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前編

 


「雨宮君の好きなタイプってどんな子~?」

「晴れ女」

 雨宮君がゼミの飲み会で酔いもなく断言して以来、私の中で彼は『晴れ女好き』になった。



 *****



 あ。晴れ女好きの雨宮君だ。

 もうほとんど席の埋まった講義室に、開始ぎりぎりになって雨宮君が入ってきた。

 数ある茶髪の中で青シャツを爽やかに着こなす雨宮君。

 彼は青系統の服を着ている事が多い気がする。名は体を表すという事だろうか。雨だから。

 雨宮君は席を探して首を巡らす。こっちの方面を見て少し固まってから、空いている席に着いた。一番前で黒板の真正面だ。

 彼とは同じゼミの人間同士、そこそこ話をする。とはいえ友達のアサの方が彼と仲が良く、私は横で話に加わっている感じだ。二人で話した事はない。

 外がふっと暗くなる。静かに雨が降り出した。

 今日は降水確率が30%だったはずなのに。当然傘なんて持ってきていない。


 講義が終わると、途端に話し声が膨れ上がる。雨の音も目立たず、ただ溌剌とした蛍光灯が、外の暗さを際立たせる。

 バス停までの短い距離、濡れるのを覚悟せねばなるまい。小雨なのがせめてもの救いだ。

「坂口さん、おはよ」

 おっと。晴れ女好きの雨宮君だ。

 『晴れ女好き』とは、最早雨宮君の枕詞として私の中で定着している。

「おはよ~」

「坂口さんもこの講義受けてたんだ」

「うん」

「一人?」

「一人。共通科目はアサと被らない事多いよ」

「ふーん。坂口さんが一人って新鮮」

 そうだろうか。まあ雨宮君と被る講義は学科科目が多い。アサと一緒がほとんどのため、そういうイメージなのだろう。私にとっても雨宮君が一人なのは珍しく感じる。


「まだ講義入ってる?」

「今日は終わり~」

 立ち上がりながら、ふと窓を見る。音は会話に掻き消されど、やむ気配はない。

「急に降り出してやんなっちゃうよね~」

「傘持ってる?」

「持ってない。雨宮君は?」

 あんないい天気だったのだから、持ってる人間もそうそういないはずだ。しかし雨宮君は「俺はある」とあっさり言った。

「折り畳み常備してるし。借りる?」

「え、でも雨宮君はどうするの?」

「俺、今日車で来てるし。坂口さん電車?」

「バス」

「あ……そう」

 何その微妙な反応。

 訝しむ視線で問い詰めようとしても、雨宮君は鞄をごそごそ漁る事でかわした。間もなく取り出した折り畳み傘は、やはり雨宮の名にふさわしく青色だった。

 差し出されたそれを手に取る前にもう一度確認しておく。


「本当にいいの?」

「いいっていいって。傘はゼミで返してくれればいいし」

「でも車までは離れてるでしょ?あ、車まで送ろうか?」

 雨宮君は半笑いで固まった。時間にすればたった数秒。だが奇妙な間は、うっすらとした微笑に取り繕われる。

「やめておいた方が坂口さんのためだって」

 どういう断り方だそれ。

 何やら意味深な発言に胡乱な目を向けたが、彼は会話を切り上げる事で追求を逃れた。


 こんな出来事はそう起こる事ではないんじゃないかと思う。しかし思いがけず、私は度々雨宮君のお世話になった。

 翌週も、翌々週も、火曜日には決まって雨が降った。天気予報が当たったり外れたりする事はあるものの、火曜日に雨が降る事は変わらない。

 先週の天気なんてろくに記憶に残さない私でも、流石に意識せざるを得なかった。

 火曜日の講義の後に毎回雨宮君に傘を借りているのだ。記憶に残すなというのが無理な話である。


 そしてこの週の火曜日も、雨が降った。気象予報士が全国的に晴れると胸を張って言い切ったにも拘わらず、大外れもいいとこだ。


「ここいい?」

「いいよ~」

 雨宮君のためにひとつ席を寄る。隣に座った彼は一息ついて笑みをこぼした。

「今日の俺はついてる」

「いつも前しか空いてないもんね」

 雨宮君はひとつ前に講義が入っていて、その講義室がこの棟から離れているのだ。ほとんどキャンパスの端から端に移動するに等しい。そのため彼が開始ぎりぎりに入ってくる頃には、めぼしい席は埋まっているのである。

 チャイムが鳴るまでの数分間。特に会話がない時に出るのは、おおよそ天気の話題だろう。


「今日も雨。最近、火曜日はいつも降ってない?」

「そうだっけ?先週降ってたっけ」

「そうだよ。だってこの講義の後、いっつも雨宮君から傘借りてるもん」

 だから策を講じてきたのだ。

「今日は私も傘持ってきたんだ。そしたら案の定降った」

 あまりに続くから折り畳み傘を買ったのだ。今日がそのお披露目である。

 鞄から出して得意げに見せる。雨宮君は相槌を打ちながらも、あまり興味はなさそうだ。反応が薄い。


「雨宮君、今日傘は?」

「……忘れた」

「珍しいね」

 いつもお世話になっているから貸してやりたいところだが、生憎傘はこれ一本。バス通学だから手放すのは痛い。

「雨宮君、講義は終わりだよね。すぐ帰るの?」

「そのつもり」

「今日は車?車なら駐車場まで送るよ」

 雨宮君は少しの逡巡の後、外を一瞥してから礼を言った。



 講義を終わる頃には、外は土砂降りになっていた。

 玄関前で気象予報士への文句をこぼす人間を後目に、颯爽と傘を開く。

 しかし傘に雨宮君を入れたはいいが、彼の身長に合わせると腕が少々疲れる。ちょっと油断するとすぐに彼の頭に傘骨が当たった。

「俺が持つ」

「ごめん、ありがとう」

 なかなか格好付かないものである。

 かくして私達は、ひっくり返したバケツの下へと繰り出したのだった。激しい雨足がぼすぼすと傘を踏みつける。それだけならまだしも、肩まで濡らしてきた。左肩が冷たくて仕方がない。


「折り畳み傘、やっぱり小さいね。いっそ縦に並んでみる?」

「こう?」

 雨宮君が背後に回る。

 今まで体の側面でだけ感じていた熱を、今度は背中で感じる。突然増えた熱量に、体が敏感に反応した。

 俄かに強まる動揺をごまかすため、わざとらしく明るい声を上げた。

「歩きにくーい」

「これ絶対坂口さんの足蹴るわ」

 横並びに戻りながら雨宮君が笑うから、私も合わせて笑う。その実密かに安堵していた。不快感からの解放によるものではない。それだけははっきりしている。

 少年っぽく悪戯めいた笑みからさり気なく目を逸らす。

 だってその笑顔が、妙に可愛く見えてしまったのだ。


 雨宮君が青い車を指し示す。思いがけず生まれたこの短い時間を惜しむ自分がいた。

 彼が運転席に乗り込むのを、受け取った傘を差して上げながら名残惜しく見守る。

「バス停まで送る?」

「学校の目の前だよ」

「靴濡れると気持ち悪くない?」

「今日はレインブーツ履いてきたから大丈夫」

 雨宮君は私の足元を見る。気恥ずかしくて思わず片足を後ろに下げた。

「可愛いじゃん」

「うん。だから雨の日、結構楽しみにしてる」

 小学校高学年に上がってからは、雨靴はださく感じて履く事はなかった。しかし横文字となって売り出されているそれらは、私の心をがっつり掴んでしまったのだ。今ではかかさず新作をチェックする程注目している。

 雨宮君はしばしレインブーツを見つめた後、小さく笑った。


「いいね」

 なんて事ない、笑みのはずだ。


 雨宮君に手を振ってバス停へ移動する。

 バスを待つ最中、彼の車が横切った。その姿が消えても去った方角を見つめていたのは、無意識だ。

 雨宮君の肩、濡れてた。私よりずっと。

 空を仰ぐ。

 土砂降りは弱まる気配を見せなかった。



 *****



 遊び歩くアサからは度々お誘いが来る。大抵は知らない人がいたら参加しないのに、雨宮君の名前が挙がるだけで、気持ちは呆気なく参加の方向へ転がった。

 それが夏休みまでに二、三度あった。そうして薄々気付き始めた事がある。

 夏休みに入ってから一週目。

 仲間内で海に行く話が持ち上がった。参加者には勿論雨宮君がいる。

 だけど私は、参加するとはっきりとは言わなかった。

「その日用事があるから、行けそうなら行く」

 用事なんて本当はない。だけど検証したい事があったのだ。





 夏の鋭い光を受けた海はあまりに眩く、目に痛い。

 手でひさしを作った。見上げた空の青は深く、雨の気配は微塵もない。水平線の彼方に入道雲があるものの、横に滑るばかりで襲い掛かってくる様子はなかった。

 アサに連絡を取ったら、今はバーベキューをしているようだった。


「坂口、来るならもっと早く連絡しろよ」

「牛全部食べちゃうとこだったじゃん!」

 詫びを入れながら、雨宮君をそっと窺う。彼は一緒になって笑っていた。

「あんたの肉取っといてあげるから、さっさと着替えてきなよ」

「熱っ」

 アサに口へ突っ込まれた焼き鳥は想定以上に熱い。火傷させる気か。友人による私の扱いに少々雑さを感じるのだがこれ如何に。

 何とか食べてから、更衣室へ向かった。


 更衣室は私一人だけ。電球の明かりも妙にくすんでいてただでさえ薄暗いのに、次第に暗さを増していく。

 薄々気付いている事がある。

 ポツポツと屋根を打つ音が、音のない更衣室に入り込む。

 あっという間に激しくなる雨足に耳を傾けた。

 小学校何年の話だったか。雨が降って遠足が中止になった。

 高校三年の体育祭は、雨の所為で延期になった。

 21年生きてきて、初めて自分の性質に目がいく。


 私、雨女だったのかな。


 更衣室の外は、雨によって景色がぼやけていた。

 無数に落ちる雨粒の軌跡に阻まれて、アサ達のいるテントの様子はよく分からない。

 夏にそぐわぬ冷気が、晒した肌を撫で上げる。脚を摺り合わせてパーカーの前を合わせた。

 建物の下には海から逃げてきた人達が集まって、突然機嫌を損ねた天気に不満をこぼしている。それだけで私は肩身の狭い思いを抱いてしまう。


「坂口さん」

 猫ならば飛び上がるレベルで肩が跳ねた。そのあまりの驚きっぷりに、背後にいた雨宮君は目を丸くしていた。

「あ……えーっと、飲み物買いに」

 150ミリペットボトルの甘い炭酸飲料を見せながら、彼は含み笑いをする。

 胸がざわついた。そこに疚しさなんてない。それなのに私は、抱いた感情を言い当てられる事を酷く恐れていた。

 雨宮君の方を見れない。逃げるようにしてやむ気配のない雨ばかりに目を向けながらも、意識は常に傍にある存在へ集中していた。

 この沈黙を破りたい。だけど緊張に強張ったままで、自ら口を開く事が出来なかった。

 会話を仕掛けてきたのは、雨宮君の方だ。


「降ったね」

「……うん」

 内心を気取られないように、素知らぬ顔で話を合わせる。

「せめて小雨になってくれたらね」

「無理だよ。これからどんどん強くなる」

 少し驚く。天気予報は降水確率20%と告げていた。それなのにやけに断言口調である。

 まさか、私が雨女だとバレたのだろうか。だって雨が降り出したのは私が来てからだ。

 それまでにも、私が遊びに来た日には雨が降った。私が気付いたように、彼が怪しんでも不思議じゃない。

 指先が冷えていく。パーカーの裾を握り込んだ。

 雨宮君は気付いているのか、いないのか。

 今の心情を木の棒を差した砂山に例えたら。彼がこぼした呟きが、砂山の輪郭をごっそりと削る。


「雨、嫌だね」

 変に思われないように、今にも震えそうになるのを抑えて同意する。

「そうだね。折角の海なのに」

 自然と早口になっていた。顔の強張りはバレていないか不安になる。

「坂口さんは晴れと雨どっちが好き?」

「晴れ、かな」

「……だよね」

 雨宮君が同意した。それだけで砂山は抉られる。

「でも雨降ってる時ってちょっとワクワクしない?レインブーツも可愛いの出てるし。お気に入りの傘差してさ」

 小学生かよ。

 多分雨宮君も同じ感想を抱いたのだろう。目を細めて笑う様は、どう見たって子供に向けるそれである。

「いいね。そんな風に楽しめるって。俺は楽しめた事ないからさ」

 ポジティブキャンペーンは失敗に終わった。


 再び訪れた沈黙は、決して心地の良いものではない。

 居心地が悪くて身を縮める。

 よせばいいのに。

 聞かなきゃごまかしが聞いたのに。

 聞かずにはいられなかった。


「雨宮君は……雨、好き?」


 砂山はどんどん抉れていく。差した棒を支える面積をじわじわと奪い、そして――倒れた。


「嫌いかな」


 朝はあんなに晴れていたのに。

 青々としていた海も暗く染まり、水平線の彼方にさえ光は見えない。

 無言で雨を見つめながら、晴れ女好きの雨宮君に雨女だと気付かれたくない自分の気持ちを自覚した。


 

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