第02話『川野コウ、スミソニアン博物館へ行く』
「ここは知ってる?」
「……スミソニアン博物館」
「そう。そのコンピューター館。向こうには航空宇宙館があるわ。
どちらも米国を世界の超大国におしあげた技術の結晶が展示されている場所よ」
パーティは慣れた様子で博物館の門をくぐると、大ホールの一角に立ち止まった。
「じゃあ、このコンピューターは知ってる?」
「……ええっと、あるふぁ…ゴー?」
英語の展示文をたどたどしくコウが読み上げると、パーティはくすくすと笑う。
「イエス。これはAlphaGoという巨大コンピューティングシステムの1ノードよ。
結構大きいから全部は展示できなくて、1ノードだけ展示しているの」
「………………」
パーティはただのプラスチックと金属の塊にしか見えない展示物の前で、誇らしげに胸を反らしている。
2035年の標準的な若者であるコウが当たり前に認識しているように、それはコンピューターといっても、ディスクを入れる『トレイ』もなければ、ひどく不格好な『鍵盤』もない。
もちろんマウスもついていなかった。
「もし勘違いしていたら訂正するけど、これ1ノードでもどんなパーソナル・デバイスにも負けないくらい強力なのよ?」
「そうは言われても、こいつが何年くらい前のものなのか、ええっと……2016年のコンピューターなんだね。
なんだか実感がないな。ずいぶん昔だ。この頃のコンピューターはキーボードとかマウスがついていたって言うけど」
「ご名答。もっとも、今でもプロフェッショナルユースにはついているけれどね。
キーボードを叩き、マウスを握るくらいに難しい作業する人のコンピューターにはね」
「まあ、そうだろうけど……」
妙に意味深なそぶりを見せるパーティの真意が、コウにはよくわからなかった。
受付ブースではアジアから来たらしい観光客が、聞き覚えのない言語で話しかけている。
もっとも、受付といってもそこに案内員はいない。
話しかけているのは、大きなディスプレイである。そこには各国語で『まずここに話しかけてください』と表示されている。
そして、マイクから認識された観光客の音声は、自動的に解析され、言語種別を判断。たちまちベトナム語の案内が表示されていた。
(へえ……)
反対側の一角では、カメラに向かって、何か両手で身振り手振りをしている観光客がいる。恐ろしく原始的なコミュニケーション手段にみえるが、その意味も自動で解析されたのだろうか。
カメラと隣接するディスプレイには、このコンピューター館とは別の場所にある、自然科学館へのルートが表示されていた。
「……米国の自動案内は進んでいるね」
「そう思う? 日本の人に言われると光栄だわ」
「あれは全部、人工知能がやっているなんだろう?」
「そうよ。ディープラーニング技術による人工知能のナビゲーション。
そして、その祖先にあたる一台がこれ、よ」
そう言いながら、パーティは展示されているAlphaGoを指さしてみせた。
なるほど、そういうものなのか、と首をひねるしかないコウに向かって、彼女はぷっくりと頬を膨らませてみせる。
「ちょっと、分かってないでしょ」
「うん、分かってない」
「素直で大変よろしい……じゃなくて。
私たちの国ではあらゆる分野で人工知能が使われているわ。
その発展において、重要なブレイクスルーになったのが、ディープラーニング技術なの。AlphaGoはその立役者。世界にもっともわかりやすい形で、その成果を見せつけた始祖なのよ」
なおも分からない顔をしているコウに、パーティは早口で説明する。
人間に到底勝利できないと思われていた囲碁というゲームで、世界チャンピオンに勝利したこと。それは計算能力や総当たりではなく、ディープラーニングによる人工知能の進化で達成されたこと……
「ふうん。とすると、こいつ自体はただの箱なわけだ」
「なかなか鋭いところを突くわね」
「コンピューターで重要なのはハードウェアじゃなくて、中に入っているソフトウェアだと、学校で教わったからね」
「けれど、それだけじゃ50点ね」
「?」
罠にかかった可愛らしいウサギを見るように、パーティは微笑む。
「次はこっちへ来てちょうだい」
「………………」
その意味を理解しかねるままに。彼女の手招きに導かれるままに。
川野コウはスミソニアン博物館のコンピューター歴史エリアへと足を踏み入れた。