93.曖昧な生
最後に両親が僕の名前を呼んだのは何時だろう。
気づけば"お前"とか"あいつ"だとか適当な呼ばれ方をし始めて、それにすぐ順応した僕も居た。
最後に、両親が僕の顔を見て笑ったのは何時だろう。
僕が新しい母親の中から産まれ落ち、助産師のおばさんの手の中で口腔に詰まった体液を吐き出し産声も上げず、ようやく得ることのできた睡魔に身を委ねた時にはまだ笑っていた気がする。
それから必要な時が来て教えても居ない言葉を喋ったり、体が出来上がった途端自由に動き回る僕を見る両親の顔にもう笑顔は無かった記憶がある。
王都リルガニア。
何の因果か同じ世界で生を授かり、名も無い村から新しい故郷を得て、つまり僕は失敗したのだ。歳相応の愚かさを演じることを忘れ、もう帰ることのできない思い出を少しでも揺り起こさないよう効率的に生きることで、新しい家族と円滑な関係を築くことに失敗した。
「とても……そう、とても頭のいい子なのね」
母親が自分と同じ色の、薄い水色の髪の毛を撫でる。まるでガラス細工を扱うが如く、まるで腫れ物が痛むことがないように。
僕はそんな彼女に何を言ったんだっけ。思い出せない、ただ両親が教えた事のない言葉で返答し、距離が一歩分開いた。
「お前は……本当に俺の子供なのか?」
薄い水色の髪の毛も、それより少しだけ濃い瞳の色も父親には無い。性別が違っていたことも、彼にそう思わせる理由の後押しになったのかもしれない。そんな父親は、光の当たり方によって僕のこの髪の毛が、少し彼と同じように赤みを差す事をまともに抱き上げたことのないせいで知らない。
教えたことを一度でできるようになり、その事実に気味の悪さか劣等感で苛立ち暴力で溜まったそれを僕にぶつける父親に、僕はただ可哀想な人だなぁと体を襲う痛みに何の反応も見せずに見つめるだけだった。すぐに暴力がある日常は止んだ。音のならない鐘を叩く無意味さに気づけるほどには知恵があったらしい。そして、距離はまた一歩分開いた。
そうした日々を繰り返し不和は両親と僕の間だけではなく母親と父親の間にも感染し、父親は家に帰って来る日が減っていき、母親は父親が居ない間を見計らい知らない男を家に連れ込むようになった。
家には食材も、お金すら置いていないことが増えていき、僕は衰弱する体を自覚するたび迫る死に惰性的な怯えを抱いて近所のおばさんの手伝いをしたり、気のいいお兄さんから余った食べ物を貰い必要なエネルギーを確保すると意識をほとんど落とし親の邪魔にならないよう家の隅で丸まっていた。
八年。
それだけの年月が流れた。
それだけの年月、僕は心を殺しただ蛆のように湧いて生きていた。
もう誰も覚えていないあの村の日常を、最後の村人である僕が忘れないように。
大切だった人々と過ごした日々に、もう戻ってこない過去に押し潰されないように。
飢えが僕を殺そうと、体に異常が出るたび本能的にそれを避けるように。
それ以外はどうでもよかった。
- 曖昧な生 始まり -
数日前を境に、両親の間に若干ながら笑顔が戻り、食事もしっかりとした、いやむしろ貧民街に位置する家の生活水準を考えると良い食事を取れる日々に変わった。
粗末な服だったものも、しっかりとした作りの生地に変わり、人前に出ても恥ずかしくないものになった。
それが何を意味するのか。多分気づけたのだろうけれどきっかけを掴む段階で反射的に能動的な思考を放棄し、ただ"不穏な雰囲気はあるけれど美味しい食事を取れて幸せ"そう思うだけに留まった。
そのような生活が一週間近く続いた頃、コンコンと玄関の戸を叩く音が聞こえる。
まるで父親はその来客を予期していたかのように迅速に出迎え、母親は裏へ何かを取りに行き、僕は日が沈みうとうとと意識を薄れさせ家の隅で膝を抱えることを続けた。
「……はい……えぇ、もちろんすぐにでも――おいっ!」
「はい、今行きます」
その言葉が僕を呼ぶものだとはすぐ理解でき、殴られる前に声を出し体を動かす。
失敗すれば殴り、反応が遅ければ殴り、反抗するなど論外で。
別に殴られ額が割れても死にはしないのだが、ハイハイ言っておけば避けられる痛みを避けない理由はない。
「この子か」
「はい、そうです」
珍しく低頭し対話している相手は三十台半ばといった男性。
雨が降っていたのか湿った外套を深く被り、衣服や肌はほとんど見えないが体格も良く非常に鍛え上げられているのがわかる。
深い青色をした髪の毛の間から、死んだような瞳が僕と交わり、水色の少女がちらりと映った。
「この人の言う事を、しっかりと聞くのよ」
「わかりました」
奥から僕の外套を取ってきたのか、まだ寝巻きに着替えていなかった綺麗な服の上に、これまたしっかりとした作りの外套を被せてそう言い聞かせる母親に僕は答える。
「後の処理は先の通りに」
「えぇ」
隣に寄り添う僕を確認し、男性は僕の両親にそれだけを言うとまだ雨が強い外へと出て行く。
外套のフードをしっかりと被り、一度だけ家の中を振り向くと、ここ最近見せたことのない笑顔で僕を見送る両親が見えた。
あれほどの笑顔は、僕が産まれた時以来見た記憶が無かったのが少し印象的だった。
男性は僕が離れていないことを確認すると、あとは沈黙を守り雨が降る町並みを子供が追いつける速さで歩いていく。
外套と言っても耐水性のものではなく普通の防寒目的の物。それなりに強い雨に効果があるわけでもなく、すぐに露出している顔や手だけではなく衣服まで水が染み込んでくる。
中々に不快だが、最後にこうして雨に濡れたのは何時だったか。そう思うと気にはならず、むしろ哀愁に浸る心地良さすら覚えた。
「あの、どこへ行くんですか」
住んでいる低取得帯の地域から、更に治安や収入の悪い人々の住むスラム街と言い切れる街並みに入ってもその足は止まらない。
どこへ行き、何をすればいいのか。
あらかじめ知っておかなければ手間をかけさせるかもしれない、そう思い尋ねると男性は立ち止まり口を開いた。
「それすら知らされていないのか、可哀想に。お前の家だよ、新しい、な」
背筋が凍る。
危機感が全身を駆け巡る。
これ以上は聞いてはいけない、聞かないほうが、いい。
「新しい……家?」
その言葉が何を意味するかはすぐにわかっていた。
ただ、両親がそこまでするような人間だとは、流石に割り切ることができずそう呟くことが精々だったのだ。
「お前は売られ、今の保護者及び所有者は私達だ」
売られた、所有者、物。
僕は売られた、商品として。
血の繋がった実の両親に、遊び歩いても最低限の生活をする余裕はあったはずなのに。
「まぁそれもいずれ変わる。私はあくまで仲介人だ、中々優秀らしいな? お前。誇張じゃないのであればまともな買い手が見つかるかもしれないな」
運があればな、彼はそう乾いた笑いを零す。
出来の良い、不自然に出来の良過ぎだ娘は、親にとって金の塊にしか見えていなかった。
それには彼は仲介人だといった、人間を買い、それを望む人間に売る存在だと。
奴隷を望むのは誰だ? 金を持っている人間だ。
機械的な作業をする工場や、重労働を行う現場、もしくは娼婦として働かされるか。
自由や賃金は与えられず、常に暴力と監視に怯え人権など存在しない場所。
その環境で心はどうなる、心を殺さなければ、完全に心が壊れてしまうような環境で心は――思い出はどうなる?
捨ててなるものか。大切な人達を失った、その悲しみを捨ててなるものか。
最悪肉体は死んだっていい、何度殺されても、もう二度と生まれ変われなくてもいい。でも、そんな曖昧な生の中、取り戻せない日々を思う心だけは――!
「あ、おい! 待て!!」
走り出す、来た道を戻るように男の死角に入りながら。この世界で初めてまともに動かす体で、降り続ける雨を切り裂きながら。
僕が逃げたことで両親は金を得られないだろう、もしくはなんらかの責任を負うかもしれない。
知ったことか、先に裏切ったのはそっちだ。もとより裏切るも何も無いかもしれないが、だとしたら尚更だ。
曲がり角を曲がる時、一瞬後ろを見て案の定男が追いかけてくるのを見る。
想定内だ。商品を逃がしたとなれば彼も不利益を被るだろう。故に、追われた上で、逃げ切るつもりで僕は走り出した。
想定外だった。予想より男の反応と走る速度が速い。街中にいるチンピラや野盗程度ですらなく、熟練の冒険者、あるいは騎士団クラス――もしくはそれ以上。
ただのならず者ではないようだ。一筋縄ではいかないか、それとも僕の肉体が予想よりも劣っているのか。
走りつつ後方へ腕を突き出し、照準を定め閃電を放とうとする。
威力はどうするか、少し悩む。
反射的に撃てなかったのが問題かもしれない。計算に頭を使ったとき、雷魔法に所以のある懐かしい……けれど決して戻れない記憶が僕を襲う。
頭にまとわりつくくせに、こちらから振りほどけないそれに苛立ちながらも水を集め、いくつか放つが全て避けられる、狙いを定める余裕はなかったし、そうそう上手くはいかない。
視界を一瞬で奪えれば、もしくは水球が張り付き動きが鈍れば逃げ切れる可能性が上がった。
失敗したことは仕方ない。ただ水球より少し遅れて放った、視認が難しいかまいたちも避けたのは仕方無くない。雨の中を進むせいで認識が容易くなっているとはいえ、複数の水球含め全て避けたというのはそれだけの相手という認識に再び評価する必要がある。
宵闇を、街並みを、魔法すらも盾にして、必死に大人の直線での速度を活かせぬよう、子供の小回り効く体を利用し逃げ切ろうとするが、それでも男は着いてきた。
息が上がり始める。体の節々は悲鳴を叫び、魔力の器は空になった空間が徐々に増えてくる。
前の体ならまだしも今の体はほとんど動かしておらず、か弱いを通り越し脆弱そのものだ。魔力の総量も以前の八歳より露骨に低く、頭蓋骨に収まっていない魂だか二つ目の脳だかが前回の体を動かすつもりで体を酷使する。
このままではいずれ追いつかれてしまう。体力の差は大きいし最高速度が違う中、小手先も利かないのであればそもそも前提を覆す必要がある。
二次元的動きで逃げれないのであれば……三次元だ。
更に魔力で脚部全体と腕を強化し、全身をバネのように扱い屋根のとっかかりを掴む。その上昇するエネルギーが殺しきられる前に、もう一度下半身を振り子にして更に跳ぶ。
全身が悲鳴を上げる、あまりにも酷使しすぎていると痛みが警報を発している。それでも屋根に上ることは成功し着地する。積雪対策に三角形で造られている屋根は走りずらいし、体はどこか再生が追いつかないほど痛めているのか上手く動かないけれど、なんとかバランスを取り前に走り続けた。
背後でガシャンと、重い何かが着地する音が聞こえる。
大人が屋根に着地する音。振り向くと男がそこには居た。
「「バケモノか」」
声が重なる。
子供がこんな動きをできるのかと大人は思う、子供は大人がそれを苦にせず追いついたことを脅威と感じる。
水球を二つ展開させ、漂わせる。
このバケモノじみた男からは逃げられない、ならば排除するしかない。
「少しだけで良い、話を聞け」
猶予を宣告され、迷わず水球をもう一つ追加する。幸い雨はまだ強い。本来なら水分を十分に集めるため必要な魔力や時間は天候が肩代わりしてくれる。
徐々に塊になる水滴を、男は口を開くだけで他には何もせず見ているだけだった。
「お前の才能は逸材だ。悪いようにはしない、約束する」
才能など僕には、無い。
義務教育で学んだ科学に、二度目の生で必死に学んだ魔法。
いずれかが欠けていればこの領域に立ち入れてなどおらず、どんな技術も平凡以下に収まっていただろう。
「人を買って売るような人間の約束など、信用できるものか」
水球を一つ放ち、二つに分離させる。粘り気のある水は男の顔に、もう一つは粘り気を強固にし氷柱状に胴を狙う。
若干の時間差を発生させ、水の方は先に目標に到達しぶつかる。
両手で顔面を庇い水をまともに受ける男。
……どういうことだ? 避ける技術は十分持っているだろうに、一体何を考えての行動か。ただこれで視界と呼吸は防げる、あとは氷が傷を与えれば。
考えが甘かった。いや、理外の動きを男はしたのだ。
交差させていた腕を、顔の前から払った瞬間に水魔法は消し飛んだ。
魔法で風を操った様子はない、いやそもそもそんな動きや時間は無かった。それ以外僕が知る技術の何にも当てはまらないそれで無力化して見せた腕は、そのまま腹部へ飛んでいる氷柱を受け止め――まるで小さな爆発が内部で起きたかのように、いくつかの断片へと崩壊し屋根に崩れ落ちる。
これも当然風でも爆発でもない何か。分析しようとし、今そのような時間が許されていないことを知り中断。どうやらもう対話で事を済ますつもりは相手に無い様で、男は僕のほうへと既に駆け始めていたからだ。
二つ作っていた水球を急遽分子レベルで運動を停止させ、再び二本の氷柱に変えつつ射出。僕自身は何倍も大きい水の塊を作りながら、少しでも距離を開けようと後ろへ跳ぶ。当然成人男性のダッシュとは違い大した距離も稼げないが無いよりはマシだ。
ただその僅かな余裕も、男が触れただけで崩壊していく二本の氷柱を見れば無くなってしまう。
竜の炎を防いだそれと同じの盾。あの時は一撃を防ぐのに何枚も必要だったが、今戦っている相手は一人の人間。たとえ今までの魔法と同じように崩壊させられても、再生性できるよう命令も施している。
迅速に展開し終えた盾は、男の足が数メートルを詰める前に僕との間に立ちふさがり――そして、砕けた。
先ほどまでの壊れ方とは違う。純粋に、力任せに潰されたそれは、男の袖から少し見えた青白い模様をきらきらと反射させながら屋根に落ちていく。
右腕の袖の中。手首辺りまで、まるで木の枝が分かれるように青白い道筋で刻まれた刻印。魔法陣が展開される際光るその特有の色は、皮膚の上ではなく確かに肉に刻まれ光っていた。
その腕は盾を粉砕すると、そのまま僕を掴もうと手を広げ伸ばしてくる。本能的に掴まれる事だけは絶対に避けなければならない、そう思うと考える間もなく僕は体を横にずらして手を避ける。
即側宙。男の後ろへと、回り込むように飛び込む。男の方を見ていたが視線は合わない、僕の瞳はその右腕に引き付けられていたからだ。
僕の視線の中で青白い刻印はゆっくりと輝きを失っていったが、最終的に落ち着いた頃合でも人の肌には、自然界には十分不自然なほどの色合いを保っていた。
それだけを確かめ側宙の威力を殺さないように二歩前へ跳び、速度が落ち着いてきたその時に前宙をしながら男の様子を確かめる。
男は唐突に視界から外れた僕を見失ったどころか、僕目がけて真っ直ぐ跳んで来ていた。
縮地。
あぁそうだよな。原理のわからない魔法を無効化する技術に、異常な腕力をもたらす青白い模様。
理外の技術を扱うのならば、僕が既知である技術を扱えない道理などなく。
……ならば、理外の理で抗うのならば、認識の外から攻撃にはどう対処する。
手を伸ばし、いつものように閃電を放とうと魔力を動かすと、一息で迫り来る男が初めて僕に縮地を見せてくれたコウと重なる。
考えるな、相手はコウじゃない。
思い出すな、今はそれに浸る必要はない。
どれだけそう意識しても頭の中に入っていない脳は、頭に入っている脳の言うことを聞いてくれず、その一瞬の躊躇いが僕を下へと押さえつけるのに十分な時間をもたらした。
肩を掴まれ、屋根へと叩きつける。
何か偶然柔らかいものでもそこにあったのか、酷く痛むことは無かったけれど大人にそうして押さえつけられるのは決定的過ぎて。
「やめて! 放してっ!!」
もはや殺傷力も、粘着力も無い水の塊を男は片腕で防ぐ。
現在届いている男の手に、届かない過去を思い出してしまえばその対比に呑まれてしまいそうで、いつか見えた幻覚ほどではないにしても脳がもう一つの脳から侵食されてどうにかなってしまいそうで。
「落ち着け、抵抗するのは話を聞いてみてからにしてくれ」
絶え間なく顔にぶつけられる水球の合間に、男はそれだけを告げて再び堪える。
そうしてぶつけた水球の残滓が、僕の顔に降ってきて思わず溺れてしまう。
鼻や口に侵食してきたそれを、どうにか吐き出すと僕はそこでようやく気づいたんだ。降っているはずの雨が、僕の顔にかからない事に。
死んだような目をしている男が、死んだような目をしている僕の傘になるようにそこでずっと待っていた。
思い出す。
過ぎ去った過去じゃなく、今ついさっきまでそこにあった今を。
少女が追いつけるほどに、ゆっくりと歩くその背中。
僅かな言葉で交わされたやり取りに、実際込められていた真心。
僕を追いかける男は何故攻撃魔法を使って来なかった。
明確な敵意を向けて尚、遠距離での戦闘を行わなかったのは何ゆえか。
重厚な氷盾を物理的に粉砕できるその腕で、何故僕の体を殴らずに手を開いた。
何故、今こうしてアドバンテージを得て組み伏せても、僕は傷一つ付けられていない。
――屋根の上で、背中に当たった柔らかいものの正体は何だ?
「……あの、一つだけお願いがあります」
「あぁ、なんだ」
敵わないなぁ……今こうして攻撃をやめた僕に、何も攻撃をせず言葉を持つ男性に僕は決して敵わない。
「名前、僕の名前だけ……その、アメって、呼んでほしいです……」
「わかった、私の名はアレン。これからよろしく頼む、アメ」
唯一の嘆願を受け入れられ、僕は引き起こされるために伸ばされた手を掴む。
もう、これ以外は、名前以外は何も要らない。負けたんだ、何もかもに。僕自身を含めた、その全てに。
敗者は、あとは受け入れよう。何を求められても、僕をそう呼ぶ声がある限り。
- 曖昧な生 終わり -




