209.彼女は幸福を知っています
扉の開く気配で目が覚めた。
「すまん、起こしたな。寝て居るのならまた時間をずらして来る」
「……いいよ。どれぐらい寝ていたみたい?」
外の様子が確認できない部屋に居る以上、自分の体感を信じる他無いのだが生憎と今は自信が無くてシュバルツに尋ねる。
「一日の半分程度だな、主が帰って来たタイミングを見る限り」
まぁ、そのぐらい寝ていたか。普段の睡眠時間より倍近く、ただ寝過ぎて気分が悪いといった症状が見当たらないのが余計に気持ちが悪い。
「両方不要か」
覗き込んでいるのは二つの釜。水分摂取用の水が入っているものと、逆に口や下から出したものをしまっておくようにと持ち込んだ物だ。
躊躇いなく覗き込んだが、僕も特に普段は思うところがあるだろうに羞恥や申し訳なさといった感情は浮かんで来ない。今はマシだが正直それどころじゃない。
「水は飲むか?」
「うん。どれぐらい一つ目の魔刻化していたかわかる?」
「ほら」
普段淹れてもらう紅茶とは違いコップを雑に釜へと突っ込み、水を汲み上げてから僕に手渡してくれる手を思わず左腕で受け取ろうとし、咄嗟に右腕に入れ替えてからコップを手に持つ。
特に左腕に問題があるわけではないが、散々激痛の源になったその青白い色が目に入るとどうしても躊躇が生まれた。
「それも先ほどと同じ回答になるな」
何に対する回答かと一瞬本気で悩んで、あぁそう言えば時間を尋ねたのだったと思い出す。
十二時間ほどか。あまりにも酷い時間に、体感時間が伸びているかと思ったがこれもそう差は無かった……喉を通る温い水が美味しい。丸一日以上水分摂取していない事になるから体が喜んでいる。
「さて」
もう一度おかわりを要求し、コップの中をゆっくりと飲み干した僕を確認してからシュバルツはテーブルにあるもう一つの椅子に座る。
「……行かないの?」
「主から頼まれてな。一人だと魔刻化できない可能性が高いから慣れるまで見ていてやってほしいと」
子供じゃあるまいしと思ったが、昨日一日に渡り死をも超絶する痛みを思い出すと体が震えそうになる。
あぁこれは無理だ。一人だったら絶対今日ビビッて出来なかった。
「そりゃ損な役割で」
「命令されたわけじゃない、俺は俺の意思で今ここに居る」
思わず発生しそうだったただ事じゃない雰囲気を散らすように僕はベッドから体を起こして、自分用の椅子に座る。
特にどちらが誰の、と決めた椅子ではないが、テーブルが初日で左腕を掻っ捌き血塗れになっている側が僕の方だ。
蝋燭の灯る暗い室内に男女が二人、SM行為か何かが行われたのではないかと錯覚するが全部僕の一人で行った惨状。悲しい。
「……もうやるのか? 別に急かしているわけではないぞ。
今日は休息に充て、話相手になっても構わないが」
「大丈夫。心の一割でも今日やりたい、やらないと。そう思うのならやる事にしている……多分そうしないと中途半端に投げ出してしまうと思うから」
「そうか」
短い返事に、少しだけ椅子を引いて距離を取るシュバルツ。ヒカリから聞いたか、室内の様子からこれからどうなるのか予想したのだろう。
それを確認して僕は左手で、右腕の腹を丁寧に解体していく。狩った獣の体をバラす様に、魔法で出血を押さえ、必要以上に肉体を傷つけないよう丁寧に、あとで元通りに治せるようゆっくりと。
下準備を終え、一度深呼吸……してもまだ魔力を流し込む勇気が足りず、腕の内部に触れた指が脈動する肉体を感じ取るだけで。
「何か言って」
「……何を言えばいい。悪いがまるで想像がつかん」
「僕が自分を苦しめるに値する事」
「……」
つらい。
つらいなぁ……。
僕の罪を耳元で囁いてくれる存在が居ないのは、本当につらい。
「今まで殺した敵の数でも数えろ」
獣に、野盗。テイル家の兵に、奴隷時代アレンと殺したならず者。
覚えていない。どれだけの数を殺めたかも、その最期どんな顔をしていたのかも。
その時、僕がどんな感情を抱いていたかすら。
「――づっ!!」
その人として壊れている喪失感を覚えた時、まるで高い場所から飛び降りるときに要するような意気込みを入れて僕は魔力を流し込む。体を魔法という存在に作り替えるための魔法を。
一つ一つの細胞が、部位が、ゆっくりと青白く変化していく。あまりにも遅々とし、数分経った今ですらようやく指を僅かにずらした程度の距離で。
指の先と指の先が触れ合い、円が一つの線の始まりになる前に、全身を焦がす様な熱い感覚、感電するよりも腕の筋肉と脳の神経がズキズキと圧迫され、獣に食い千切られるよりも腕から切り離された肉が痛みを発する。
「あっ……あぁ゛っ――!!」
堪え切れず、魔刻化する左手から逃げるように右腕がテーブルに置いてあった短剣を薙ぎ払いどこかへ飛ばし、出血を押さえていた魔法が途絶えて腕全体を開いている傷口から血が溢れる。
何故か咄嗟に短剣を拾わねばという強迫観念に駆られて椅子から転げ落ち、体を支えた左腕が今までの自分とは違う色、昨日痛みを発し、今日右腕に同じ事をしている青白い色が薄暗い室内でもよく見えて思わず吐いた。
息もできないように断続的に飲んだばかりの僅かな水と、胃液を小出しに吐き出して、ようやく拒絶反応が止まり収まった全身の嫌悪感が引き始めた安堵から力が抜けて吐瀉物に顔から突っ込む。
「無理をするな。お前ですらこの様子の痛み、時間をかけてゆっくりとやっていく他ないだろう」
体を起こされ、顔をタオルで拭くシュバルツに僕は首をふるふると振る。
「寝かすぞ、暴れるなよ」
「ダメなんだって、戻して……」
「大丈夫だ。今運ぶから」
「だからっ! ベッドじゃなくてテーブルに戻してって!!」
何も彼が悪い事などしていないのに、僕は切り開かれた腕が焼けるような痛みを発しそれに抗うように声を張り上げ怒鳴り散らす。
「僕ですら堪え切れない痛みなんだ。尚更慣れない内に、安息に慣れて魔刻化を諦めてしまう前に続けないと取り返しがつかなくなってしまうっ」
心は、弱いから。
「そうか、お前が言うのならば俺達は信じるしかない。
虚勢でもなんだっていい、最後まで貫いて見せろ」
あまりにも、痛い。
テーブルを叩いて。
駄々をこねる子供のように八つ当たりのためシュバルツに殴りかかり、簡単に組み伏せられ。
今この状況を止めてくれと嘆願するよう窓があった場所を叩いて、テーブルに引き戻されて。
椅子を蹴り飛ばし、蝋燭を握りつぶし、布団を引き裂き。
それでも魔力は全て魔刻化に使った、そして右腕の魔刻化は数時間で終えた。
「ありがとう、付き合ってくれて本当にありがとう……」
「礼を言う暇があったら一刻も早く休め、残り四ヵ所終わるまで明日からもまた同じ日々だ」
「……それはできれば今は言わないで欲しかった」
僕をベッドに寝かし、フンッと鼻でシュバルツは笑ってから部屋を出ていく。
廊下の光があまりにも眩しくて、思わず目を腕で覆いながら窓は塞いでいて正解だったと思う。
小鳥の囀りや、太陽の輝きまでは消せないだろうから、今の僕にはとんでもないストレスになっていただろう。魔刻化という正常じゃない作業は正常じゃない環境で行うべきだ、何もかも体にかかる負担により苛立つ要因になってしまう。
あぁでも、シュバルツが居てくれて本当に嬉しかった。
面倒かけてしまったな、何時か埋め合わせをしたいと両手を頭上に上げて、その双方の腕の腹と甲の部分が確かに人肌ではない色で輝いているのを蝋燭の光で確かめて、僕は安堵にゆっくりと意識を手放した。
- 彼女は幸福を知っています 終わり -




