72.感情魔法
自主訓練を終え、ようやく早朝から朝へと移ろう頃に朝食を食べてから親衛隊の訓練に混ぜてもらう。
「人の弱点は体の中心にある」
客人相手ではなく、物を教える人間としてエリーゼは僕とコウ、そしてユリアンにそう口火を切った。
ルゥも一応この場、ミスティ家が所有する道場のような訓練施設に同席したが、訓練を共に行うつもりはないらしく隅で膝を抱えて汗を流す人々を楽しげに眺めている。
「額の奥にある脳、人中、喉、心臓、腹部、股間。表の中心に限定するだけでも十分だ。そのどれもに簡単な打撃を与えるだけで、激しい痛み、致命的な損傷を負ってしまう」
例として僕が二人の前に立たされ、それぞれ箇所を指摘され注目される。
少し恥ずかしいが真面目な訓練だ。他の親衛隊の人々は別に訓練を行っているのも幸いといえる。
「細かい部位に、内臓と間接。どこが痛いのかは体にわからせたほうが早い」
その言葉がどういう意味を持つか、それを理解し警戒する前に衝撃が与えられる。親指でこめかみを突かれたのだ。脳が揺れ、平衡感覚が奪われ倒れそうになる前に魔力でそれを整える。決して激しい攻撃ではない、でも不意に行って良い程度の攻撃でもない。
「痛みをもって効果的に記憶する、どこが効果的なのか、どれほどの痛みを与え、どれだけ動けなくなるのか……そして人を傷つけることがどういうことをかを」
思わず苦情を漏らすために開いた口をエリーゼの言葉が塞ぐ。歯痒かったが、そう言われてしまったのなら納得するほか無い。
それからしばらく僕達は、互いに弱点を突いて突かれ、体にその痛みを刻みあった。
もちろん加減はしたし、デリケートな部分はわざわざ触る必要はない。でもその行為は流石に堪えた。無知こそ人の幸福だ。町の外には暴力が蔓延しているし、街中も決して安全ではなくこうして人として在るだけで多くの弱点を保有している。
気心知れた仲だとしても、たとえ加減をされると知っていても、そんな場所に攻撃をされるなんてとてもじゃないが平静を装える訳が無かった。そして、僕がその誰かを傷つけることも慣れるものじゃない。
手に持った剣を吹き飛ばされ、慌てて相手の動きを見て盾を構えるがその攻撃に防御が何の意味も無いと理解できるのは僕が盾ごと蹴り飛ばされている最中で。
体が地面に触れたときにはもはや受身を取る体力も、そして気力も無く、背を床に任せただ呼吸するために上下する腹部を意識することしかできなかった。
そんな僕に戦っていた相手、エリーゼは刃を潰した剣を首筋に当て、僕に抵抗の意を無い事を確認し試合が終了したことを頷いて認めた。
「悪くはない、うむ悪くはないんだ。ただそれだけで。
体も鍛えている、技も身につけている、知識もあって、きっと魔法も上手く扱えるのだろう。
けれどそのどれでも一番になれることはないだろう、全ての技術を使えば他者と対等に渡り合えることは間違いない、けれどこうして一芸のみで渡り合うことは避けたほうが良いな」
「……知っていますよ、僕自身嫌と言うほどにも」
既に自覚している弱さを改まって他人に突きつけられるのもそれなりにつらい事を今理解した。
実戦形式の訓練の基本は刃を潰した剣に盾。魔法は身体強化のみで、攻撃に使わないことをあらかじめ決められていた。
風の魔法などは特に視認が難しいし、予期せぬ事態で手加減を見誤れば刃を潰しているといえど剣は鈍器だ。魔法で防御も治癒も間に合わなければ、そのまま頭から中身をぶちまけて死んでしまうことも考えられる。
それに炎や水は掃除が面倒だ。今日訓練を行っている場所は室内。既に無数の切り傷や何かがぶつかった跡、ついでに取れなかっただろう黒い染みも存在しているが、そこに焦げや大きな染みを増やす必要も無い。建物まるまる燃えてしまうとかは言語道断だ。
「でも、それでもそれが誰かに負けて良い理由にはならないことも。
もう一度お願いしても良いですか、試してみたいことがあるんです」
「あぁ、構わないぞ」
僕を地面に叩き付けたエリーゼの手で、体を起こされるころには息は整っていた。十分かといえばそうでもないが、相手も既に一戦戦っている。
実戦では避けるべき戦闘だが、別に訓練ならばこの程度構わないだろう。むしろその更に開く戦力差から何かを見出せるかもしれない。
「決まり事は魔法を直接攻撃に使ってはならない、それだけですよね」
無言で頷くエリーゼを確認し思考を回らせる。
感情魔法――感情を武器に変える術だ。ルナリアからアドバイスを貰って使えるようになった魔法、分類としては自己強化に含まれるだろう。
何度か試してみてある程度は使えるようになった気がする、けれどそれが上手いかどうかはわからない。他人がそれを能動的に扱っているところを見た記憶はないし、使っていたとしても表面にはあまり浮かばずわかりづらいだろう。
自己暗示と言っても良い。コウの技術を想う、それだけである程度僕には模倣することができる。
魔法を上手く扱うには筋道を通す必要がある。炎ならば炎の原理を知る、何故熱を発するのか、何を元に、どうすればより燃えやすくなるのか。必要ならば詠唱もすれば良い。言葉に想いを乗せ、魔力に願いを託し魔法という結果への道筋を作ってやる。
でも、僕にはもう一つの手段があった。道筋を無視し、第一感情をほとんど踏まずに第二感情へ到達する僕ならば。
何故コウがその動きを出来ているのかを頭に浮かべるより前に、魔力を頼ればその結果だけ大分劣化するが借りることはできる……僕の力はほとんど借り物だな、まぁいいか。
「お願いします」
飛ばされた剣を拾い両手で構え、盾は隅において代わりに短剣を腰に付ける。
一度戦ってみてわかったがロングソードそのものだけでもそれなりに重い。体格の良いコウやジェイドになら難なく片手で扱えるものだろうが、あくまで大人用の剣。
それに鍛えているといっても僕の体は十一の少女だ。両手持ちをしてようやくロングソードが自由に扱える武器になるのなら、盾などもちろん枷でしかない。
「――行くぞ」
少し離れた距離から、詰めるため駆け出すエリーゼ。
相変わらず速い、けれどこの程度なら僕にも見切れる。初撃を防ぎ、追撃を避け反撃、その反撃を往なされ……。
でもそれでは一戦目と何も変わらない、最後には隙を作らせられ蹴り飛ばされて終わる。だから僕は一戦目と違うことをしなければならない。
戦闘はなるべくルーチン化したほうがやりやすい。
無論応用を忘れて不測の事態に陥らないことは大切だけれど、ある程度あらかじめ何にどう対処するかを決めていたら、想定外のことが起きてもそれに対処するためのリソースを確保できる。
そのリソースを作るための、術。
《その体、獣のように》
詠唱。声に答え、魔力が魔法陣を描き瞬時に僕の体へ飲まれる。
それに対し、一瞬エリーゼが警戒した様子を見せるが大事は無いと判断したのか止まらない。
僕はそれを、肌で感じていた。目は飛ぶ鳥を捉える様に、鼻は戦いの臭いを嗅ぎ取って、肌は風を切るエリーゼを感じる。それなりに魔力を消費したが、その分だけ余力が生まれる。
本来ならば五感が感じ取って、知識を記憶から引き出し、脳が処理してようやく得られる情報。
怒りと同じだ。本来そういったステップを踏み、得られる情報を僕はある程度省略し結果を引き出せる。劇的に人よりも強くなれるわけではない。わからないことはどう足掻いてもわからないし、できないこともできないままだ。少し近道をできるだけ。
……でも、剣が交わる直前に何をするべきか空いた脳のスペースと時間で処理し、追加で必要な詠唱を口にする時間は生まれる。
《守るよ、僕が僕を》
コウを想い、唱える。
意外だが僕の幼馴染は攻撃よりも防御が得意だ。
いつも圧倒的な武術で敵を征圧し、必要とあらば爆発で消し飛ばしているので忘れがちだが、敵を倒して帰ってくる彼の体にはほとんど傷はない。
そして彼は並んで戦う人間を守りながら戦うことにも長けている。ジェイドや、時にはルゥが隣で戦うときには間に入り全ての攻撃を一身に受けていたし、誰かを庇う時の動きは誰かを傷つけるときよりも優れている。
そのコウの技術を、魔法で少し借りる。
長い間そばにいて、未だ何をしているかもよくわからない技術も多い。
けれどそれを言語化できないだけで、僕の中には無意識で処理の終わった知識と、彼と共に戦った経験が積み重ねられている。
その積み重ねで、先ほどは往なせなかったエリーゼの初撃を容易く流して見せた。
一瞬の驚愕。そしてすぐにそれを隠し、下へ受け流された剣を今度は切り上げるエリーゼ。
僅かな機微を感じ取り、考えるまでも無く切り上げられる剣を同様の動きで合わせ頭上へと運ぶ、僕の意識の外にある剣。
借り物だけで勝てるとは思っていない。僕が僕であるために、僕に出来ることは借り物で生まれる余裕で何かを作ることだ。
先ほどとは違う、そう思ったのだろう。
一度バックステップで距離を離し、流れを掴もうとするエリーゼを僕は剣を床に引きずりながら追う。
本来ならばそれは不合理な行動だ。追うにしても摩擦する剣は枷になるし、楽に動くにしてもしまうなり肩に構えるなり手段はある。
でもこの世界には魔法がある、そして僕は床を削る剣に魔力を込める。摩擦で発生するエネルギーを、少し魔力で道筋を作り運動エネルギーに変えるだけ。
その僅かな距離で作られた、僅かな力。
それが僕の攻撃を防ごうとしたエリーゼの剣を少しだけ手から浮かせる。
……力で押し切った! 僕は喜び震えそうになる腕を抑えつつ、斬り上げた剣を引きながら片方の手を剣から離し前に伸ばす。
どこでも良かった。戦闘力を削ぐためならば弱点とは言わず、最悪衣服のどこかでも掴んで引きずり倒せば良いのだ。
その目論見は読まれていたのか、半歩だけエリーゼは後ろに下がり僕の幼い手は届かなくなる。
代わりに返ってきたのは盾。当然刃の潰れた剣が鈍器になるのなら、盾もまた鈍器だ。
というか先ほどの戦闘で一度ぶん殴られた。盾を持っている相手と戦った経験などほとんど存在せず、それはもう見事に。
二度は繰り返さない。
伸ばした手を引き戻し、眼前に迫る盾の機動を逸らそうとしてそれが叶わないことを知る。
盾が、顔まで届かない。
盾の用途は三つある。
防御。主目的だ、相手の攻撃を防ぐ、もしくは軽症を避けつつ逸らす。
攻撃。盾は立派な鈍器だ。少なくとも拳より重く硬いそれは、武器として最低限の機能を果たす。稀にではあるが盾の一部を鋭くし刃として機能させたり、剣そのものが飛び出せる機構を備えているものもあると聞く。
補助。武器や道具の収納に――視界妨害。
かなり至近距離で戦っている現状、それに一度殴られたせいで注目している視線。
十分だ。効果も、時間も。
獣の感覚が通用しないため処理していた僕の脳で把握が遅れ、相手が何をしてくるのかを認識する時間も存在しないと判断し、ただ体を横に向けてその面だけを精一杯強化する。
そして衝撃。体の一点、腹部だけに痛みが発生し、僕の視界が流れて行く。
蹴り飛ばされたか。魔法が存在し、ただでさえ体重の価値が相対的に落ちているこの世界。大人が子供蹴り飛ばすなど容易い。
後ろを確認するまでも無い、この勢いは間違いなく壁まで吹き飛ばされるだろう。
それよりも確認するのは目的。
わざわざ至近距離で視界を奪い攻撃を仕掛けてきたのに、その攻撃が距離を離すものだと生まれた優位性を捨てるようなものだ。
先の一戦で蹴り飛ばされたのは試合の幕閉めの意味合いが強い。でも今は違う、体力も魔力も、その立場も勝負を決定付けるものは存在していなかった。
前を見る。
蹴り飛ばした僕に追いつこうと跳んで来ているエリーゼが映った。
鳥肌が立った。
原理はわかる。飛ばした僕を縮地で追い詰めるだけ。
ただ前に投げた野球ボールを自分でキャッチするような意味不明さと、それを実践しようとする思考と能力。あとその対象が僕と考えると恐怖を抑えることは出来なかったのだ。
足は床に着けられそうに無い。
幸い体勢は身構えていたおかげか足を床に向けてはいたが、若干蹴り上げられた形になっていたせいで無理をしなければ届かなそうだし、無理をして踏ん張った時間で体勢を整える前に叩き切られるのは想像に難くない。
一つの妙案が浮かぶ。
状況を打破するにはこれしかない……いや、他にもあるのだろうが、それを見つけている間に僕はエリーゼに追いつかれ無防備な姿に攻撃を受け敗北に至るだろう。
《戦いの中、曲芸を》
思い描くはルゥ。
開拓の時、槍で棒高跳びのような動きをしてみせた彼女の姿。
そのイメージを終えたときに展開された魔法陣は僕に吸収され、力となる。
剣の先端ももちろん潰れているが、それが床に突き立てられないことにはならない。
蹴り飛ばされている最中後ろ手に剣を床に突き立て、身を一度くるりと回転させその鍔を踏み台に上へ跳ぶ。
「なにっ……!?」
驚愕の声は真下にいるエリーゼのもの、僕も内心驚いてはいたが予想していただけ声を出す必要は無かった。
流石にこんな芸当魔法無しで成し遂げられる気がしない、これほど繊細な動きを感情魔法無しで僕に求めるのは酷だ。
位置関係は現状丁度エリーゼが僕に追いついたタイミングになる。
剣を踏み台にしただけで蹴り飛ばされるエネルギーを相殺できるわけもなく、垂直に跳ぶ筈だったが斜めに跳んでしまった。
ただエリーゼも僕がそんな動きをするとは予想外だったようで、反応が遅れ立ち止まったのは僕が跳んでから少し経ってから。
つまり、僕の真下だ。
天井が低くてよかった。もし屋敷のエントランスや、武道館のような高い天井ならばこんな真似はできなかっただろう。
でもここはそこまで高くはない。少なくとも四メートル以下ならば頭を下にして、再び天井を足場に下へ跳ぶことだってできる。
下へ加速し落ちる僕の手に持つのは盾の代わりに持っておいた短剣。
ロングソードよりは遥かに軽いそれも、天井を蹴った勢いに位置エネルギーも合わされば重い一撃へと昇華する。
「っ!」
ただそれも避けられれば無意味で。
僕は頭から床へ勢いをつけ激突しそうな現状をどうにかするため、慌てて両手で床を掴む。
けれど僕がどんなに大変な目に合っていようが、訓練自体何の決着もついていないのは誰が見ても明らかで、エリーゼが容赦なく剣を叩きつけようと迫って来たのが視界に入る。
頼む、持ってくれ僕の三半規管。
地に足をつける時間など与えられるわけもなく、すぐに隣へ寄ってきたエリーゼに足払いをするため逆立ちのまま無理な体の移動を行う。
なんとか制御しきり、エリーゼの片足を両脚で薙ぐように蹴るがそれも体を浮かせることで難なく避けられ、代わりに勢いをつけ僕を切り伏せようとするのが見える。
頼む、持ってくれ僕の肉体!
僕は二度目の懇願を自分の体にした。
普段逆立ちはもちろん、その状況で交戦するような筋肉の使い方は練習していない。
でも、今動き続けなければ負けるのは必至。上下逆のうえ、回転し続ける視界に状況把握どころか酔いそうになるが僕は祈りながらも、もう一度円を描くように脚を体を中心に回し、なんとかエリーゼの胴体を蹴り上げる。
願いは、届いた。
無茶な願いの連続を僕の体は実現し、全ての動作は不備のないまま理想通り動いてみせた。
けれど、防がれた。
盾で。それも、容易く。
もう次策を行使する余裕などどこにもなく、エリーゼは僕の脚を掴むと百八十度の十分な加速をつけて床に僕を叩き付けた。




