第32話『楽天家のミハエル大尉と心配家のヴァルタザール中尉』
アウグストドルフ。
それはベルギー・ブリュッセルとドイツ・ベルリンのほぼ中間地点に位置する都市であり、大西洋からはおよそ150kmほど内陸にある、欧州最大規模の演習場でもあった。
「この状況、どう思う?」
『そうですな。率直に言って、21世紀最大の危機では?』
欧州統合軍・第一機甲師団。
その戦車中隊長をつとめるミハエル大尉が問いかけると、もっとも信頼のおける相棒にして、彼のレオパルト3戦車において砲手をつとめるヴァルタザール中尉が、淡々と応じた。
広大なアウグストドルフの演習場には、欧州統合軍のレオパルト3戦車のみならず、無数の歩兵戦闘車や自走砲、さらには攻撃ヘリコプターまでが展開している。
(そりゃあまあ、重大インシデントなんだろうが……な)
ミハエル大尉は考える。
昨夜遅くから、どうにも騒がしく兵舎を走り抜けていく奴らがいると思っていた。そして、夜明け前になって、隊長クラスに呼集がかかった。
その時、彼ははじめて全面的に通信が途絶していることを知った。
(だからといって、ソ連軍が近くまで来ているわけでもないだろう……)
同時にミハエル大尉をはじめとする幹部クラスは聞かされた。
市街地は停電しており、どうやら大規模なインフラのトラブルがあったらしい、と。目下、欧州統合軍内で状況把握を試みている、と。
ミハエル大尉たちはそのまま眠い目をこすりながら夜明けを迎えた。
そして、部下達は普段よりも30分ほど早く起床。さらには師団長の判断によって、緊急出動を想定した全面待機につくこととなったのだ。
━━ミハエル大尉の考えるところでは。
(このまま終わってくれれば、上等な訓練そのものなんだがな……)
平時においてこんな筋書きは、神の織りなす現実ではなく抜き打ち訓練のシナリオとしてこそ、採用されるであろうと思われるものだった。
(が、残念ながらこいつは現実だ……)
未だ抜けない眠気に苦しめられながら、ミハエル大尉は空をみあげた。
ドイツ・アウグストドルフは第二次世界大戦以前にまで遡ることができるほどの歴史ある大演習場である。
戦後のドイツ連邦軍は元より、NATOと呼ばれていた西側連合軍の兵達が、その剣を磨くために集い、駆け、走り、転び、立った場所であった。
そして、冷戦がようやく終わり、21世紀が来て。
欧州統合軍の確立と共に、NATOが発展的解消を迎えてからは、アウグストドルフは演習場以外の役割を担うようになった。
すなわち、アウグストドルフは各国の最新兵器が集う、欧州統合軍・最精鋭部隊の駐屯地として生まれかわったのである。むろん、演習場としての役割も健在であり、まさにあらゆる訓練をホームで行うことができるようになったのだ。
(そんな俺達が今……『21世紀最大の危機』を迎えているだって?)
ミハエル大尉にとって、ヴァルタザール中尉の言葉は考えれば考えるほど、冗談にしか聞こえない。
「ははは、脅かすのはやめてくれよ」
ミハエル大尉はまだ少年といってもよい新兵が配るコーヒーマグを受けると、努めて気楽に笑った。元より、ヴァルタザール中尉は表情を意識せねばならない仲ではないのだが。
(案外、こいつもパニくってるのかもしれんからな……)
そんな彼なりの気遣いのつもりだった。
『いいえ、隊長』
だが、ヴァルタザール中尉はそんなミハエル大尉の推測を━━いや、願望を真顔で否定すると、熱いコーヒーを飲み干しながら、こう言った。
『こいつは尋常な事態ではありません。
昨夜からの通信途絶……それだけならいい。どこかの通信会社がばかでかいトラブルをやらかしただけです』
「そうさ、それを俺は祈ってる」
『しかし一向に回復する様子がない。加えて、空には妨害電波が飛び交っている。それも継続的に。こいつは……間違いなく戦争ですよ』
「だから、脅かすなって」
『いえ……』
ヴァルタザール中尉は真顔のまま首を振る。
(おいおい……)
時々、冗談なのか本気なのか、区別がつかなくなる男だとは思っていた。
(こういう時は……もっと分かりやすくしてくれよ)
今のところ、ミハエル大尉はあくまで冗談であってほしいと思っている。あるいは、願っている。
だが、彼はすぐにその判断が間違っていることに気づかされた。
『上空に降下物!』
「なんだと!?」
ミハエル大尉は、そして彼と同じようにアウグストドルフの演習場付近で待機を続けていた欧州統合軍の最精鋭たちは、一斉に空を見上げた。
何かが晴れた空に見える。
眠い目に染みる午前の太陽と空の青に紛れて、黒いコショウ粒のようなものが点在しているように見える。
『隊長! 乗車してください!!』
だが、ミハエル大尉がその正体を見極めようと目を細めた瞬間、ヴァルタザール中尉が叫んだ。
それどころか、彼はすでに操縦手の首根っこをつかまえて、レオパルト3戦車に押し込もうとしているではないか。
『あれは敵です!!』
「!!」
その瞬間、ようやくミハエル大尉も己の胸中を支配していた希望的観測を捨てた。