第9話【平均への回帰の法則】
ある日の夕方だった。場所は駅ビル地下のカクテルバー。そこで酒をちびちびしながら話に花を咲かす3人組がいた。
ひとりは壮一。ひとりは同僚の女性弁護士、村木玲香。そしてもうひとりが壮一が所属する太田弁護士事務所の代表・太田和文、54歳だった。
「……なるほどなるほど、幸田くんのママはもう完全に洗脳されちゃってるね」太田はため息まじりにいった。
壮一は先日、文恵に『あなたは詐欺師医師にだまされているんだ』と説明した。しかし、文恵はまったく理解することができず、変わらずに体に害を及ぼす薬を飲み続けた。そのことを壮一は太田に打ち明けたのである。
「もう救いようがないんですかね?」
壮一の問いに太田が答える。
「そうだねぇ、きっと幼い頃から洗脳教育を施された人だと思うし、余程のことがない限り真実に目覚めることは難しい気がする」
「やはりそうですよね……」壮一は暗い表情でつぶやいた。
そんな彼に玲香がいった。
「でも、まだあきらめるのは早いんじゃない?飯干恵子とかTOSHIとか、カルト宗教の洗脳から見事に脱出できた有名人も多くいるし」
「その可能性はオレも考えたけど、残念ながらオレの母の場合はどうにもダメみたいだ」
「なぜ?」
「簡単にいうと……その……」壮一はぽつりといった。「オレの母はもともと頭が悪いんだよ。理屈が理解できないんだ」
言葉をなくす玲香。
「でもまあ、あれだね、たしかに幸田くんのママは洗脳されちゃってるけど、人生なにが起きるかわからない。我々もなにかあったら協力するから」
そう励ます太田に壮一はお礼をいった。
「ありがとうございます……」
「ところで幸田くん」
「はい?」
「君が昔、出版したテレビゲームの攻略本……ぐ、ぐ、ぐ、ぐれぐれぐれ……」
「【紅蓮の爪】のことですか?」
「そう!それ!【紅蓮の爪】!」太田はパチンと指を鳴らしていった。「うちの高校生の息子が君のそのゲームの攻略本にメチャクチャお世話になっているらしくてね。君のことを神様のようにいっていたよ。フフフ」
「はあ、それは恐縮です」
「今度、息子にサインでも書いてくれないかい?」
「サインですか?」壮一は驚いていった。「まあ、書いたことはありませんが……」
「ところで幸田さんのお母様って」玲香だ。「幸田さんと同じように背が高い人なの?」
「うーん、よく訊かれる質問なんだけど、それがまた全然そんなことないんだ。母は150前後、父は170前後だったかな」
「ご両親ともそんな小柄なの?意外」
「オレもそう思うよ」
そのとき、太田がおもむろに口を開いた。
「ハハハ、それはそうだろう。背が高い人は基本的に背が低い両親から生まれるものだからねぇ。平均への回帰の法則があるから」
「平均への回帰の法則?」壮一は興味深そうにくり返した。「いったいなんですか?それ」
「へー、さすがの幸田くんも知らないことがあるんだ」太田は愉快にそういった。「たとえばね、身長が180センチある長身の親から生まれた子供の身長が、親よりさらに高い190センチになっちゃったらどうなると思う?」
壮一も玲香も特に言葉は発さなかった。
「続いて、その190センチの親から生まれた子供の身長が、親よりさらに高い200センチになっちゃったらどうなると思う?」
やはり壮一も玲香も無言だ。そんな彼らに太田はいった。
「それをくり返していたら、その一族の子孫の身長は止まることなく伸び続け、身長が100メートルとか200メートルとかになっちゃうでしょ?そうなったら生活に支障がきたすどころじゃない。生きていけない。死んじゃうよ。だからそうならないようにするために、身長を平均に戻す必要があるわけ。これが平均への回帰の法則。背が高い親からは基本的に背が低い子供が生まれるんだね。逆に背が低い親からは背が高い子供が生まれるの。人間界はこのサイクルをくり返してバランスをとっているんだね」
壮一は席からすっと立ち上がり、放心したような様子でカクテルバーをひとりで出ていった。実はこのあと玲香とデートの約束だったのだが、平均への回帰の法則の話を聞かされた壮一はもはやそれどころではなかった。
背が高い人は背が低い親から生まれる━━頭脳明晰な壮一には、説明はそれだけで充分だった。