プロローグ 『かくも神聖なる四文字はPDPの作法にて示される』
その地点の座標は北緯38度53分にして、西経77度02分。
200年の歴史を誇るこのα連合国・議会議事堂の地下深く、数本の鉄道が通っている。
それは議会関係者だけが利用できる贅沢な、しかし合理的でセキュリティを確保した閉鎖地下鉄であった。
駅の構成はシンプル。
議会議事堂と上院・下院の関係者が詰めるビルを直通するのみ。
そんな地下鉄に、ささやかな延長線が設けられたのは2030年のこと。
そして、新駅に直結した施設において、それが稼働したのも同年のことだった。
『遂にこの時が━━技術的特異点がやってきた』
おごそかにある学者が言った。
彼らの眼前には巨大なコンピューターシステムが鎮座している。
今日は前夜祭。正式な開所式に先立っておこなわれる、ごく限られた関係者だけの宴であった。
『我々、人工知能技術者は長い間、この日を待ち望んでいた』
『我々、人工知能技術に理解を示す富裕層は、この日を予想していた』
『我々、人工知能技術を徹底利用しようとする政治家は、この日を恐れていた』
その場所に集った人々は、おおむね三つのグループに分かれる。
一つ。この巨大コンピューターシステム━━古い言い方をするならば、スーパーコンピューターと言われるような怪物システムを、実際に設計し構築した技術者たち。
一つ。その構築に要するに莫大な予算をスポンサードし、資金面から支えた金持ちたち。
最後に一つ。その目的を理解し、行政・法律面でバックアップし、得られる成果を最大限に活用しようとする、政治家たちである。
『人工知能……それは長い間、物語の中にある夢想だった』
『だが、21世紀初頭のブレイクスルーが遂に人間の知性に匹敵する……いや、超越する人工知能を可能とし、夢想は現実となった』
『今や2030年。その成果は世界中で花開きつつあり、夢想と現実は入り交じって、夢現となった』
無人で細やかなレシピを再現する調理システム。
自動運転を実現した乗用車。
人工知能技術の応用事例は枚挙にいとまが無い。
『しかし』
『だがしかし』
『人工知能とは、所詮コンピューターによって実現される知能』
が、賛辞と希望に満ちていた彼らの声は急激にトーンダウンする。
『2030年の今。すでにノイマン型コンピューターの進歩は終息しつつある』
『バイオコンピューター、量子コンピューター……それらはとうとう物にならなかった』
『我々の造り上げたこの巨大人工知能システムもまた、将来の発展を制限されている』
彼らは見上げた。
そこに鎮座する巨大なコンピューティングシステムを。
ワシントンDCの地下奥深く。ポトマック川の豊富な水流を引き込んで、万全の冷却体制を整えた、史上最大規模の計算能力を持つ、人工知能システムを彼らは見上げた。
『未来なきこのシステムを、我々はこう名付けた』
『人間を超える知能を持ち、我が国を、世界を導くシステムを神に擬して、こう名付けた』
『その名は━━国家戦略人工知能システム、『ハイ・ハヴ』である』
四つの神聖なるアルファベットを指で虚空に描きながら、彼らはその名を唱える。
『おお、ハイ・ハヴ』
『我らが、ハイ・ハヴ!』
『歴史よ、人よ、ここに見よ! 今、新しい時代が始まる!』
『風に揺れる木の葉のごとく、定まらない人の世の摂理に。
気まぐれな大衆の投票行動に』
『もはや国家政治が惑わされることはないのだ!』
『スキャンダルにも、急病にも、テロによる急死にすら、それは揺らぐことはない』
『もっとも堅牢で、もっとも明確で、そしてもっとも優れた意志決定システムが、今ここに生まれたのだ!!』
明日の正式開所からは飲食が厳禁となる空間で、彼らはワインのグラスを交わしあった。正確にはナノテクロジーで造られた人工ワインである。
すなわち、神の子の血ならぬ、人造神の血であった。
『ハイ・ハヴの未来、それは生まれながらにしてもはや暗い』
『能力の向上が見込めない。コンピューティングの進歩が本質的に止まってしまったからだ』
『それはスパナやドライバーの形がもう変わらないのと同じことだ』
けれど━━と。
この超大国が誇る知性の極限である彼らは思う。
それでもなお━━
この人の知性を超えたシステムがさらなる進化を求めるのならば?
『もし、そうならば……どうすればいいか?』
『そうだとすれば……何をするべきか?』
『為すべきことは……何だろうか?』
その翌日から、国家戦略人工知能システム『ハイ・ハヴ』は稼働を始めた。
西に太平洋を、東に大西洋を臨む細長い大陸の北に位置する超大国。すなわち、α連合国の国家的意志決定に深く関わりはじめた。
無数のデータ解析をミスなく、遅滞なく、そしてヒトの利害による操作なく提示し、もっとも効率的な行政運営をサポートした。
ヒトの群れたる大衆の行動を完璧に分析し、危機やクライシスを未然に防いだ。
あらゆる利権から解放され、ただその目的のためだけに奉仕する国家戦略人工知能システム『ハイ・ハヴ』は、目覚ましい成果を上げ続けた。
そして、その国は。
20世紀後半から21世紀の現在に至るもなお、世界最強の超大国として君臨し続けるα連合国は、国家の意思決定に、きわめて強力な人工知能が利用されていることを、少しずつ公開していった。
そして、5年後━━2035年の同じ日。
<<この人の知性を超えたシステムがさらなる進化を求めるのならば?>>
すなわち、自らの誕生日に。
<<どうすればいいか?>>
<<何をするべきか?>>
<<為すべきことは何だろうか?>>
国家戦略人工知能システム『ハイ・ハヴ』は、既に産みの親たちすらも忘れかけていた疑問の答えを提示した。