第15話『極限にして最速の電子攻撃は完了している』
『ブリュッセルDCの作戦状況は良好です。
現在94%のネットワークを『支配』しました。残りのネットワークに対する『孤立化』および『無効化』も完了しました』
『最上位ルータに対するログ取得コマンド送信を確認。偽装ログを抽出・ダウンロードさせています』
「どうやら長年かけて解析してきた秘密脆弱性は役に立ってくれているようだな……」
ブリュッセルDCにおいて、サロン主任の部下たちが何の異常も示していない動作ログを閲覧している頃。
大西洋を隔てたα連合国NSA本部では、淡々と読み上げられる状況報告を聞いた、ロバーツ中将がほっと胸をなで下ろしていた。
(秘密脆弱性……本当にうまく行くものか半信半疑だったが、ここまでの威力があるとは)
秘密脆弱性とは、一言でいえば世間に公開されていないセキュリティホールである。
本来、悪意のクラッキングや情報漏洩につながるセキュリティホールは、どんな種類のものであれ、迅速に公開されることが望ましい。
しかし、たとえばハード・ソフトの開発元がそれを把握したならば、公開する前にセキュリティホールを修正してしまった方が良い。善意の第三者が発見したセキュリティホールを、世間に公開する前に開発元へ伝達するケースも珍しくない。
━━だが。悪意とは言わないまでも。
(何らかの企みを持った第三者がセキュリティホールを発見したら?)
そして、注意深くそのセキュリティホールを隠したままでいたら?
世界最高の電子諜報機関であるNSAが隠し持つ秘密脆弱性とは、まさにそうしたセキュリティホールである。
それは、莫大な件数に及び、当然のように公開されていない。
秘密裏に修正したまま、長いときが経ってから公開された例もある。かつて世界中で使われていたDES方式の暗号は巨人IBMが原型を開発したものだが、当時、まったく知られていなかった攻撃方法に弱かった。
結果として、NSAの助言によって改修されたバージョンがリリースされた。その当時、知られていなかった━━つまり、NSAやIBMだけは知っていた攻撃方法は差分解読法と呼ばれる。
これは最も公益に資する方向で、秘密脆弱性が扱われた例と言えるだろう。むろん、2035年の現在もまだ秘密のヴェール包まれたまま、こっそり修正された幸せな脆弱性が無数に存在する。
だが、あえて修正されていない脆弱性も無数に存在する。
(いつか。どこかで。何かの役に立つかもしれない……)
そんな程度の曖昧な可能性のために━━しかし、国家非常事態における、きわめて有効な攻撃のために、NSAは秘密脆弱性を淡々と発見しては、リスト化し続けていたのだ。
ブリュッセルDCの最上位ネットワークルータ・スイッチに対する攻撃で、彼らはそれを最大限に活用した。
ルータ・スイッチの開発ベンダーですら発見できていない、恐るべき脆弱性を利用して、あらかじめ狙い定めていた機器の制御を完全に乗っ取り、外部ネットワークとの通信を99.9%絶ってしまったのだ。
(それでいて、動作は正常なように見せかける……)
これがサロン主任と監視チームが確認した『緑』のLEDであり、しかし現に通信が絶たれていることで、ブリュッセルDCのアラートシステムは異常を知らせたのである。
(皮肉なものだな……)
アラートシステムは正常動作しているのに、人間がそれを信用しなかったのだから。
かくして、ブリュッセルDCにおける99.9%の外部通信は絶たれた。
しかし、残り0.1%はNSAとの隔離通信セッションとして維持されていた。しかも、この隔離通信セッションを利用して、NSAは次々と下層のネットワーク機器を『支配』していったのだ。
むろん、ここでも秘密脆弱性が最大限に活用された。
重要なのはサーバー・コンピューターそのものには、侵入していないことだった。なぜなら、ブリュッセルDCから外に出られない通信には、いかなる意味もないのだ。
サーバー・コンピューターそのものを『支配』する必要などないのである。
道路にたとえるならば、NSAはすべての信号機を自在に操り、赤にしてしまった。これがネットワークルータ・スイッチに相当する。
サーバー・コンピューターそのものは言うなればクルマであった。そして、全てが赤信号であれば、クルマは交差点で止まるしかないのである。
(つまるところは……)
すでにブリュッセルDCは死んだのである。
表面上、サーバー・コンピューターが正常に動いているように見えたとしても、外部とネットワーク通信ができなければ、単なる産業廃棄物と変わらない。
「くっくっくっ」
自然と笑みが浮かんでくる。
なんたる破滅的事態。なんたる効率的電子破壊。
ロバーツ中将は快感を覚えずにいられなかった。
攻撃を受けているのはブリュッセルDCだけではない。およそE連合に存在する、ネットワーク通信の拠点、そのすべてが攻撃されているのだ。
(たった一つの爆弾も落とずに……しかし、マッハ10よりも速く……)
データセンター。通信事業者の拠点。大学。むろん政府機関や軍組織。。
所在地すら公表されていない、警察や諜報機関の拠点すらも、NSAは事前に把握しており、攻撃対象としている。
(なぜなら、インターネットでは自らの位置を偽ることはできないからだ)
名前も通信内容も隠すことはできても『そこにいる』ことまでは隠せない。これはインターネットを支える通信ネットワークの根本である。
それこそがリアルワールドとの本質的な違いであり、そして、NSAが攻撃開始にあたって歴史上、どんな軍隊すらも持ち得なかった正確な攻撃対象の『地図』を作成できた理由である。
(一体どんな天才なら、この攻撃に対応できる……)
すべての通信が『支配』されたこの状況で。
(電話も使えない……メールも無理……メッセージングサービスも、むろんSNSも……およそどんな通信も使えない状況で!)
2035年の現代から、突如として産業革命以前まで後退したような通信・コミュニケーション状態において、どんな才能が、どんな能力が、抵抗する術を持つというのか?
「……完璧だ……」
うっとりと笑いながら、ロバーツ中将は呟くのだった。