208.彼女に虚無はありました
リーン家の小さい方の屋敷。
その一番隅でほとんど使われていなかった小部屋、僕はそこを借りて扉と窓を限りなく隙間を埋めるように板を釘で打ち付けた。
室内にあったものもほぼ外に出し、残ったのは水が入った大きな釜に、何も入っていない釜。持ち込んだ幾つかの生活必需品に、捨てる直前の簡素なベッドとテーブルに椅子。
二日食事を摂っておらず胃腸も空っぽで、そんな状態で光は入らず光源は隅にある蝋燭だけで。音も漏れないようにした牢屋のような場所で数日暮らそうと言うのはまるで囚人のようだが、これから行う事を考えたのならば概ね間違ってはいない。
- 彼女に虚無はありました 始まり -
テーブルに椅子、その上へ普段使っている短剣を清潔に消毒し、魔刻化する際必要な自身の肉体を切り刻むための得物として配置し、いざ……というタイミングに隣にヒカリが居る。
「本当に見るの……?」
「初めは立ち会うよ。これからずっと、は難しいけれど。最低限何かあったときに対応できるために、時々他の人も寄越すつもり」
「見たがるかな」
「見たくは無いだろうね」
セルフ拷問ショーだ。誰も好き好んで来てくれたりはしたくないはずなのだが、ゴミ出しやら水の注ぎ足しは可能ならば誰かにやってもらったほうが良いとアレンに言われた。
食べても痛みで吐くし、満足に用を足せない可能性が高いので食事はしばらく摂っていないが、何とか魔刻化が終わるまで体内の栄養素が持ってくれると嬉しい。
傷自体は戦闘で負う程酷くはないし、体を動かすわけでも無いので燃費の良い僕の体は二週間ほどならば水と塩だけで堪えるはずだがどうだろう。
「……どうしてもって言う人以外は来なくてもいいよ、何かあったら僕のほうから誰か呼ぶし」
「呼べるかな」
「それを確かめる意味でもさっさと始めようか」
左腕に短剣を突き刺し、不要な箇所を傷つけないように筋肉を露出させる。
我ながら傷つくことに慣れたものだ、前世ではこんな傷を負ってしまったら泣き叫んでいただろうに、今の僕は声を堪える必要すらない。
まぁ一度目の生が徐々に焼け死んだせいでそれが基準になってしまっている印象が強い。それからもしばらくしたらずっと戦い続けていたし傷は絶えなかった。
問題はここからだ。
筋肉に触れ、魔力を込める。
「……きて、アメ」
ヒカリの声で目が覚める。
どうやら気絶していたらしい。
「……どれぐらい経った?」
「数分」
「魔力を入れてから何も覚えていないんだけど」
気絶、していたのだろう。おそらく。
椅子に座っていたのに起きたらいきなり床が目の前にあった辺りそうに違いない。
「悲鳴はあげなかったよ、心臓は動きが弱くなって止まりかけてたけど」
痛みで気絶する段階を通り越し、どうやら死に掛けていたらしい。
「……二周りぐらい覚悟が足りなかったみたい」
脳と心臓の働きを強化する。
痛みを抑えることは正常な魔刻化を妨げるが、その逆、意識を保つために肉体を活発化させることに問題がないのは既に確認済みだ。
治りかけている傷を再び切り開き、深呼吸して魔力を込めた。
「ぎっ……ガッ、ガアアアアアアアアッ!!」
獣ですらあげないような悲鳴をあげ、僕は思わず魔力を止める。
触れていた部分の魔刻化はどうやら済んでいるらしいが指一本が触れた僅かな箇所、これでは肉体強化すら期待できない。
「どうする? やめる?」
全身から嫌な汗が吹き出て、口を閉める余裕すらなくそこから涎を垂らしてテーブルに持たれかかる僕にヒカリは尋ねる。
「やめたい」
「なら」
「でもやめない」
もはやこれしかないと知っているから。これで少しでも勝てる確率が発生するのならば。
今まで味わってきたどんな苦痛よりも勝るそれに頼るしかないじゃないか。
「ヒカリ、ごめんね。もうしばらく付き合って、辞めたいって叫ぶのを諦めるまで、無理やりにでも続けさせて」
「うん、わかってる」
魔刻化を再開し、痛みで作業が止まる度ヒカリは耳元で囁く。
「焼け死んだ時の痛みってどうだった?」
「これよりは何倍もマシだったよ、でも家族が目の前で焼け死ぬのはこれよりも辛かった」
また一つ筋肉と神経が魔力に近づく。
「初めて狼に腕を噛まれて、撃退するために燃やした腕の痛みは覚えてる?」
「覚えていない、でも、怖かったのは覚えている。死にたくなかった、何が何でも死にたくなかった。だから三度目を避けるためなら」
また一つ体が肉体から離れる。
「村が無くなった光景はまだ目に浮かぶ?」
「うん、何も無かった。でも、確かに失われたせいで僕達は悲しかった」
肌色が、水色に変わる。
「スイの腕の重さはどんな? 今のアメより軽いかな?」
「僕の全身よりは軽いよ間違いなく。でも僕は彼女の片腕一つでも重いと思ってる、手に取ることすらできなかったジェイドの分もあるから」
露出した左腕の中身が傷みに踊り、赤い雫を撒き散らしながら。
「ルゥのお腹に開いた傷や、その時私達の胸に開いた傷の痛みは?」
「酷かった、自棄になるぐらい。もうこれ以上悲しいことは滅多にないと思っていた頃だし」
左腕の赤い傷跡は、水色に埋まる。
「体が二つに引きちぎられる痛みって知ってる? アメはまた焼け死んだよね、同じぐらいかな?」
「実は覚えていないんだ、コウの姿があまりにもショックだったから」
左腕の魔刻化が、終わった。
「おつかれ、アメ」
うん。
そう口に出したかったはずなのに口からは痛みの余韻で喘ぐ声しか漏れず。
「今日は、ゆっくりおやすみ」
ベッドに運ぶため体が持ち上げられる、不意に揺れた体で青白く魔刻化された左腕が疼き、痛みに暴れヒカリの頬を殴ってしまったが彼女は無言で最低限寝れるだけのベッドに移動させてくれて。
あと、五ヵ所。
左目、左耳、右腕、左足、右足。
僕に足りていない箇所を埋めるため、もう一度同じ事を繰り返せねばならなかった。
その気が遠くなるような事実を確認すると、まだ痛む左腕を庇うように僕はスッと意識を失った。
- 彼女に虚無はありました 終わり -




