98.その心、悪意を知らず
「今日からこちらでお世話になるココロと言います、至らない点多々あると思いますがよろしくお願いします!」
うぜぇ。
ある日の朝、なんかやたらうざく面倒を抱えそうな人間が新しい同居人としてやってきた。
歳は僕より二つか三つほど上か。非常に整った顔つきをしているためそういった顧客目的に買われたのだと推測できる。
「う、うん。よろしく、その適当に……」
少し前にも活気のある男の子がここへ来て、何度殴られても反抗の意思を消すことが無いのだが、僕にとって休憩時間である午前の授業中に抵抗する彼の様子は欠伸を引っ込ませる見世物でしかなく、同じ部屋で暮らすわけでもないのでどうでもいい存在だったがコレは違う。
しっかりと現状を把握できていない余程の阿呆か、理解できてなお気丈に振舞える精神力の持ち主か、そのどちらかが僕の寝泊りする部屋へとやってきてしまった。正直帰りたい……どこへだよ。今僕の寝室が襲われているんだ。
「あの、お名前伺ってもよろしいでしょうか」
「え、あ、アメだよ」
「アメさんですね。これからどれほどの付き合いになるかはわかりませんが良い付き合いを築けることを私は心から望んでいます」
そろそろ僕が九歳なので、十一か十二程度の少女がそれほどの言葉をはにかみながら操ることに気後れし、思わず素直に名前を告げてしまったのが全ての始まりかもしれない。
- その心、悪意を知らず 始まり -
ここへやって来てすぐに現状を把握できる人間が八割。
そこから初日だけでも気落ちしないで挨拶をできる人間が五割。
最後に挨拶の時しっかりと名前を告げ、殴られても泣かなかった人間は零割だ……今日の朝までは。
一度目。
元気過ぎると教師役の大人に目をつけられ、通過儀礼のように殴られた同居人はその理不尽さに怒りも悲しみも見せずただ勉強に集中した。
二度目。
わからない点を逐一質問する生徒の鑑は、面倒がられたのか利き腕を鏡のように割られ、勉学のために用意されている砂で文字を描くことすらできなくなった。
おそらく間接を酷く痛めて肩が上がらないのか、骨にヒビが入るほど強く殴られてしまったのかはわからないが同居人は、たどたどしくも今まで使っていた手とは逆の右腕で今度は黙って教えられることだけを吸収することに努めたようだ。
「えへへ……怒られちゃいました、元気すぎるのも問題なんですね」
一人食堂の隅で食事を取っていると、同居人は空いていた僕の斜め前へと腰を下ろす。
近くに誰かが居れば僕以外の誰かに話しかけられたものだと無視をしてもよかったのだが、生憎誰もいない場所を選び席を選んだのでそれも無理だ。
「……まぁ、そうだね。先生達も大変だからさ」
適当に返事をしながらスプーンを動かす腕を速める。
「そうですよね。皆さんも人間ですもの」
その言葉に思わず視線を向けて、少女の口元に仕方無さそうに笑う笑みが浮かんでいることに気づく。
人間、と言ったか。あれほど理不尽な暴力を振るい、僕達子供を人として扱わないような人々を、自分達同じ人間だと二度殴られて尚。
視線を向けて気づく。少女がスプーンを動かす腕は左手、先ほど殴られ動けなくなってしまった利き腕が、今既にぎこちなくとも食事を取ることが可能になっていた。
身震いがした。
何が人間だ、お前こそ本当に人間なのか。
「一人の生徒へ手間を掛けてしまったら、全体の効率に問題が出る。当然ですよね……」
「ごめん僕、午後も予定あるからさ。キミは初日でしょ、ゆっくりと午後は誰も居ない部屋で休むといいよ」
残っていた食事を人目憚らずかき込み、僕は早々にその場を立ち去る。
背中に何か声をかけられた気がしたが、なんと言っていたかまでは僕は知らない。
中身の年齢が四十近い僕が、まるで逃げ出すようにその場から、同居人の少女から離れたからだ。
「どうしたアメ、疲れたのか?」
午後。
訓練の休憩時間、アレンさんは昼食がまだだったのか簡素な携帯食を食べながら共に休んでいる僕に声をかける。
「いえ、疲れてはいるんですが別の要因というか……訓練自体は問題なく続けられます」
「……? そうか、ならいい。無理はするなよ」
わざわざアレンさんに愚痴るようなことではない。
ただ同居人が面倒なだけ、それを言って僕の胸にある靄が晴れるわけでもないし、アレンさんが特殊な状況や立場を持つ僕に対し適切な慰めの言葉を持っているとも思えない。
「そろそろ再開するか」
「はい」
その言葉に僕は三重の意味で重い腰を上げる。
休憩が終わり訓練を再開するということは確かに時間が流れている証拠で、あの面倒な少女に再会する時が迫っているということだ。
二つ目は小休憩で疲労が抜けきる訳がないこと。一日の疲れは夜の睡眠で取るものだ。どれだけ休もうとも、郊外で休息を取る限り重い腰が若干軽くなる程度に収まる。
最後は単純に訓練そのものが悩みの種だった。
今学んでいる技術は縮地の魔法。僅かに体を地面から浮かし横へと跳躍する。
言葉にしてみれば単純だが、実際のところ物理法則をえらく無視しているせいか上手く他の魔法と違い行使できない。この挫折は今までの訓練が上手くいっていたこともあってか精神的に非常に負担を感じる。
「もう一度初めから確認するぞ。体を浮かす」
片足だけで少し跳ぶ。
魔法なんて必要ない、頑張れば上半身で勢いをつけるだけで浮くことも可能。
「魔力を込め片足で体を前に押すよう地面を蹴る」
これも簡単。
動作自体は魔力無しだと歩く行為となんら変わらない。
けれど足首を重点的に強化し、走り幅跳びで飛ぶような距離を僅かな動作だけで再現する。
「その際背中を魔力の風で押されるイメージをし、目的地までの道のりを魔法で作られていることをイメージする」
この最後のステップで、僕は何度となく行ったように顔面から地面を二メートルほど滑る。
顔面に迫り来る地面には慣れたもので、魔法で体を覆い皮膚を強化したのでかすり傷すらないが、心には再び小さくない傷を負った。
なんだ、魔力の風って。確かに魔力は物質としてそこに存在するが、背中を押せるほど質量やエネルギーを魔力そのもので補えるわけはない。
なんだ、魔力の道のりって。僕はモノレールじゃないんだ、どんな道を想像すれば一体十メートル近く宙を駆けることが可能になるのだ。
「……ふむ、私の伝え方が間違っているのだろうか」
「いいえ、アレンさんは間違っていないと思います。現にこれまでの訓練で教えていただいたことはスムーズに吸収することができました」
あったとしても反復作業で体に馴染ませたり、知識を自分のものとして吸収する時間が必要だったりと手間取る理由は明確に理解していた。
今回の苦戦の仕方は論外だ。
上に何メートルも垂直跳びをしたり、勢いをつけて地面を滑ったり、回転しながら変な方向へ吹き飛ぶのはそもそもの第一歩から何かが間違っているのだ。
「今までが順調すぎたのかもしれないな。疲れも溜まっている頃合かも知れないし、しばらく休暇を取ってもいいかもしれない。何にせよ今日は終いにしよう」
僕の顔を見てアレンさんはそう宣言する。
わかってる……わかっているんだ。言葉に出した意味しかアレンさんは考えていないと。でも僕の挫折を味わっている心が叫ぶんだ、期待外れ、諦められているぞって。
それを理性で抑えながら僕は立ち上がる。
足だけではなく背中や肩も変に力が入っていたせいか痛むし、運動服は擦り切れて新しい物に代えないといけない。
思わず出そうになった溜息を呑み込む。
こんなことでへこたれていたら縮地を使える人達に僕はいつまでたっても追いつけない。
コウにアレンさん、エリーゼやミスティ家の親衛隊の人々。ルゥの仇の男性も詠唱をしていたが使えていたっけ。
詠唱、か。
ルゥのように相手が宙で完全な隙を見せているようならば詠唱して縮地で距離を詰めるのもありだが、基本的に魔法陣を展開せず意表を衝き移動をするのが縮地という技術の前提であり真髄。
発声に魔法陣、どうしても目立つそれは縮地には適さない。
まぁそもそも感情魔法でコウの縮地を再現し、コツだけでも掴もうとこっそり試したがその条件ですら僕には縮地の実現は無理だった。
せめて何かきっかけがあれば良いのだが……。
「おかえりなさい」
忘れていた。
完全に訓練の問題でコイツの存在を忘れていた。
「……うん」
適当に返事をしつつ服を脱ぎ部屋着に着替える。
隠さなかった嫌悪感に、僅かな言葉しか返ってこなかったにもかかわらず新しい同居人はそれでも会話を繋げようと試みる。
「ザザさんにもらっちゃいました。アメさんも如何ですか?」
一体何の話かと思い初めて同居人の姿、全身を見てしまう。
空気口の様な小さな窓からは夕日のオレンジ色の光が差し込み、少女の長く綺麗に整えた桜色の薄い髪色と淡く混ざり合う。
スイやジェイドのそれとは色素が薄く、丁度僕の水色である髪色のような彩度の髪質。
今朝確認した通り顔の作りも整えられており、少し口角を上げはにかむその笑顔がとても似合うと僕は思う。
すらりと伸びた両手が支えるのは、布の上に置かれた何枚かのクッキー。
その様子はあまりにも眩しくて――目に突き刺さり脳内へと痛みを運ぶほど近寄りがたく、部屋の中心に居る彼女へと僕は近づきたくなくてそのまま日陰になっているベッドへと腰を下ろす。
「自分で貰ったのなら自分だけで食べたほうがいいよ。栄養も、美味しいって幸せも誰かに分ける余裕なんてここにはないから」
「それでも私は、同じ部屋に住む人と幸福を共有したいです。多分そっちのほうが私自身も嬉しいから」
「そう。僕は分け与えられても幸せじゃない」
キツイその物言いにしゅんとした同居人を確認しながら、ベッドの上靴を脱ぎ足を乗せ今日酷使した箇所を揉み解すと、流石に少女は少しずつクッキーを口に運び始めた。
「あと、あの人は機嫌が悪い時は平気で理由もなく殴ってくるから気をつけたほうがいいよ」
「お菓子を貰う二時間ほど前に殴られました」
お茶目に笑ったつもりなのだろうが、僕には彼女の表情がとてもおそろしいものに見えて普段仰向けに寝ている体を横に倒して完全に会話を止めることにする。
そんな僕を許すように……追い詰めるように、同居人は言葉を続けた。
「二の腕、擦り傷が治りきっていませんよ。それにズボンの後ろにも、血が少し付いたままでした」
体を起こし、二の腕を確認してみると実際に傷が残っていた。
痛みがあるのならば魔法で治すけれど、痛みを感じないほど軽いこのようなものなら自然治癒で治っているが、今日は訓練を終えてすぐに帰ってきたのでそれも間に合わなかったのだろう。
「ごめん。夕食まで仮眠するから」
「はい、おやすみなさい」
敵を殺す際に見せる殺気と同等のものを視線に込め、同居人にそう宣言すると流石にこれ以上押しても不利益しか被らないと思ったのだろう。
僕の休息を邪魔することがないよう静かに過ごす彼女に僕は警戒心を抱く。
普通、二の腕についている傷に気づくものだろうか。
それも目視が難しい僅かな物で、擦り傷なんて誰かに押し倒され引きずられでもしなければ傷つかない二の腕。
ズボンのほうは事実かブラフかは知らないが今確認するわけにはいかない。
いつもなら訓練の時付いた血や傷は魔法で入念に取り払いこの施設へと帰ってくるのだが、縮地の修得が上手くいかないこともあり気落ちして見逃してしまったのだろう。
何にせよこれ以上面倒はかけないでほしい。
僕はただアレンさんのために頑張りたいだけで、他の人なんてどうでもいいだ。
そんなことを考えながら意識を薄めつつ、このような憎々しい施設を壊滅させたいのであれば、内部へこんな少女をスパイとして送り込んだほうが効率が良いのかな、とそんなふざけたことを考えながら僕は碌に落ち着けないまま夕食の時間まで心身を休めることにした。
- その心、悪意を知らず 終わり -




