまるごと使うような、長大アンテナが必要となってしまう。
「今回の帰投命令は音波通信なのだな?」
『曳航ソナーからの受信です。
3分後に照合のために再送が届きます』
「そうか……」
そして、水中に情報を届ける方法は他にもある。
それは音波である。
一般にもよく知られているソナー技術によって、音波を発信し、海中の潜水艦が受信するというわけである。
大気中に生きる人間のイメージとは反対に、水は音を非常によく伝える。しかもその速度がはやい。大気中の音速が空気密度によって変わるように、水中でも温度や水圧によって変化はあるものの、水中における音速はおおむね大気中の4倍にも達するのである。
(もちろん……)
ロッシュ艦長は思う。
空気中で音が減衰するように、水中でも極端な遠方まで音は届かない。
だが、深度1000メートル前後に存在するサウンド・チャンネルと呼ばれる領域では、物理法則の妙により、なんと数百、数千キロの彼方まで音が届くという。
(つまり、我々は鯨の物真似で通信をしているというわけさ……)
フランス海軍は極超々波通信のバックアップとして、このサウンド・チャンネルにおける鯨の声に似せた音声信号を、秘密暗号システムとして使っているのだ。
『照合の再送が届きました。解読します。
ル・トリオンファン……ル・テリブル……ル・テメレール……ル・ヴィジラン……。
順序に間違いありません、「直ちに任務を中断し帰投せよ」の意味です』
「信じられん。どう思う、副長」
『ひょっとすると……衝突事故でもあったのかもしれませんな』
年配の副長が呟くと、ロッシュ艦長は冷たいものを背筋に感じた。
原子力潜水艦は基本的に4隻がセットで運用される。
すなわち、現在のル・テリブルのように1隻が任務中。そして、1隻が任務海域まで移動あるいは帰投中。さらに1隻は整備中。最後の1隻は様々な局面のための予備。
これで4隻、1セットである。
(とすると、先だって我々と交代して帰投した艦が……)
他国の艦船と衝突事故でも起こしたのではないか。
それが副長の推測であった。確かにそのような事態になれば、いったん、任務中の原潜を引き上げることはあり得ない話ではない。
「衝突としても、怪しい音はキャッチできていないぞ」
『しかし艦長もご存じの通り、ソナーには━━正確には水中の音響伝播には死角が発生しますからな』
「たまたま我々が聞こえなかった可能性もあるということか?」
『あるいは、衝突そのものは大したものではなかったかもしれません。
ですが、大々的にマスコミにかぎつけられて、政府が潜水艦の点検を表明したとか……何はともあれ、ここで議論しても仕方ありません。
まずは帰投すべきでしょう』
「うむ……」
『右方向に不明物、近づく!』
ロッシュ艦長が決断しようとしたその時、ソナー員が叫んだ。
司令塔にいる者すべてがぎくりとする。ここは大西洋、深度数百メートルの深海である。
(そんなところへ近づいてくるものがあるとすれば……)
生きている鯨か。
あるいは、機械の鯨か。
つまり潜水艦を沈めるための━━
『魚雷か!?』
『いえ……どうやら潜水艦です!』
副長の問いかけに対するソナー員の応答に、先ほどぎくりとした全員が胸をなで下ろした。
同じ潜水艦であれば、決して珍しいことではない。α連合国のように多数の原潜を擁する海軍であれば、戦略核を搭載した原潜には攻撃型潜水艦が護衛につくものだ。
(皮肉なことに今の我が海軍には、そのような余裕はないが……)
護衛の潜水艦がいないとしても、監視の他国潜水艦がやってくることは大いにあり得る。
冷戦時代に米ソの潜水艦たちが世界中の海でにらみ合っていたように、だ。
『型式は分かるか?』
『スクリュー音……照合困難ですが、ロシア海軍ではない模様』
『艦長、どうしますか』
「なに、慌てることはない。堂々としていようじゃないか。戦争をしているわけじゃないんだからな」
気楽に笑うロッシュ艦長につられて、司令塔内には和やかな空気が流れた。だが、艦長自身の胸中は異なっている。
(ロシア以外の潜水艦だと?
どこだ? この海域に我々がいることは、最高機密のはずだ!!)
戦略核を搭載した弾道ミサイル原潜は、核戦争における究極の切り札である。
水爆の直撃にも耐えると言われる核サイロも、爆撃機に搭載された核爆弾も、結局は地上から、航空基地から、今ある人間の社会から切り離せない。
その存在も、位置も、基地も隠しきれるものではなく、相手も核兵器を使ってくるならば、絶対安全とは到底言い切れない。
もちろん、海上艦艇も然りである。
海の上を飛んでいる旅客機が衛星写真に映るようになって、どれほどの時が過ぎただろう。もはや地球上に絶対秘密の場所など存在しないのである。
(だが、海中ならば……)
そう、海の中ならば。
三次元的な意味でこの地球のほとんどを覆い尽くす海洋空間。
すなわち、深度0メートルから、潜れる限りの深海まで、すべてを使える原子力潜水艦だけは、敵の核攻撃からも逃れ得る。
(ステルス爆撃機だって、基地にいるところを見つけられるのだ……)
海中は空中から、衛星から見えない。レーダーにも映らない。ソナーは常時使えるわけではないし、聴音システムも全世界を網羅することなどできない。
(人類が造り上げたモノの中で、歴史上唯一……絶対的な隠密性を確立したのが原子力潜水艦だ)
━━そんな原子力潜水艦が何者かに見つけられるということは、大きな意味を持つのである。
ル・テリブルが探知されたということは、自艦の静粛性能がすぐ近くにいる別の潜水艦の探知性能に負けているということなのだ。
(しかも相手が不明とは……)
友軍艦ならよい。仮想敵国艦なら、顔馴染みというやつだ。
しかしそのどちらでもないというのだ。
(どこの国だ? 誰だ?)
その心当たりがロッシュ艦長には思いつかない。
まさかたまたま潜行中の民間探査艇でもあるまい。
『━━! 所属不明の潜水艦から水中電話です!』
「なんだと!?」
そして、あろうことか相手は自ら名乗り始めた。
何度も繰り返しように海中でも音波は伝わる。リ・テリブルのすぐ隣にいる所属不明の潜水艦は、ややたどたどしいフランス語で語りかけてくる……。
『平文です。読み上げます。こちらはイギリス海軍、潜水艦ヴェンジャンス……』
「ヴェンジャンスだと!?」
『……我々と同じ戦略核を搭載する原潜ヴァンガード級の4番艦ですぞ、艦長』
『貴国とα連合国との停戦を祝し、駆けつけたものである。
帰投の安全なることを祈る』
「なにっ!? 我が国とα連合国が……停戦だと!?」
愕然とするロッシュ艦長の思いは、ル・テリブルの乗員全てに共通するものだった。
原子力潜水艦。
その圧倒的な航続力と、電気分解で生産する酸素によって、出航から帰投まで数ヶ月にもわたって、常に潜水し続ける、通常動力型の潜水艦とは異なった、真の意味での潜水艦。
その通信手段はきわめて限られるため、帰投した乗員は何日、何週間、何ヶ月も遅れて、世界の大ニュースを知らされたり、配偶者から離婚の意志を伝えられることも珍しくない……。
「そんな馬鹿な!!」
そして、戦争の始まりと終わりをも━━この時は、同時に知らされたのである。