92.理不尽な生
音が、聞こえる。
ピアノのような、オルゴールのような、ハープのような。聞いているだけで心の落ち着くような、そんな音。
その音が体の内側から聞こえる。僕の体の中心から、おへそから流れ込んでくるような感覚。
音が聞こえる。
そんな安らげる音色に、不協和音が混じって聞こえる。
悲鳴のような、雑音のような、意味を持たない電子音のような。
それも時折、別の場所から聞こえる。体の中心ではなく、明確に外から聞こえる不快な音に、僕は懐かしさを覚える。
音が聞こえる。
ここは、胎内だ。
僕は呪った、理不尽な生を呪った。
ルゥを死なせ、コウも守りきれなかった。そんな僕は二人を失った悲しみに苦しみ、そして死んだのだろう。
その僕が、再び生を受けようとしている。二人のいない世界で自分だけまた生まれ変わろうとしている。
呪った。
今授かろうとしている生を呪った。
呪った。
不甲斐ない自分、そしてそんな自分がいま安らげる環境で、僅かな細胞から赤子に成長しているこの瞬間を。
呪った。
世界を。心地の良い音は恐らく母親から伝わるものだろう。そして不協和音は外部、つまり外の世界はこんなにも醜いものなのだろうと。
呪いが人を殺せたら、僕を殺せたら。
きっと僕はもう悲しい思いをしないでも済む、きっと、無茶をする僕に付き合って死ぬ人も居ない。
- 理不尽な生 始まり -
水色の世界。
おそらく大きなシャボン玉の中に入ったら、このような景色が見られるのか。
ドーム状の空間を眺めれば、上方向や横は水色を基調としながら目に厳しくない程度で極彩色に輝きつつ弧を描く。
対して下方向、地面は円球を半分に区切るように水面が広がる。
ここに来たのは初めて……もしくは既に何度目か。
どちらにせよ勝手知ったるや空間の存在意義に、各機能を理解しつつ一歩前へ。
男/少女/胎児の足が水面に触れると足が水中に沈む事無く上に立ち、俺/僕/自分がこの空間にやってきたことを喜ぶように、世界は生命力を手にし震え、握りこぶしから頭よりも大きい様々なサイズのシャボン玉を水面から吐き出す。
纏わり付く様に宙を踊り、けれど決して自分には触れず飛び交うそれを無視しつつ空間の中心へと向かう。
一歩ずつ前に進むたび水面はシャボン玉をより大きく、数を減らしながら吐き出し続ける。
その間何とか自分と言うものを固定しようとし、僕という存在、十二歳であるアメに認識を落ち着かせられる。
実際のところ僕は僕が、もし事情を全て知る存在が居て今客観的に見てどういう存在なのかはよくわかっていないし、何よりこんな精神世界で十八の男だろうがまだ爬虫類の形から抜け出せていないだろう胎児だろうが一歩で進む歩数は変わらないのであまり物理的な意味はないのだが、これからすることを考えたら、僕は今この時だけでもアメという存在で居たいと願ったのだ。
ほぼ中心地、一つ吐き出された大きなシャボン玉に触れる。爆ぜる事無く、しっとりと手に張り付いたそれは僕へ記憶を流し込んだ。
村の記憶。
新しい世界で、少し変わった子供を受け入れてくれた優しい両親達に、村の人々。
一瞬でそれを追憶し、最期には竜が降って来て全てが無に帰した所でシャボン玉を手で押す。
役目を終えたシャボン玉は消えることは無く、辺りを漂うそれらに混じりどこかへ消えてしまった。
八歳で失った故郷を守れた可能性。果たしてそれは存在したのだろうか。
新しい世界に適応する、竜が空を飛ぶ日常に疑問を覚える、もう少し早く村の意識を外へ向けさせる。
幾つも可能性が思いつき、そのどれもが現実的な可能性ではなかったことを理解する。
この頃の僕達はまだ幼く、戦う術を必死に磨いて日々を生きていた。
太刀打ちする術も、逃げられる、逃げる必要があることに気づく可能性も皆無に等しい。
――ただ、この時期で学べることが無いというわけでもなく。
近くにあったシャボン玉を手招く。
触れて、今まさにそこに居るかの如く錯覚するほど明晰に過去を思い出す。
兄妹……スイと、ジェイドと過ごした記憶。
この頃から頭に血が上ると暴走しがちだったなと苦笑いしつつ、気まぐれで助けた二人と仲良くなっていった日々をなぞる。
一呼吸するような時間、けれど一年近いそんな日々を思い出し、スイの片腕だけが残ってしまった最期から逃げるようにシャボン玉を遠くへ飛ばす。
……まだ、大丈夫。まだ。
言い聞かせながらも、頭を回転させる。
約一年、その期間でスイとジェイドを守れるようになった可能性はあったのか。
故郷で過ごした時間よりは大分少ないが、少なくとも自衛は出来るほど技術を手に入れ、竜が人を襲う身近な脅威だと理解していた。
一番安易で――醜い皆が助かる方法は、騎士団支部に行かなければ良かった事だ。
僕が仇を討ってくれるかも知れない機関へ興味を抱かなければ、副団長であるジーンが僕達へ興味を抱いていなければ、渋っていたエターナーが許可を出さなければ。
どれか一つでも違えてくれれば、時間半刻でもずれていれば、僕達だけが襲われずに済んだのに。
なんて醜いその場凌ぎ。
けれど条件は確かに容易で、脅威を直接は味わっては居ないものの間近で見ることになっただろう僕は、決して竜に挑もうなんて思わなかった。
この末端の可能性から辿るなら、他に存在した可能性は僕達がそもそも村を襲った竜の存在をエターナーに伝えなければよかった。
いや伝えたとしても、詳細に伝えなければ騎士団が動く可能性はそれだけ減り、大人数に襲われ反撃を決める竜は存在しなかったかもしれない。
だがこれはあくまで結果論。気まぐれのように村を滅ぼした竜が、実は放っておけば町へは危害を与えない存在だと知るのはこの時点では無理だ。
何より僕は、大切な人々を奪った脅威を無視なんてしたくない。僕が僕である限り、このもしもなんては存在しない。
もう一歩踏み出し、無数の小さなシャボン玉達が水面からあふれ出る。
竜の部分だけを抽出したそれに一つずつ触れ、離れ、様々な情報を集積しながらあらゆる可能性、竜を倒すための道筋を思い描きながら――遂には限界を迎え膝をつく。
今まで僕に呼応するように生きていたシャボン玉達は、水面に膝をついた振動に怯え逃げ出すように散り散りと飛んでいく。僕はそれに手を伸ばしたり、視線を向けることすら叶わない。
僕が今度生れ落ちるだろう世界がどんな場所かは知らず、竜を殺してまで守りたかった本当に大切な人々はもう居ないんだ。
倒れこみそうな体を、何とか未だ歩き方を知らず這い蹲る赤子のように引きずり、空間の中心へと向かう。
それは僕の大切なもの、ここは僕の一番大切な場所。
二つのシャボン玉。その片方に手を伸ばすと、僕が望んだからシャボン玉は僕のほうへ寄って来る。
ルゥの記憶。
不思議な少女だった。どうしてそんな知識があるのか、どうしてそんな人格を形成しているのか。
その正体自体にはすぐ気づけた、僕だから気づけた。けれど僕も彼女もそんなことは望んでおらず、ただ等身大の人間として生きていこうとしたからそれを表面に出すのは避けていた。
白い髪に、薄い肌。際立つのは赤い瞳に、やたら僕相手にだけ見せる三日月形の笑顔。
意地悪なことはいっぱいされたけど、何だかなんだあの嗤いは好きだったなぁ……。
僕だけじゃ気づけなくて――けれど他の誰かが気づかせてくれるだろう事柄をいろいろ教えてもらえた。単純に弄られた分だけ、弄り返す機会が楽しかったのもそうだけれど。
最期。
ルゥの最期。
一見意図のわからない死に方をしていったルゥ。僕はそれにショックを受け、死に場所を求めコウと共に故郷へ向かった。
今ならわかる。何百何千と同じ思考を繰り返すことを許された果て、あるいは初の思考で僕は理解できる。
もしルゥがそれだけを求めていたのなら、彼女は僕達を裏切ってなどいなかった。彼女は彼女なりに、僕達を最大限愛してくれていた。
今更気づく事実に堪え切れなくなりシャボン玉を弾く。
気づけず答えられず、挙句大切な者を全て失った事実に僕は水面に屈服する。
床が地面ならば、怪我の一つでもする勢いでガクンと行った僕を水面は無慈悲にも優しく受け止めた。
固くも、柔らかくもない。冷たくも、熱くもない。
そんな水面に全てを委ねてしまえれば、少しでも楽になれるだろうにそれだけは叶わないことを僕は知っている。
倒れこんだ僕を心配するように、傍へ寄ってくるシャボン玉。
救われないと知りながら、追い詰められるだけだと知りながらも僕はもはや力を込めることすら難しい片腕でそれにゆっくりと触れる。
コウの記憶。
……敢えて、語る意味も無く追憶する必要も無い。全ては僕の頭に、いや肉体が変わっても覚えているそれはもう心に刻み込まれている。
ゆっくりと、一瞬で流れ去る記憶に少しでも長い時間浸っていたいと、そう願うにも関わらずこの行為は最期を迎える。
竜の尾により上下に両断されたコウの姿に、泣き喚き動けず焼け死ぬ僕の記憶。
全身の力が抜け、今度こそもう立ち上がれないほど活力を失い僕は横になる。
上がらない水しぶきの代わりか、水面に倒れこんだ衝撃に吹かれる様コウの記憶を集めたシャボン玉は僕からそっと離れていく。手を伸ばす気力すら、もう無かった。
満たされない、足りていないを見ても満たされるわけがない。
どれだけ大切な記憶に触れても、それはもう手の届かない場所にあるものでしかなく。
どれだけ優しく塗っても、傷口が裂けるほど傷薬を塗り入れる行為でしかなく。
いっそ狂ってしまいたかった。
自分の犯した罪と、失った大切なものの重さに堪えかねて、痛みを痛みをと思わないように。
でもこの場所はそんなことをさせてくれないほど優しく、居心地が良くて。
何より、僕が僕であるために、その大切な痛みを忘れてしまうことだけは許せなくて。
何度目だろうか。
こうしてこの空間に来て、思考し、呪って、諦めて。
今が初めてだったかもしれない、けれど、もう何千と繰り返してきたような行為な気もする。
意識を落とすことすら許されない。
今僕は生きるためのエネルギーを全て母体から得て、ただ体が熟すその時まで眠っている状態なのだから。
眠ることすら許されず、目覚め現実世界で立つ事すら許されず。
涙を流すことすら出来ないほど疲弊した僕の瞳に、自分の右腕が擦れて見える。
十八の男の腕に。十二の少女の腕に。零にも満たない胎児の腕に。
どれほど時間が経ったのだろう。
何時になったら僕は眠ることを許されるのだろう。
僕が産まれるまで、あと何千万秒?
あぁ、長いなぁ。眠ることが出来ない日々がこんなに長いなんて。
長いなぁ。誰も傍にいない時間がこんなにも孤独だなんて。
あぁ――
――――。
――――――。
――――――――――。
もう、いいや。
- 理不尽な生 終わり -
- 狭間 始 -
一人の少女が居た。
背中まで伸ばしたブロンドの髪に、遠くから見てもわかる質の良い寝室着で若干火照った体を包んでいる。
湯浴みの後だろうか。もう日は落ちきり、長く静まり返った廊下には最低限の照明が照らされているだけで他の人間は一人も、そして目立つゴミや汚れすら存在していない。
落ち着いた明度のランプは窓を鏡のように映るものを反射させ、十にも満たない少女の紅い瞳を誇示するかの如く光らせた。
少女はノックもせず一つのドアへ入り、室内を視認することも難しい暗闇の中手馴れた様子で明かりを点ける。
テーブルにソファー、棚に幾つか置かれた小物や、飾り付けられた剣に壷などの装飾品。自室と呼称するにはあまりにも生活感が足りておらず、客室と断ずるには人に見せる意識が足りていない。
入ってきた扉とは別に、唯一存在する扉がその部屋には存在していた。
少女は点けたばかりの明かりを消し、おそらく寝室だろうと思われるそこに向かう前に大きな窓の前へ行きカーテンを少しだけ開ける。
美しい夜空。
星々に月は邪魔をする他の光源の無い中爛々と輝いており、少女はそれに少し見惚れたように溜息すらつかずただ空を見上げた。
コンコン。
月光を浴びながら夜空を楽しむ少女に神々しさすら感じる空間、それを邪魔するように二つ扉をノックする無粋な音が響く。
「誰かしら」
人が寝静まる遅い時間、その時間までの一時を楽しむ行為に水を差された事実に少女は苛立ちを見せることは無く、そう呟くとカーテンは開けたままに照明は点けずに来客を迎えるべく入ってきた扉へと向かう。
「こんな時間に、何の用かしら」
ドアを開けると少年が居た。少女が八歳程度ならば、少年は十三ほどか。
執事服に収められている体格は服の上から見ても優れており、長く整えられた黒い髪の毛に整った顔つきもあり携えるだけで歩くだけで誇れるような使用人に見える。
その手に短剣と、どうしようもないほど悪い目つきに抑えるつもりのない殺気が込められていないければ、の話だが。
「――っ!」
「だから、何用かと問うているの」
心臓に向かって突き出された短剣を、横へ逸らしながら冷静さを欠くことなく二度目尋ねる少女。
ただどれだけ技量があっても性別に、若い間の年齢差による体格の差……言わば力差を覆せはせず、人目を避けるため、あるいは単純に勢いをつけその肌へ刃を突き刺すためか押し入る少年に少女は室内へと雪崩れ込むよう入られる。
「暗殺者に、狙いは私の命……ね」
まるで問う前からわかっていたかの如く確認に呟く少女の手には、飾り立てられていた鞘に収められた剣。
押し込まれた勢いを利用することで距離を離した互いの武器は長剣に、服へ隠せる程度の大きさしかない短剣。
得物の得意距離も少女に分があれば、また鞘から剣を抜き取る時間も少女には十分あった。
剣に手を伸ばし横に構え、ゆっくりと抜き去る彼女へ何かが飛翔する。
宙を切るよう振るわれた少年の袖から、ワイヤー、あるいは視認することも難しいほどの極細なチェーンが伸びていた。
先端には刃。不意を衝き人を傷つけることも容易ければ、巻きつき体を拘束することも容易い。
僅かに開けたカーテンの合間から差し込む月光だけでそれを、少女は見逃すことなく体ではなく剣の鞘を犠牲にすることで抜刀と同時に少年の攻撃を無効化、攻勢に打って出た。
「せっ!」
「――っ!!」
生きているように鞘をワイヤーで巻き取る少年は、すかさずその鞘に追いつく勢いで駆けて来た少女の一撃をそれで防ぐ。
上段から振り下ろされた攻撃は、鈍い音と衝撃を互いに与え剣が押し切れず弾かれるように描いた軌跡を辿り上へと戻る。
その隙を少年は見逃さない。左手で短剣を突き刺そうと繰り出し、少女はそれを咄嗟に両手で持っていた剣を片手のみ放して受け流す。
往なされたことに少年は動じなかった。未だ右手で持っていた鞘を放り投げると、懐に手を伸ばして既に持っているものと同程度の短剣を取り出しつつ振るう。
流石にこの時点では既に少女も剣を振るう体勢を取り戻せていた。鋼と鋼がぶつかり合う音、甲高いそれは夜の帳が降り切ったこの空間には似つかわしくないが、少年が室内に入るとき後ろ手に閉めた扉がそれを他の住人に伝えることはあるのだろうか。
「この程度?」
身の丈不相応の大人用ロングソードを両手で振り回しつつ、少女は煽りか心の底からそう感じているのか問う。
「……!」
対して少年は何も語らない。相対してから一度も言葉を発しない。
暗殺者としての鑑、あるいは敵と会話する余裕など初めからどこにも無いのか。
ただ数度攻防を繰り広げることでわかったことはある。
「へぇ」
それは、あまりにも体格に差があることで、少女が両手で持つ剣の攻撃を受け止める必要材料が無茶をすれば片方の短剣で満たせることだ。
現に今、少女の攻撃は今まで均衡を保っていた攻防を、短剣一本による防御を押し切らんとしていた。
けれど、少年の体はそこには居ない。かすり傷こそ与えられるだろうが、その重心は既に大道芸のように体を大げさに回転させながら距離を詰めている。
「流石に分が悪い、か」
極至近距離は短剣の距離。小回りが利き、なおかつ長剣が武器を振るうならば重さを十分に活かせないほどの距離しか標的とは開かず、最悪鍔に当たる可能性すらもある。
少女はそれを考慮し、迫り来る少年の体を自身の体を浮かせて前に蹴る。
蹴られ飛ぶのは少女の方。当然だ、それほどの体格差があってこそ今この状況が生まれているのだから。
易々と無茶をし距離を詰めた今を無に帰されてもおもしろくない。
少年は自身の足で離された距離を詰めつつも、もう一度ワイヤーを袖から出して少女を狙う。狙いは腕、剣を持つ左腕だ。
未だ宙を飛んでいる少女はそれを強引に体を逸らす事で避ける。この状況下、流石に得物を取られることは避けたい。
少女の後ろでストンと音がした。おそらくワイヤーの先端についた刃が壁にでも刺さったのだろう。
その音がした時笑った。少年が、笑った。
宙で体勢を崩した少女は格好の的。再び刃が届く距離に近づく頃合には少女も足を地に着けているだろう。
そんな敵へ、少年は再びワイヤーを伸ばす。既に右腕の袖から伸びているとは別に左腕から。
双方にその暗器が仕込んであったことを少女は知らない。先の鞘を奪い取った一撃も右腕に隠されていたワイヤーからだった。
一瞬反応が遅れつつも、これ以上予想外の被害や展開を避けるため少女はワイヤーを右腕へ意図的に巻きつかせる。
見た目や、触れた一瞬でワイヤーが皮膚を容易く切り裂くことは想像に難くなく、腕へ魔力を込め硬化……されどなお肉を裂く現実に更に魔力を込めこれ以上肉体への侵食を食い止める。
なるほどと、少女は今度こそ口を開く余裕は無く思案する。どうやらこの暗器は魔力で自在に挙動を操れる、それも鋭利さや頑強さを臨機応変に切り替えられるほどに。
少女の次の行動は早かった。剣を真っ先に床へ突き立てる。
たとえ腕一本切り落とせたとして勝負は決定的にはならない、これはあくまで布石だ。少女はそう思った、少年もそう思っていた。
剣を突き立てた次に、間髪入れず少女は体を引き寄せられるほどの衝撃を受ける。
十分に肉へ食い込んだワイヤーは次に硬化しロープのような役割を果たしていた。それを支えに少年は少女を引き寄せようとする、少女はそれを予想し剣を支えに状況を保つ。
引き寄せられるという最悪の体勢で、それも短剣のリーチまで引き寄せられる状況が戦況にどう影響するかは容易く想像できるだろう。
故に、少年は笑ったのだ。
長年切望し続けたこの瞬間を迎えられる、その状況を作り出せる布石が整ったと確信できた時、思わず歓喜の感情を発露させたのだ。
文字通り、双方の間に電流が走る。肉を抉り食い込んだワイヤーから、体の自由を奪うに相応しい電力が。
初めは堪えていた少女も柄から手が離れ、膝を突きもう十分に動けなくなったところで送電を維持しながら少年は短剣を手にゆっくりと近づく。
一歩一歩、何かを踏みしめるように、噛みしめるように。
「――この程度だ」
刃を振り上げ……それが脳天に振り下ろされることはなかった。
「……だから、この程度かって、聞いているのよ」
少女の掌底が少年の胸に突き刺さり体を下から浮かせる。
体を動かすことすら難しいだろう電の痛みに、少女はまるで動じた様子も無く魔力で体を強化し全力でその一撃を叩き込んだ。
浮いている状態に心を落ち着かせる間もなく、今度は床へ引きずり倒される少年。
一撃で心臓を破壊されてもおかしくなかった攻撃へ咄嗟に耐えたかと思えば、次は背中から首を掴まれ落とされ肺の空気すら吐き出してしまう。
「本物ってやつを、見せてあげる」
送る魔力を摩擦させ電気を発生させ、反発して帰って来る魔力に自身の魔力を擦り合わせ。
一は二に、二は四に。
倍に際限なく増え続ける雷の攻撃に、少年はすぐに耐え切れず抵抗しようとしていた体を動かすことすら叶わない。
少女は自身も同等の痛みを感じているだろうに、その痛みをものともせず――いや、どこか愛おしそうな憂いを見せながら床に刺さったままの長剣を抜き取る。
未だ動けぬ少年の傍へ寄り戻り、短剣二本を蹴り飛ばし適当に武装を解除した後には、彼が動けるようになるまでただ片腕を足で押さえてその時が訪れるのを待った。
「言い遺したいことはある? あるならば遺族に伝えてあげるけれど」
ようやくまともに呼吸ができるようになった敵の首元へ剣を添えながら、何を言うかと思えば必要ならば遺言を遺せと。
少年は思わず笑った。
まだいくつかの暗器は隠しているし、見せた二つのワイヤーは手放されていない現実に。
この状況から幾らでも凶刃が命を奪う可能性はあるはずだ――けれど、それはありえないと渡り合って否応にも理解してしまったからだ。
室内に戦いの痕跡はほとんどない。
あったとしても大概は少年のものだけで、唯一の例外は引き寄せられぬよう少女が剣を突きたてた床の傷のみ。
腕に食い込んだワイヤーが少なくない血液を出したにもかかわらず、室内が汚れている様子も無ければ少年がこうして無力化されるに至るまで体液を出した記憶もない。
にもかかわらず、勝敗は決した。それも明確に。
そもそも、だ。
少年の勝利目標は少女の命。対して少女は生き延びるだけで良かった。
されど少女は叫ばなかった。助けを呼ぼうとも、騒乱を聞きつけ家の人間が駆けつけるような音を出すことも。
テーブルをひっくり返して騒ぎ立てればいい、隙を見てドアへ駆ければいい、大きな窓を割り庭へ躍り出ても良かった。そうしなかったのは、ひとえに助力が不要だったからに他ならない。
故に、少年は笑うしかない。死の瀬戸際で、無慈悲な力量差に笑うしかない。
「言葉を遺す相手など……両親など俺には居ないさ。
物心付いた時からあんた達の家に親を殺されていて、引き取ってくれた家には『お前は仇を討つためにここに居るんだ』と人殺しの術を学び育てられ、ずっと――本当に、ずっと長い間やり場の無い復讐のためだけに生きていた」
少女は聞き届ける。
自分語りの果てに、何か残すものがあるのではないかと辛抱強く。
「でも、この様だ。殺すために生きてきた俺が、貴族であるあんたにまるで歯が立たなかった。年も離れていて、小さな少女に、俺は。
なんだったんだろうなぁ、俺の人生は。殺すために生かされて、殺すために生きてきて……それが敵わず無意味だった。生きる目的を果たせなかった男に、意味など」
見苦しくなってきた男の言葉に少女は構えている剣を揺らす。
これからも生き続ける人間に対し意味のない言葉の羅列しか吐き出せないのなら、さっさと終わりにして後処理を誰かに任せ自身は早くベッドに身を委ねたいと。
「……あぁ、そうだな。できることなら、あんたのような人の下で生きてみたかった。そうしたら、何か、変わっていたのだろうか……なぁ……」
笑い声はもはや掠れ、最期を悟った少年は違わない歯車を夢想し呟く。
それに対し剣は、少し揺らめきカーテンの隙間から差し込む月光を反射させて見せた。
――鮮血は、舞わない。
「もしもその願いが、今からでも堪え難い苦痛の先で掴めるのだとしたら、あなたはどうする?」
世界のどこか。
違った歯車が、別の機構と噛み合いカチリと音を鳴らした。
- 狭間 了 -




