230.終わりと始まりの場所
小雪が降る中ひたすら西を目指し、近寄って来たソシレの警告を無視したウェストハウンドは残さず蹴散らし。
「ここらでいいわ」
ようやく故郷の近くまで辿り着く。長い、本当に長い道程だった。
まるで感じない村があった気配に、報告にあった未だこの地へとどまり続けている竜の溢れんばかりの気配。
「まだ限界まで近づけそうですが」
「竜の警戒が一段階強まった、少し引き返してそこで野営していなさい」
ヒカリと僕は肌でその視線を感じて、二人と一匹を下がらせる。
シュバルツとカレットはここに来るまでの護衛に、ソシレは行きの荷物と竜を討伐できた場合帰りにその証明を乗せるための荷車係。
そしてここからは、僕達の役割だ。
「大丈夫、そんな顔しないで。死にに行くわけじゃないから」
くぅーんと喉で鳴くソシレを僕は存分に撫でる。
大丈夫、死んでもやりたいことがあるだけなんだから。
「二人共、どうか……悔い無きよう」
本来言いたかっただろう言葉を飲み込んで吐き出したシュバルツに、
「アメとヒカリ、行ってらっしゃい」
「うん、いってきます」
どこまでも気楽な様子のカレットに見送られて僕達は二人で竜の縄張りへ本格的に乗り込んだ。
見渡すのは村があったはずの場所。
あの日更地となってしまった光景からは既に打って変わり、二度目訪れた時と同様に順調な速度で草木が溢れ小降りに降っている雪が控え目に覆い被さる。
「相変わらず何も残っていないね、自然で溢れてはいるけれど」
「それでも感じるものは沢山ある」
「村人分の、竜への怨み」
死者が何かを想う事は無い。だからこれは僕達が抱く、覚えている限りの人々へ捧ぐ想い。
「そして守りたい人々の分」
もう三度目のもしもを起こさないために、僕達はここへ来た。
他全てを蔑ろにして、この地を踏むと決めたのだ。
「行こう。竜が待ち侘びている」
「僕達ってわかってるかな」
「どうだろ、意外とわかっているかも」
名残惜しむ事も無く北東部へ歩む。
ゆっくりと、けれど怯える事無く。
ずっと認識していた僕達がその洞窟の前まで来ると、現在の主である炎竜は悠然と二つの足で前に出る。
記憶にあるものとほとんど変わらないその姿に、もうすっかり変わってしまった僕達の姿。彼にとっては短い二十年前後の時をここで過ごした竜は、僕達の姿を認めると吼える事無く臨戦態勢を整える。
「行くよ」
「うん」
剣を構え、盾を上げながら前に進むヒカリを壁にするよう僕達は前に進む。
牽制にと放たれた炎球を、魂鋼製の盾で防いで勢いを殺せない事を初めから知っているためヒカリはすぐさま後方へと逸らす。
直接的な効果を与えられなかった事を知った竜は迷わず炎球を爆ぜさせ、その影響を防ぐために僕は土を壁にとそそり立たせて身を守る。
瞬時に反転するよう背中を見せて、尾撃を繰り出す竜に僕は万が一を考慮して身を伏せて回避。
相変わらず迅い、魔刻を使わなければ視認速度ギリギリと言った所か。気は抜けないなと前を見るとその尾を盾で防ぎ、全身をバラバラにしかねない衝撃を体を浮かし物理法則を魔法で歪め、横に飛びかねない自身の体を前方へ加速させて肉薄するヒカリ。
口を開け牙を見せる竜に躊躇わず魔砲剣を振りかぶり、速度を重視して重みの無い剣戟で体表にかすり傷を与えると、食らいつこうとするその顔に自分から近寄り盾を強く振りかぶる。脳を揺らせなどしない、だがヒカリが反動で後ろに下がる事は可能で。
そんな様子を僕は竜の懐に潜り込みながら見ていた。竜の体躯は大きく、ヒカリに注視してしまえば少なくともそれ以外に位置する僕の目視は困難。そしてこちらのまともな武器は素手が届く範囲じゃなければ意味がないのなら近寄らない道理はない。
その身を支える逞しい後ろ脚に肩で張り付き、態勢を整えながらも軽く積もった雪を溶かし水刃を生み出す。第二間接まで指が沈んだ頃合いで、一度切り裂く僕の水刃から逃げるように体重移動を行った事が身を当てて伝わる脚から理解でき、咄嗟に転がりながら距離を離す。
「っ!」
息を呑んだのは翼を折りたたみ、僕が居た場所を遥かに超えて身を突き出して体当たりする竜に九死に一生を得た実感と、その隙を見せた竜に致命傷を与えるべく跳び掛かったヒカリが、隙を見せた筈の竜が強引に行ったサマーソルトにより打ち付けられる尻尾をどうにか盾で防いでいる事。
そんな動きはできるものだと想定していた、巨体が生み出してしまった隙を魔法や剣による連撃の様に消す手段も持っていると思っていた。
ただ攻防一体のその動きで、既に地から足を離して滞空している事までは推測できていなかった。そしてそんな敵の手札が、こんなにも早く切られる事も。
「行って、あの空まで!」
ヒカリの声を背中に僕は既に近くの木まで駆けている。魔法を練りながら、四肢の魔刻を活性化させて。
対策が足りていなかった、僕達が力のない愚かな少女だと演じるべきだった。そう後悔が背中を押して、木の幹を駆け上がり枝から枝へと跳び続けて。
不意を衝いた分だけ早く上空へと徐々に移動する竜に、地面から多少無茶な姿勢で魔砲剣を放つヒカリ。放たれた青白い砲弾を避けるために取った回避運動はその分だけ上昇する勢いを劣らせ、僕はそれを目視しながら木に乗る前に生み出していた魔法による土の足場を一つ一つ粉砕しながら空へと近づく。
一つ、二つ、壊して竜を見れば追いつこうと僕を認識しながらも更に高度を引き上げようとしているだけで特に現状攻撃の様子はどこにもない。予想通り羽ばたいている以上、追加の行動を取るのは滞空している時が精々か。
最後の足場を砕いた時、僕は地より深い場所に落ちる絶望を確かに感じた。
届かなかったのだ。
攻撃にも退避にも翼を使わせたくなく、一番その翼をもぐ為に都合の良いタイミングは上昇する際とヒカリと認識し、こうして追いつくためここまで昇って来た。
体の動きが止まる。上へ向かうエネルギーが、重力に負けて下へ落ちるエネルギーと移ろい始める。
これじゃ、何もできない。
水刃でなければ甲殻ごと切り裂ける術はない、触れられる距離じゃなければ何も、ましてや竜を地上に落とすなど。
竜の眼光が光った。
翼が無いにもかかわらず、自ら宙に躍り出た格好の獲物を狙うために。
攻撃を防ぐ手段はもとよりない。翼が無い人間にとって、上空十メートル近くの上空はあまりにも不自由過ぎる。同じ高さまで成長している木々も近くにはない。
避けるには反対側に移動するために蹴る足場が必要だ。今からそれらを生成する時間など無い、相手は体を動かすだけで僕に致命傷を与えられるのだから。
千に一度勝てる戦いだと思っていた、けれどこの段階で999/1000を引くとは思っていなかった。
予測できなかった僕が悪い。竜が警戒を強める段階はもう一歩先だと思い込んでいた、信じて、妄信してしまった。
こちらを見て、制止し口を開けて炎を渦巻かせる竜に睨み返す。
死などとうに覚悟していた。だから今は、少しでも竜を憎めるように、少しでも敗因を刻み付けるように。ただただ眼球にそれら全てを焼き付けるしか……
「アメ、竜が待ってるよ」
あり得ない声がすぐそばで聞こえる、ここに居るはずが無いのに。
緩やかに地面に吸い込まれながら下を見る、ヒカリが僕の下まで跳んできていた。
武器も防具も投げ捨て、少しでも体重を軽くし、木を駆け土を踏み余力全てを肉体に掛かる負荷を押さえるよりも高所に届くための魔力に変えた。だから、魔刻化した僕が様々な手段を使いここまで来た位置に、彼女は時間がかかったものの到達できたのだ。
そのまま体を丸め、地に頭を向けて足を空に向けるヒカリ。
「ありがとう、すぐそこにいくから」
「うん、待ってる」
足の裏と足の裏を合わせ、同時に強く蹴る。
僕は更に上空へと、ヒカリは地上へ。
彼女はきっと地に触れた瞬間酷い目に合うだろう。魔刻化した僕の足場になり、更に自身の脚力で地上に向かうのだから。
でも、それでも。その程度で竜に届くのなら。
発射された炎球が僕達の間を駆け抜けて、代わりに僕は竜と同じ場所まで高みへと昇る。
かろうじてたどり着けた、でもまだこれからだ。
《自壊ロジック"地に落ちる威光"》
忘我魔法。
人格が最適化され、僕は目的遂行のための存在に成り得る。
腕からチェーンを射出、標的は駆動が比較的少なく魔道具を巻き付けられる翼の根元。
寸分違わず命中、引き寄せ、近づく体に噛みつこうとする竜の唇に腕を入れて取っ掛かりを得る。チェーンの収納を一旦止めて、顎下を蹴り背面から約300度の弧を描いて竜の頭上に跳ぶ。
視線が間近で交わる。
提案、弱点と思われる竜の頭部への攻撃。即時却下、目的を遂行せよ。
竜が姿勢制御を行い、その余波により矮小な己の体躯が揺れる。問題無し、魔道具の存在もあり位置調整すら容易。
目的に、到達。詠唱を開始。
《水刃》
魔道具を展開させていない左腕全体を武器と成す。
振りかぶり、切断、切断、切断……断ち切る。
片翼を失い、墜落を開始する竜。限界まで張り付き、地に触れる寸前に横へ跳ぶ。
「ほっ、キャッチ。おかえり、アメ」
「……ここまでは予定通り」
「まぁね」
僕を抱えてくれたヒカリの腕から抜け出す。
危うく落下死するところだったが、どうにかヒカリの接近が間に合って衝撃を殺す魔法を唱えられたのだろう。
ただ限られた時間万全に至れたわけではないらしく、盾は持っていようとも魔砲剣までは見えない。武器を取りに行こうとするヒカリと、落下してもがく竜の様子を窺う僕。
四肢の魔刻はそのままに追加で目と耳を活性化させ、
少し前に居たヒカリが僕の後方へ飛んで行く光景が見えた。
今しか、ないよな。
秘策があり、今まで出し惜しんでいたのなら、翼という武器を奪われ、負傷と共に距離が開いたタイミングに切り札を切るしかない。
何度も願った。
竜には知能が無いのだと。
何度も否定した。
否定できるだけの材料がそろっていたから。
危機を脱するため、勝負に勝つ確率を上げるため、細心のタイミングで切り札を切った竜は、僕との間に居たヒカリを単純な体当たりで吹き飛ばし、彼女がかろうじて防御に間に合うほどの速度で駆ける身で僕まで巻き込もうと近寄り続ける。
でもその動きは左目で、地を砕かんと一歩一歩踏みしめる足音は左耳で、そして何より身体強化というジョーカーが切られた音、膨張した筋肉が内側から外殻を破壊する音をしっかりと耳で聞き届けていた。
初めて竜が人を襲った日、故郷を焼き払った時、不自然な傷があったからこそ予想できていた秘策の一つ。そして想定していたあらゆる可能性よりも対応が容易な物。
牙のどこかに当たれば殺せる、そんな意思を感じさせる雑な噛みつきを下に避け、踏み潰そうとする足を転がりながら回避し、純粋に、単純に叩き潰すための凶器として使用された胴体に左手を水刃と共に深く沈めた。
股座から抜け出し立ち上がりつつ、今ようやくヒカリが吹き飛ばされて遠くの木にぶつかる所を見る。意識は怪しいが、少なくとも見たところ命に別状はない。
そんな彼女が地面に落ちると共に、竜の腹部からも大量の血液と共に少しの内臓も出てくる。それにつられるように竜は傅いた。
胴体からほぼ全て斬ったつもりだけれど、意外と被害は少ないように見える。
まぁ竜にとっては人の腕ほどの厚みの傷はそんなものなのか、それとも膨大な魔力でどうにかできるものなのか。
……どちらでもいいか、もうアレは抗う力も残っていないのだから。
僕は、初めて立つことができていない竜を見ながらそう思った。もう抵抗もできずに命の火が消えるのも遠くは無い。
「ふぅ……」
こちらを見る竜と視線が交わる。初めて、竜を憐れだと感じた。
片翼を奪われ、それどころか地に立つことすらできず腹部を両断され、たった二人の人間に討たれる存在。
その存在が、未だ諦めていないのか口を開けて熱を集め始める。再生に扱われる魔力と、燃えゆる命の炎をそこに費やし、今までとは違う炎を生み出し始める。
炎竜撃。
故郷と、レイニスで一度ずつ行われた尋常ならざる爆発。
僕達は結局、見つける事ができなかったのだ。竜を討つための武器は見つけられても、竜から誰かを守るための盾はどこにもなかった。
初めからこの戦いは死に戦。相打ちを狙いこうされてしまえば僕達も捨て身で対応するしか残されていなかった。
「ならせめて自分の手で終わらせよう」
ゆっくりと歩みながら近寄る僕を、無防備にただ口を開けて辺り一帯を吹き飛ばすための熱を溜める炎竜。
《水じ……》
その竜を討つための刃を生成するために必要な僅かな水分も間近には存在しなかった。
乾く目で周囲を確認すると小雪が降り積もっていた地面は枯れた草木で包まれて、冬だというのに陽炎をまき散らしながら遠くの雪も気化させ周辺の熱量と共に水分すら奪い取っていく炎竜撃。
……まぁ対策はある。一応炎竜撃を予期し用意していたが、出来ればこうした方法は取りたくなかった。
《因果無き血よ》
目立った傷を負っていなかった自身の右腕を肘から手首まで短剣で縦に斬りつける。
《今、奪われていった者達を弔うための刃と成れ》
溢れ出る血液が腕を纏い、すぐに蒸発してしまうものの刃として機能する。
《血刃》
竜に隣接し、深く、深く腕を沈める。
甲殻を割り、肉を掻き分け、剛流とも捉えられる血液を腕に曝して。
炎竜撃の準備を整えるのに専念し、無防備な竜の大切な場所に触れる。多くの血液を喪失し、多くの血液を送り出す心臓の管を断ち切る。
消え往く命の中、最期に視線が交わった。
よくも成し遂げたと言っているような優しい瞳だった。
「……っ!」
遅れて堪え切れないほどの炎熱を感じる。
今の今までは制御され、近くに居ても恐ろしいほどに肌を刺す程度にしか感じていなかった炎球が、肌どころか肉を溶かし骨を焦がさんと脈動し始める。
必然だ。
制御を失った力は、ただ最初に与えられた目的を今果たさんと動き始める。魔法の使用者が死したからと言って、溜まり切ったエネルギーが霧散するほど生半可な存在ではない。
三度目だ。三度目の炎竜撃。
ただこれを機に、少なくともこの炎竜がもうこの炎で誰かを燃やす事は無いのだ。
「ヒカリ、悪いけど付き合ってもらうよ」
まぁ……悪くない。
竜はこの手で直接討てた。
例え三度この身が焼け死のうとも、三度の炎竜撃が二人の命を奪うだけで、少なくともこれ以上この炎竜が誰かを襲う事はない。
一つの村が滅んで、町の一角が吹き飛んで。
あぁ、そう思えば尚更ここまで被害を減らせた道程は悪いものではなかった。
こんな結末も悪くない。僕は初めて、悔いなく死ねるのだ。
「……そう何度も、これで大切な人を失ってたまるかっ!」
今爆ぜんという時、彼女が魔砲剣を炎球に突き立てる。
《涙は流れるままに枯れ果てて》
そんな事無駄だろうと僕は思う。
《怒りは荒れ狂い自身を焦がし》
尋常ならざる魔力を浴びて、青白い剣先が徐々に融解し始めるのがわかる。
《喜びは幸福を麻痺させる》
でも彼女は諦めない。不屈を瞳に宿し、謳い続ける。
《この世に希望などどこにもなく》
何時か聴いた詩に対する返歌。
《この世に絶望など、どこにもなく》
紡がれるは反抗歌。
《故に、其は我らが選び取るものなり》
半分ほど溶けた魔砲剣が前方から頭上に掲げられ、起動者を失った魔法は暴虐の限りを尽くすかと思いきやその溶けた剣先に従うよう移動を行い、まるで花火の様に遥か彼方まで空へ向かったかと思いきや、誰の命を奪う事なく炎球は優しく爆ぜた。
戻って来る周囲の熱。
ゆっくりと寒く感じる気温に季節に正しく向かって移ろう温度に、シトシトと入り込めなかったここら一帯に水分が集まりまばらな雨を降らせる。
「……対抗策、作っていたんだね」
「アメは竜を倒す事だけ考えていた。でも私は……コウからずっと――ずっとっ。炎竜撃を防ぐことも考えていた」
その結果が、これか。
僕の雷と同時期に、何故爆発の魔法を扱えるようにコウはなったのか。
何故最近、特大剣で殴られようと高所から落下しようと不自然な方向に跳ねるような物理法則を捻じ曲げる魔法を使えるようになったのか。
全ては忌むべき炎竜撃を防ぐため、その二つは彼女にとってはあくまで副産物でしか無かった。
「そっ、か……」
膝を付き、顔面から地面に落ちる。
視界を全て地面が覆いつくしているわけでもないに関わらず、何も見えないのは出血が酷かったせいか。
「アメ!? 酷い怪我っ、治せる?」
「それはかろうじて大丈夫、だけど先に血を、戻さないと。このままじゃ、マズイ……」
ぶっちゃけ勝てるとも思っていなかったし、血刃なんて切っちゃいけない伝家の宝刀というカードを持ち出す必要が出た場合の処置なんて考えてもいなかった。
咄嗟に失った血液があるだろう場所、竜に突き入れた腕が生み出した傷跡から自身の血液を取り戻そうとして。
「ああっ、があああ――!!」
「どうしたの!?」
痛い、いたい、イタイ。
魔刻化に匹敵するような激痛。あちらが己の存在を神経から焼き変えるような行為ならば、今この身を襲っている激痛は体内からナニかに物理的に身を食い千切られているような痛み。
血液が傷跡から入り込むと同時に、全身が電気で痺れるような、あるいは小さな爆発がいくつも起きているような衝撃が体を襲う。
「そっか、竜の血液!」
痛みと暗闇の中、彼女の声だけが澄んで響く。
宿主を失い死滅しようとした血液が僕を襲っているのか、単にこちらの中で少しでも生き延びようとしているのかはわからないが悪さをしているのか。
ただ追い出そうにも既に体内に入ってしまい、こちらは瀕死寸前。上手く抗えずにもがき苦しむだけ。
「これも、中に入れて」
ヒカリの言葉に迷わず、差し出された液体を体内へと流し込む。
まるで点滴を打っているような異物感と、よくわからない安心感。
その液体が僕の血液だけでは抗えなかった竜に対して手を貸してくれて、追い出すには至らないものの血管が異常を発する事は無くなった。
「あぁ、ヒカリの血……」
「うん」
ようやく視力を取り戻した僕が捉えたのは、こちらに膝を貸しているヒカリの腕へ付いている赤い跡。
体感ではだいぶ血を分けてくれたようだ。失った自身の血を取り戻せず、一対一では対抗できない竜の血液に対して対抗するために結構な量を流し込んだ気がする。
血管を流れる液体の八分の一はヒカリの血で、もう八分の一は竜の血液。かなり自分という感覚が薄れた、消えない異物感は一時的な物か、それとも今後も付き合っていく必要があるものなのか……どっちの血とも血液型が合っていないと思うんだよね。日数経過でさっさと血が薄れないと魔法で押さえ切れないほどの体調不良を招きそうで怖い。
「全部、終わったよ」
言われて自分の力で座り込み、激戦が行われた周囲を見渡す。
竜は確実に絶命し動きを停止し、魔砲剣は刀身を半分まで溶かして炎竜撃を阻害した。
僕達に大きな怪我はなく、誰一人欠ける事無く勝利を掴み取った実感がそこにはあった。
「あっ」
呟くのはヒカリの声、震えるのは僕達の体。
全てが終わった、そう実感した時怖くて怖くて堪らなくなった。
今まで目指してきた生きる理由を乗り越えてしまった喪失感、現実味の無い奇跡の代償にこれからどれほどの絶望が待っているのかと。
「どうしよう、いいのかな……」
ヒカリの声は震える。
僕が初めて見る彼女の涙で声は震える。
「竜、倒したよ。アメ、守れたよ。
だから、アメとずっと一緒に居る、そう誓ってもいいのかな……?」
思い出すのはルゥが刻んだコウへの呪い。
弱さを見せて良いと思えた相手にしか涙は見せてはいけない、僕はそれに値する人間に成れていないのだろうと何時も泣かないコウやヒカリの傍で自分を責めていた。
でも、違ったんだ。光が自分で、相応しい相手に成れるラインを竜という場所に築いてしまっていたんだ。そして今日、ようやく超える事が出来た。
「あ、れ」
手を伸ばす、伸ばそうとした。
子供の様に泣きじゃくる彼女を慰めようと、少しでも僕という存在の体温が安心に繋がるならば。
そう願い、竜を倒すという事がどういうことかを思い出す。守るべきもののために戦ってきて、守れなかったものへ詫びようとした。
「……思い、出せないな。
お父さん、お母さん。コウの両親、顔は思い出せるけど名前が思いだせない。
大切だった友達、スイにジェイド。名前は思い出せるのに、顔が今ではぼやけてしまって……」
それを想って戦っていたはずなのに、今はもう遠い存在で。
思わず、喪失感からか涙が零れた。今の今まで泣けなかった光に対して、僕だけが泣くのは卑怯だと思って我慢してきた分、自然と涙が出た。
「どうしよう、大切なはずなのに。大切だった、はずなのにっ――!」
今この瞬間にも零れ落ちてしまっているんじゃないかと錯覚して、僕は手で目の前の宙を切る。
何も掴めない、それどころかこうして無暗に足掻くたびに大切なものからはどんどん離れているような実感すら出てきて。
視線が交わった。
雨が少しずつ降る中、確かに自分の瞳から溢れる涙で顔を濡らしているヒカリと僕の視線が。
手を伸ばす、届かない。
彼女も手を伸ばした、届いた。
握り締める、彼女が縋れますように、彼女に縋れますようにと。
これから共に支え合えると願い、今度こそ理不尽に大切な物を失わないと祈り。
天気雨の中、曇った空に陽光が差し込んだ。
そうして掛かった虹の色は、とても曖昧だったけれど忘れられそうになくて。
- 終わりと始まりの場所 終わり -




