210.彼女は自然の摂理に生きています
これほど耳という部位が小さくて喜んだ事は初めてだ。
更に機能している点と言えば傘となる外側を除外し中だけでよく、短剣に大雑把に切り裂いた後に神経が密集している箇所をぐりぐりと指で掘り進めるだけ。
腕と比べると裂傷だけでもだいぶ痛かったが、魔刻化する作業はそれ以上に痛いので問題は無かった。悲しい事に。
- 彼女は自然の摂理に生きています 始まり -
「アメさん、体拭きましょうか?」
室内に入って来たココロが一瞬内部の血塗れである惨状やそこから来る臭いに顔を顰め、すぐに失礼だと思ったのか平静を取り直して僕へと尋ねる。
「濡らしたタオルと、新しい下着だけ取って」
「わかりました」
開き直ろう。
漏らした。
――漏らした!!
固形物は摂っていないので小さい方だが、トイレに行こうとドアを開けると案の定廊下の眩しさで吐き気がするので、アレンの助言通り用意していたオムツを使って開いている釜に密閉し捨てていたのだが、三日目(恐らく)の今日で左耳を魔刻化したあとの仮眠直後起き上がり……失敗し、ドスンとお尻から落ちたら堪え切れなかった。
まぁ初めから予想できていたし、今まで良く持った方だと割り切ってココロが渡してくれたタオルで少しだけ下半身を拭いて、新しい下着を履く。
室内は色々な臭いが密集し鼻が曲がりそうで、体も垢や鼻水どころか乾いた血で酷い事なっているが今更手遅れだ。この部屋今後使えるのだろうか。
「……? 立てないんですか? 手を貸しましょうか?」
「いや、このままでいいの」
ベッド横で床に座り込んでいたのは別に現実を受け止められず呆然としていたわけじゃない。
このまま誰も来ないようなら着替えも後回しにし、足の魔刻化を始めようとしていただけだ。
椅子に足を乗せてもその姿勢を保つのがきついし、ベッドは血であまり汚したくない最後の砦だ。既に結構赤黒いけど。
「嫌に手馴れていますね」
「ほんとね」
太ももから踵近くまで短剣で切れ目を入れていく僕に、ココロは椅子に座って苦笑いを浮かべる。
獣を解体したことは無数にあるが、人間を解体したことは今回が初めてだ。誰の目にもつかないよう死体を処分なんて事態この世界には必要ない、大概ばれないのでそのまま放置かできれば埋めてあげるし、以前町中で人を殺めた時は組織が処分を行ってくれた。
「まだ居てくれるのなら手伝ってほしい」
「何ができますか?」
「勇気下さい」
「がんばれ! がんばれ!」
「むしろ逆かな」
一瞬棒読みで馬鹿にしているのかと思ったが、ココロは方向性を間違っていたことを瞬時に理解して何か目を閉じて考え始める。
少し経ち、ようやく思いついたのか一度席を立ってから、僕の斜め後ろ辺りに距離を保ってからベッドに座った。
「アメさんが私をこの世界に招いてくれましたね。戦いとは無縁の世界から、自分の手で人を傷つけて、昨日雑談していた人が簡単に死ぬような世界に」
感情を押し殺した声。
ぞくりと背中から罪が這い上がり、冷血が僕の天辺まで登りつめる。
「私がどれだけの命を奪ったかわかりますか? 私が、どれだけその度に苦しんだかわかりますか?」
「……うん」
今までの彼女を見れば、今感情を押し殺してそう事実を伝えねばならない声を聞けば。
あと少し、良い感じに昂って来た。
「これから、私はどれだけ戦えばいいんでしょう」
今、顔を見られない位置に意図して移動した理由を思えば。
僕は、僕をこれ以上ないほど苦しめる事を選べる。
「――っ!!」
魔力が体を焼く。
性質上他の誰にでも出来ない、魔力で肉体を焼くという行為。
「だ、大丈夫ですか!?」
「だいじょうぶじゃない……でもあわて、ないで……」
「予想より反応が酷かったんですが」
結構、悲鳴を抑えられるようになってきたと思うんだけどなぁ。
そんな返事を口にする余裕はもうなかった。
笑え、嗤え。自身を嬲る矛盾に、それを望んでやっているのだと。そう思う事が苦悶の声を上げる滑稽さを抑えてくれる一因になる。
ぽんっと肩へ手を置かれる、一瞬止まった動きを再び再開して魔刻化を続ける。
言葉を発する事すらできない僕を安心させるために置かれた手を、思わず自身の意思が干渉できない煩わし存在と噛み切ろうと考えて、そうしてくれている存在が自分にとってどういう存在なのかを考えたらこれ以上彼女を苦しめる事は出来ないと痛感して思い止まれる。心が苦しんだ分僕は僕の肉体を苦しめられる。
その手の主は、右足の魔刻化が終わった段階には既に僕が気付く余地なく室内から消えていたのだけれど。
「ヨゾラ」
「起きてたんだ」
彼女の背後、扉を開けた先は暗闇に包まれている。
恐らく深夜なのだろうか、ベッドの隣で座ったまま眠ってしまっていたようだ。
「代えに来ただけだから、水」
「ありがとう」
持っている釜と、水がほぼ入っている釜を取り替えたヨゾラを僕は呼び止める。
「……友人を殺した人間が苦しんでいる様子は見ていて気持ちがいい?」
「初めはそうした意図もあった。
だけど今半分は、そう思えないほど可哀想としか」
即答。
「哀れとか、惨め。そう言った方がいいよ」
「考えておく」
迅速に退室していった背中を見て、僕はふぅと息を吐く。
己はこう成るのに値する人間だ、それまでの事を今までしてきた。
ただ、今だけはもう少し休息を。
あと二ヵ所、左目と左足の魔刻化だけ。
これを終えるため、二回苦しめるだけの力を回復するために僕は再び眠りに落ちた。
- 彼女は自然の摂理に生きています 終わり -




