8話 ニコラとグレタの秘密の探検
成人の儀から一月が経ち、ニコラも精神の安定を得た。
ニコラとグレタはお忍びで町に出かける。
グレタはエミリオにバレることを恐れていたが、
根気強い説得のかいあってか渋々と了承してくれた。
目的地はポルッカポッカの鉱山地区だ。
◇
地中部と地上部の境には人の出入りを管理する門がある。
カジノギルドの受付だ。
門といっても大聖堂みたいな荘厳なホールである。
空港の搭乗許可を出すロビーのような役割を果たしている。
受付のカウンターには女性従業員がいる。
至る所に兵士が佇んでいるのは、不正でカジノに乗り込む輩を取り締まるためだ。
受付嬢も兵士も、第三位相当の魔術発動の許可を得ているので相手にするだけ恐ろしい。
ニコラはいつもの赤と黄色の着流しに腰帯を巻き、裾絞りのズボンと樹皮のブーツという出で立ちで、壁の彫刻に見蕩れる。その彫刻は、帽子被りの妖精たちが木の枝の上で踊りを踊っているものだった。
「話をつけてきました」
木編みの小カゴを手にするグレタは末広がりのスカートを履いている。
屋敷の給仕服だ。
中華着の質感と色合いをそのまま残したメイド服といった感じで可愛らしい。
「父上には秘密にしてくれるように頼んだ?」
「ばっちりです」
「よかった。じゃあ行こうか」
「はい」
ニコラとグレタは手を繋いで歩きだす。
さながら親子にも見えるだろう。
ギルドからさらに下の階層へ出入りする場合は、受付嬢に記録を残される。
名前などの個人情報だ。
カジノで不祥事を起こしたとき、その個人情報をもとに対処することがままあるからである。特に金の請求場所は大事だ。
カジノより下の階層である根っこの部分にはギルド一家が居住している。
したがって出入りの情報はカジノへ行くときよりも厳重になる。
記録を残されるのは仕方のないことなのだが、受付嬢が偶然エミリオを見つけたときに、世間話のついででニコラのお忍び探険を話されたのではたまったものではない。
だからあらかじめ釘を刺したというわけである。
地上に出ると見たこともない生物が多くいた。
ニコラは目を見張って感動する。
「……すごい」
呆けた顔で、隅に繋ぎとめられている大トカゲを見つめた。
トカゲの背中には鞍が敷かれてあり、口元にはくつわが嵌められている。
くつわからは細長いロープが伸びて、座席のあたりで括りつけられてあった。
あれはきっと乗り物なのだとニコラは推察する。
地球で言うところの、馬の代わりなのだろう。
灰緑色のトカゲはきめ細かな鱗をびっしりと纏って、
ピンクの長い舌をちろろんと見せている。
繋いだ手をぎゅっと握ってグレタのほうを見上げた。
「ねえグレタ。あのトカゲをもっと近くで見たい」
「えっ、嫌です」
「なんで!」
「だって怖いじゃないですか」
「いいじゃん。行こうよ」
ニコラはグレタの手をぐいぐいと引っ張って一階層を歩く。
「ああっ、ちょっとっ、坊っちゃま」
足底から興奮が沸き上がってくる。
なんだよこれなんだよこれと心の内で叫んだ。
ポルッカポッカの第一階層はさまざまな人種で溢れていて、すれ違う人たちの頭部から獣の耳が生えていたり背中から翼が生えていたりする。書物で見た通りだった。
獣人と翼人。
ということは竜人もどこかにいるのかもしれない。
きょろきょろ見渡しながら歩いていると、ぽよんと弾力のある壁にぶつかった。
ニコラは鼻頭を押さえる。
ぶつかったのはどうやら誰かのお腹らしい。
すぐに謝ろうと見上げたところで、ニコラは固まってしまう。
ウサ耳の生えたおじさんが、アンニュイな感じで見下ろしていた。
口に咥えた煙草を摘まんで、ふうっと白い息をニコラに吹きかけ、唇の端を吊り上げながらおじさんは言った。
「おじさんのお腹にキスかい、おチビちゃん」
「え、あ、ごめんなさい」
おじさんがでっぷりとした下っ腹をさすった。
「おかげさまで妊娠しちまった。もうこんなにお腹が膨らんでやがる」
「えっ?」
「あまり男を妊娠させるもんじゃあない。次からはちゃんと前を見て歩くんだな」
「えっと、うん」
「それとも責任を取っておじさんを花嫁に迎えてくれるのかい?」
「花嫁……次からは気をつけます」
「ああ。それがいい。その歳で子供を持つのは大変だろうからな」
それだけ告げると、おじさんは肥満体系を揺らしながら歩いて行った。
ニコラはすぐにグレタを見上げた。
「あのおじさん、言葉に香辛料がきいてる」
グレタは苦笑いをしただけだった。
ポルッカポッカの第一階層は巨大なドーム状の空間で、地面と一続きであるからか行商人の姿が多い。
トカゲの後ろに荷車を引かせる業者が、大門からどたどたと入り込んできた。
周りには大きなリュックを背負った猫耳も大勢いる。
荷車の車輪を磨いている狼男もいる。
大トカゲに齧られているリス人間は見ないことにした。
行商人が物資を届けてくれるおかげで、ポルッカポッカは回ってゆけるのだ。
感謝である。シェイシェイ。
一階層は大広間なので子供たちの遊び場になっているようだった。
至る所で子供の姿を見かける。
入口からトカゲが入ってくるたびに、子供たちは遊びをやめて歓声を上げた。
「ロードリザードだ!」
「かっけー!」
「鼻血出そう!」
「あへーっ!」
「米を積んでるぜ? 母ちゃんが喜ぶ」
荷車に座る行商人が子供たちにひらりと手を振った。
子供たちがきゃっきゃと飛び跳ねる。
もしかしたら子供たちの憧れなのかもしれない。
さらに後ろには、一回り小さいロードリザードが何頭もつづく。
「クエストキャラバンだ!」
「かっけー!」
「鼻血出そう!」
「あへーっ!」
「ポルッカボアを積んでるぜ? 母ちゃんが喜ぶ」
冒険者ギルドのクエストで狩りをしてきたのだろう。
冒険者ギルドは、カジノギルドの下部組織だ。
ヒエラルキーの頂点にカジノギルドがあって、その下に冒険者ギルドや商業ギルドや魔術ギルドなどが設置されている。
親会社と子会社の関係に近いだろう。
だからこそカジノギルドが強大になりすぎて、お国からお叱りを受けたのだった。
あまりにも影響力がありすぎる。
裏社会の人間に支配された国というのはなかなかお目にかからない。
クエストキャラバンの集団が砂ぼこりを舞わせながら奥へ進んでいき、
繋ぎ場でトカゲを留めてから冒険者ギルドの洞窟に消えた。
あの洞窟がこの国では建物のようなものだ。
中には大きな空間があって人々が活動している。
ロードリザードの荷車には、イノシシの死体が大量に乗せられていた。
あのイノシシがポルッカボアという名称なのはニコラも知っている。
癖の強い肉だったが、煮込み料理が結構美味しかったのを覚えている。
握り締めた手に汗が溜まる。
グレタが困った顔をしているので言ってやる。
「グレタ、手汗すごいね」
「坊っちゃまの汗ですよ、きっと」
「そういうことにしておいてあげるね」
「もう黙っていてください」
「じゃあ行こうか」
「ちょっと坊っちゃま」
ニコラはまたグレタを引っ張って歩き始める。
繋ぎ場の大トカゲのもとへ近づいて、その珍妙な生態を思う存分に堪能する。
グレタは少し離れたところでもじもししながら立ち尽くしている。
「あの、坊っちゃま。もうそろそろ、いいんじゃないでしょうか」
「もうちょっとだけ」
このトカゲは喉鳴りがすごい。
ぐるぐるぐる、という唸りにも似た音がくぐもって聞こえる。
ニコラは手が届く位置にまでさらに近づいて、トカゲの舌のざらざらした粒まで観察し始める。ちろろん、と出し入れする舌は唾液混じりでてかてかに光っている。
ぶおーっ!
強烈な鼻息が、ニコラの髪を後ろへなびかせた。
思わず仰け反って頬を引き攣らせる。
後ろではグレタが「もういいじゃないですか……」と怯えた声を出す。「帰りましょうよもう……」と怒り半分、涙半分で懇願する。「ニコ坊っちゃまのばかぁ……」
手を伸ばしたら噛まれるかな?
自分でも馬鹿なことを考えていると思う。
人間の大人よりもでかいトカゲが一度でも噛みついてくれば、
ニコラの手首から下は簡単に引き千切られるだろう。
いわばワニの強化版みたいな存在だ。
地に立つ二つの脚は見るからに強靭で、鱗を押し上げるほどの筋肉は隆々と盛り上がっている。前脚のほうは体に似合わず小振りなもので、胴体の側部から突き出るように生えている。
獰猛な瞳は先ほどからニコラを捉えて動かさない。
警戒されているのはわかる。
でも異世界で初めて出逢った人間以外の生き物である。
触れてみたいという感情が沸々と湧き上がってどうにも抑えられない。
――頬を撫でるだけだから。
自分にそう言い聞かせて恐る恐る手を伸ばす。
次にニコラを襲ったのは、トカゲの咆哮だった。
心臓に響くような強烈な咆哮が、ニコラの全身を貫いた。
身ぐるみを引き剥がさんばかりにびりびりと皮膚が震え、大広間のほとんどの視線を一手に掻き集めてしまう。
ニコラは頭が真っ白になったまま立ち尽くした。
びびりすぎて指すらも動かせない。
目の前のロードリザードが唾液を吹き散らした。
鎖をじゃりじゃりと鳴らして食ってかかろうとする。
大口を開けてずらりと並んだ短剣の牙がニコラの鼻先でがちんと閉じた。
ニコラ真っ青。
「ひいいっ!」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
慌てて地面を蹴って広間の端から端まで駆け抜けた。
腰抜かしのグレタを置き去りにして。
ニコラは獣人の男からこっぴどく叱られた。
「ロードリザードは坊やが思っている以上に繊細なんだ。一度気が立つと手に負えなくなる。二度とあんな真似するんじゃねえ。坊やの命は知ったこっちゃねえが、商売道具が処分されるのはご免だぜ。まあなんにせよ、坊やが無事でよかったよ」
そして、くしゃくしゃに頭を撫でられる。
「ごめんなさい……」
ニコラは俯いたまま謝罪する。
もしロードリザードを繋ぐ鎖があと少し長かったら、もしニコラの立ち位置があと少しずれていたら、ニコラの頭部はプチトマトのように押し潰されていたかもしれない。
そう思うと心底から戦慄する。
おじさんはぎろりと視線を移した。
「おい付き人さんよ。子供の手綱はちゃんと握りな。世の中甘くねえんだ」
グレタが深々と頭を下げる。
完全にとばっちりである。
そしてまた、世界は甘くない、だった。
◇
獣人のおじさんの説教を聞き終えてから二人は無言で歩き出した。
ニコラの横で、グレタが鼻をすする。
ロードリザードの咆哮を身に浴びてからずっとこの調子だった。
涙ぐんで恨めしそうな顔でニコラを睨む。
ニコラがご機嫌取りの笑顔を向けてもぷいと顔を背けて取り合ってもくれない。
話しかけても無視だ。
グレタは主様を無視する。
切ない……。
切ない、ニコラ。
まあこれは全面的に自分が悪い。
グレタはちゃんと止めようとしてくれたのだし、ロードリザードを怒らせてから逃げるにしても、腰を抜かして尻餅のついたグレタをその場にほっぽっておくのはいくらなんでもひどいことである。
興奮状態にあった大トカゲはニコラという標的がいなくなると、すぐに新たな標的を見つけて、身動きの取れないでいるグレタに対して永遠に近い威嚇を繰り返した。
グレタは両腕で頭を庇って怯えてさめざめと泣いた。
それでもトカゲは吠えつづけるし、ニコラは駆け抜けつづけるし、グレタはさめざめと泣きつづけるし、どうしようもない。
ニコラはグレタの手をぎゅっと握る。
「グレタの手、あったかいね」
ぷい。
「グレタ。僕、グレタのこと好きだよ?」
ぷい。
「グレタ、ごめんね?」
ぷい。
「グレタって美人だよね」
ぷい。
「グレタの手、すべすべするよ」
ぷい。
思わずニコラはグレタの腰に抱きついた。
腕を回してぐうっと顔をうずめる。
「ごめんなさい。ごめんなさいグレタ。僕が悪かったよ。次からはちゃんと言うことを聞くから機嫌直して。ねえ、お願いだよグレタ。いい子にするから許してよ」
頭上から、ため息が聞こえた。
ニコラが目の端に涙を溜めて見上げる。
まったくこの子は仕方ないなあといった様子で、グレタが見下ろしてきた。
頭にぽんと手を乗せて、
「はい。グレタはもう許しました」
「ほんと?」
すがるような声が出た。
「本当ですよ。ほら」
そう言ってグレタは、柔らかく微笑んでみせた。
ああ――
ニコラの中の遠い記憶が蘇ってくる。
お母さん。
なんだか無性に泣きたくなった。
もう自分はお母さんに会えないのだ。
会えないけど会いたくて会いたくて仕方がないのだ。
ジーナはよく気を遣ってくれるしニコラのために手を焼いてくれる。
でもやはり自分が一番母性を感じるのは前世の母であり、前世の母であるからこそ死にたくなるほど淋しいのだ。もう絶対に会えないこの事実が嫌になるほど悲しい。
お母さんは今ごろ何をしているだろうか。
もう僕の死を乗り越えて笑ってくれているだろうか。
もしそうだとしたら嬉しい。
淋しいけど僕は嬉しい。
お母さんは過去にすがるのではなく未来に生きるべきだ。
僕のことを忘れてほしくはないけど、でも記憶が薄れていくほうが絶対にいいのだ。
だから僕は願う。
お母さんの幸福を。
お母さんの幸せを。
そしてやっぱり自分はグレタのことが好きなのだと思った。
再確認した。
グレタと一緒にいると美智子のことを思い出して胸が苦しくなるけど、この感情に名前をつけるのなら「好き」以外に思いつかなかった。
友人として好きなのではなく、
女性として好きなのではなく、
もっと特別な「好き」。
自分は馬鹿だからそれ以上の表現を思いつくことができない。
もっと勉強していたら、あと十年長く生きていたら、もっと適切な言葉を思いつけるのかもしれない。
だけど今は精一杯。
精一杯の「好き」。
背伸びをして踵を浮かせたような「好き」。
ニコラはグレタの腰に顔を押しつける。
言葉にしなくても、伝わることってあると思うのだ。
自分はそれを信じている。
ポルッカポッカの構造
根っこ:ギルド一家の居住区域
地下2階:カジノ
地下1階:カジノギルド
1階:大広場、関所、各種ギルド
2階:???
3階:???
4階:???
5階~7階:居住区域
8~9階:???
10階:???
11階:???
12階~14階:???
15階:???
16階~18階:???
19階~:未開発