90.理想少女では響かない
「ルゥ……! お願い……ルゥっ!!」
コウの悲痛な声が聞こえる。
何故だろう。どうしてだかわからなけれど、あまりそれを考えてはいけない気がする。
そう思いながらも惰性的に、今まで行使したことのない魔法で体中の麻痺毒を取り除いていく。
「どうして、ねぇ、お願いだからっ……」
泣けない少年の、泣くよりも悲痛な声が寒空の下響く。
焚き火はとうに消えていて、その薪の上に雪が乗り冷め切っていない熱ですぐに溶ける。
その焦げた木に沿い流れる雫を、思わず手で取ろうとしようやく腕が動くことに気づく。
「アメ! まだ動けない!? アメなら、ルゥが呼んでいるアメなら!」
コウが呼ぶ。僕の名前を呼ぶ。
コウが呼ぶ。ルゥが呼んで僕を呼ぶ。
そのことに凍てつきそうだった体の芯が、少しだけ熱を帯びて伸ばした手を中心に体が動く。
悴んでいるせいか、麻痺毒が抜けきっていないせいか……それとも動きたくないだけなのか。
大分鈍い腕で体を支え、震えながらも膝で立てるまで体を起こす。
崩れ落ちそうな体を、ふと目の前に立っている気がした大柄の男性の気配で支える。
ついて来い、そう言っている気がした。生まれたときから傍に居て、今はもう傍にはいないその人が、今にも倒れそうな僕を導く。
ここを踏みしめろ、こうやって歩くんだ。力の入れ方、まだ毒の抜けきっていない体の体重移動。
考えはしない。その人がそうするから、僕は少しだけ魔力を使って解毒を続けながら前に進む。
「ル、ゥ……?」
ようやくたどり着いた場所で、僕は膝から彼女のそばに移動する。
大きく開いた腹の傷は意外にも血を出す気配はない。またその傷や、他に無数にある傷が治る気配も、ない。
「アメ」
コウに寄り添われ、眠っていたように目を閉じていたルゥがしっかりと目を開け、僕の名前を呼ぶ。
「治せ、ないの?」
「うん。血も肉も、それを治す魔力だってもう残っていない」
出血を止めているのは辛うじて延命できているだけか。
僕はルゥの頬に手を伸ばす。
「そっか」
冷たかった。
今の今まで、雪に触れていた僕でもわかるほど。
「だからっ! なんだって方法があるはず!
魔力なら貸せる。血と肉だって、たとえ適合しなくとも一時的にこの場を凌げるのなら俺のを使ってもいい!」
コウの言葉に体の芯の熱が心まで広がる。
ルゥはまだ、生きているんだ。
死んだと思っていた、近づいて、既に意識は無いと思っていた。
それが、自身の魔力だけで延命できるほど耐え忍んでいるんだ。僕達の魔力、それに血肉を分け与えて、体調が安定するまででもいいから生命力が持つのであればっ!
「僕を呼んでいたんだよね、僕の魔力なら受け入れられそう!?」
開拓の時、重傷を負った僕を助けられたのはコウだけだった。
もしかすると無意識下で他者を受け入れることに拒絶反応を示し、延命の魔力すら自身の生命力で補わなければならない状態なのだろう。
「ううん、無理なんだ。それよりもね……」
コウは既に試したばかりだろう。
僕でもルゥの生命維持に協力できないかと魔力を送るが、それも拒絶される。
「魔力が無理なら血と肉は?」
「無理なんだって」
「大丈夫。片腕でも何でもいい、斬り落としてルゥにあげる。体から離れたら魔力の濃度は大分下がる、それをルゥが取り込んで傷を塞ぐのに使えばいい」
腕は時間をかければ元に戻せる。
たとえ戻せなくとも、ルゥのためならくれてやってもいい。
「アメ」
短剣を取り出した僕をルゥが呼ぶ。
本当はコウに頼んで、斬り落としてもらうほうが手っ取り早いがこの瀬戸際に揉めるつもりは無い。自身の腕を断つ等、このような刃物だと酷い苦痛を伴うだろうが時間を掛けていられない。
「……ごめんね」
再び、再び体と心から熱が消え、感覚が失われた錯覚がした。
その言葉はどういう意味か……いや、考えなくていい。今はルゥを生かすために、空いている脳みそのスペース全てを使うべきだ。
「じゃあ……」
「ごめんね」
本当は、泣きたかった。
でも、今死に逝く幼馴染と、泣けなくなってずっと経っている幼馴染の前で、今僕が泣いてどうするんだ。
否定されて、それだけでどうして泣いてしまいたいんだ。
「……それは、自殺と何も変わらない」
否定したかった。
僕が否定されることで、ルゥが死ぬのなら、ルゥを否定することで、彼女は生きる気がしたから。
「自殺もそう悪いものじゃないよ。自殺だけが、自分の意思だけで死ねる、唯一の手段なのだから」
「どうしてそんなこと言うの?」
どうして?
どうして僕達を生きるために受け入れない。
どうしてコウの援護を自ら浴びて不利になるようなマネをした。
どうして時間を稼ぐ手段を自分から潰していた。
どうして、戦う前から生きることを諦めていたんだ。
「それにわたしは、十分生きた」
僕の言葉は虚空を切る。
否定され無視され、十四の少女は満足に生きたと笑う。
「ねぇアメ、コウ。最期に聞いてほしいな」
ルゥの言葉に僕は何も言えない。何を言っても否定され、無視されるのだから。
コウはとっくに何も喋っていない。そんな中、ルゥは僕達が自分を見ているのを確かめて言葉を続けた。
「二人共、仲良くするんだよ」
「……っ!」
思わず殴り飛ばそうとした。
その腕を、ルゥを挟んで反対側にいるコウが掴んだ。
彼を睨む。コウは何も言わなかった、何も言わなかったし首をどこかに振ることもなかった。
「アメ」
名前を呼ばれる。
そこを向きたくはなかった。
僕は今ルゥが憎かったし、最期って言っていたからそれを聞いてしまうと彼女が逝ってしまう気がして。
でも、何も聞かず、彼女が手の届かない場所へ行ってしまうことを考えたら、たとえどんなに憎い言葉を言われても聞いておくべきだと思ったのだ。
「 」
初めは寸前で事切れたかと思った。
でも、しっかりと動いている口の動きを、網膜と脳に焼き付けたところで、声が出ないほど衰弱したのだと思った。
「コウ、覚えているよね」
だから、ルゥがその後言い直すこともせず、コウに普通に話しかけている事実に、怒りや憎しみを抱くことすらも忘れ、ただ呆然としてしまう。
「……うん」
久しぶりに口を開いたコウの声は、まるで数年も前最後に聞いたものかと錯覚するものだった。
「なら、大丈夫だ。わたしは安心して逝けるんだ」
もう何を言っていいのかも、何を考えていいのかもわからない。
だから、ルゥが言いたいことを、ただ耳に入れるだけにする。
ふぅーと大きい溜息が聞こえた。深い、深い溜息。心の底から疲れを吐き出し、体の底から大切な何かを零れさせてしまうような。
吐息と共に、見下ろしていたまばらな色をしていた雪が、見る見る赤い液体で染まっていく。
その液体が手と膝に触れたとき、流れてくる源に返さなければと、今更手遅れとわかっている頭を無視して体は動く。血に濡れた指先が、ルゥに触れようと伸びる。
「あぁ、幸せだった……」
視線を上げ、手を伸ばした先のルゥはもう息をしていなくて、閉じた瞳は永遠に開かないことがわかった。
こうしてルゥは、死んだんだ。
「……っ!! やっと、逝った、のか」
声に慌てて振り向き身構えるが、そこには虫の息の男しか存在しなかった。
自身の腕を落とすために持っていた短剣を下ろし、万が一に備えつつ近づき様子を伺う。
ただ男もまた、傷が治りきっておらず出血も酷い。そもそも心臓に短剣が突き刺さり、抜かれず出血していないからといい今の今まで生きていたほうがおかしい。彼も長くはないだろう。
「あいつ、お前らの大切な仲間だったんだろ? 俺はまだ生きている、死ぬまで痛めつけてみるか?」
「……いいの?」
この男は、ルゥを殺した。
それだけで、怒りと憎しみが僕の体を焦がすように燃え上がる。
「あぁ、俺は成し遂げたからな。お前らのため最期に悲鳴をあげてやるのも悪くない」
彼が今まで黙っていたのは、もはや動く力がどこにもなかったのもあるが、空気を読んでくれたのもあったのだろう。
僕達に、ゆっくりと別れる挨拶をする時間を。もしかしたらルゥが生き残るようだったら、延命に使う魔力や、胸に刺さったままの短剣でトドメを刺すつもりだったのかもしれないが。
「大切な人だったんだ」
復讐って言っていた。
男がルゥを狙うのは、復讐だって。
「ルゥって言ったか、あいつがはじめに殺した女は俺の妻だ」
瞬間、名前もわからない目の前の男が記憶にいる人間と繋がる。
あの日、ユリアンを守るために二度戦ったテイル家の私兵、そのリーダー格だった男だ。
嫌悪した。
自己嫌悪だ。大切な人を失い、復讐に生きるのは僕と同じだ。
その男が、復讐を遂げたあと死に至るまでこんなにも満足そうに、そして虚しそうな表情を浮かべるのを見て怒りが霧散する。
今、目の前で死に瀕している人間は、僕だ。
もし僕も復讐を遂げた時こんな表情をするのかなと思ったら、憎しみに駆られ刃を突き刺すことはできなかった。
「何かして欲しいことはある?」
今にも止まりそうな呼吸を続ける彼に、僕は何を思ったかそう尋ねていた。
本当に何を言っているのだろう、こいつはルゥを殺したというのに。
「なんもねえよ、敵だったお前に施されるものなんて何も、な。
それこそ楽にして欲しいとも思わん、今は痛みもほとんど感じないし、僅かに感じるその痛みすら復讐を遂げた実感を与えてくれる」
何もしないことが一番の望み、か。
ならば好きなようにさせてもらおう、復讐を遂げた人間がどのような表情を浮かべ死ぬのか、大切な友人を殺した男がどんな苦しみを味わっているのか。
近くで見ておこう、その命尽きるまで。きっとやり遂げたといっても一人で死ぬのは寂しいだろうから、少なくとも僕は寂しいだろうから。
「……あぁ一つだけあった」
そのまま無言で死を待つのかと思ったら、何かを思い出したように告げてくる。
無言で先を促すと、彼はささやかな願いを口にした。
「娘と、息子がいるんだ。六歳と五歳の」
まだ幼い、僕たちが故郷の滅んだ時よりも幼い年齢。
テイル家に保護されたとしてもその年齢はあまりにも少なく、親を共に失うには早すぎる。
「あいつらも俺に似て馬鹿だから、リーン家に親を殺されたと言われたら復讐に走るかもしれん。
お前らがリーン家と関わる上で、あいつ等と殺しあうような機会があるのなら一言だけ伝えて欲しい」
「なんて?」
「好きにしろ、と。お前の父親は好きにして、好きに死んだ。
その最期に自身の仇を討ってほしいと願ったことはなく、地獄でもまた母親と二人そう願うことはないと」
「……わかった、覚えた。どうやってあなたの子供と判断したいい?」
「よく似ているから見た目でわかる、わからなかったら別に伝えなくてもいい」
「そう」
その物言いは、まるで後ろで横たわっている彼女も言いそうなことで。
同様に死に逝く彼の姿が、先に死んだルゥの姿が重なって見える。
「……あなたは、ルゥに似ている。その価値観はまるで彼女を見ているよう」
「そうか、なら地獄で仲良くしておくさ。殺しすぎたんだ、俺も、あいつも。
もしかしたらお前らも同じ場所に来るかもな、そうしたら仲良くするか、また殺しあおうや」
僕は確かに人を殺した。
地獄と言う場所がどういった基準で死者を集めるのかはわからないが、その事実は地獄に行く理由としては十分だと思う。
それ以前に生きるための糧として動物も多く殺している。
人間とそれ以外を同等に語るわけではないが、命を奪うということが業そのものなら、人も、生けるもの全ては生まれながらして地獄に行くものではないか。
なら死んだ人間がたどり着く場所ははじめから皆同じだ。食べなければ死ぬ、食べるためには殺す。
まぁその死後も、僕には無いか、もしくは忘れるものだと理解してしまっているのだが。
「そう、ですね。また会えるのなら、今度は仲良くしましょう。それかどうでもいい理由でまた殺しあうか」
「……? 何か言ったか?……あぁ、もう聞こえねぇのか。目も見えなくなってきた、俺、ちゃんと喋れているか?」
僕の言葉は届かなかった。
男はあらぬ方向を見て、僕達が居た場所を思い出したのか少しだけずれている場所を見ながら、僅かに崩れつつある発音で喋る。
「まぁ……いいか。でも、これ、は少し寂し、いな、真っ暗で、無、音で。
死後の 界っ、てやつも なもんな、のかね、なら早く会い いか、ねえと……な……
フルート、仇、は……」
飛び飛びの言葉に、調律を間違ったかのような声。
でも嫌悪することはなかった。
彼はルゥを殺したけれど、ルゥは彼と、彼の大切な人を殺したのだ。
彼は復讐を遂げた。僕達が目指す場所に彼は居て、相手はあのルゥだったけれど死に物狂いで戦った。それこそ彼女とは違い最期の言葉さえまともに話せないほどに。
開いたままの口をそっと閉じ、目も優しく塞ぐ。
手を胸で組ませようとしたところで、その胸にルゥが執念で突き刺した短剣が刺さっているを見てしまう。
見てしまい、そこで動きを止め空を見上げる。
雪は徐々に強くなり、僅かに見えていた太陽の光も今はもう見えない。
振り返り、ルゥを見る。
いつか彼女が語った心象風景。
少し傷跡や、剣の種類や数は違うけれど、それはルゥが満足するには些細な問題だろう。
- 理想少女では響かない 終わり -




