7話 化物の覚醒
「……うっ」
翌朝。
扉の前で夜を過ごしたジーナは、エミリオが儀式部屋の扉を開けた瞬間に、嘔吐感を催した。
噎せ返るほどの濃厚な血のにおい。
押し扉の軌跡に合わせて、青緑色の液体が床に弧を描いている。
床という床、壁という壁に、半乾燥した赤い肉の塊がこびりついているこの状況が、ジーナには未だに信じられなかった。
自分はどこの世界に紛れ込んでしまったのだろうとジーナは思う。
おそらくこの塊はミトアグリアの肉塊なのだろうと頭では判断できるが、しかしなぜ天井にまでその肉片がへばりついているのだろうか。
落ちてこないということは物凄い勢いで天井にぶち当たったという証拠であり、天井を埋め尽かさんばかりに血色のつららが生えているということは、かなりの数のミミズを打ち上げたという証である。
唯一明らかなことは、ミトアグリアが皆殺しにされているということだった。
青緑色の液体は、紛うことなくミトアグリアの血液である。
床にも壁にもその青緑と赤紫は飛散しており、その爆散地の中心――木桶のお風呂には、膝を抱えて座り込んでいる全裸の子供がいる。
膝のお皿におでこをくっつけさせて表情が窺えないが、孤独と悲哀とを全身から滲み出してこの部屋を覆い尽くしている。
一体なにが起きたのだろうか。
いつの間にか止めていた呼吸を再開させ、ジーナは自分の体の強張りを解いていく。
「……ふう」
ようやく状況判断ができるようになると、ゆっくりと顔を動かしてエミリオの横顔を盗み見し、あまりの恐ろしさにジーナは再度呼吸を忘れてしまう。
エミリオが笑っていた。
心臓が一瞬止まった。
人殺しがしたくて堪らない王様がようやく死刑囚の罪人を手に入れたかのように、エミリオは見開いた狂気の眼を煌々と輝かせて薄ら笑いを浮かべている。
時が止まったかのように立ち尽くして物も言わない。
ニコラの姿に心惹かれているのだ。
ジーナは全身が汗でしっとり濡れるのを感じた。
「父上。僕はもう痛いのは御免だ」
顔を伏せたままニコラが呟いた。
その声の響きは十年間迷宮に籠った冒険者のような深さを纏っていて、ジーナの心はたちまちのうちに絡め取られてしまう。たった数刻で息子が変わり果ててしまった。
「確か父上は、精神的苦痛が魔力を高めると言ったよね。じゃあこんな儀式、最初からいらなかったんだ。なぜなら僕は、前世でもう苦しみ抜いている。僕はこの世に生を受ける前から、心身ともに疲れ果てていたんだから」
異様な空気にジーナは気圧される。
それからは意味不明な単語の羅列だった。
「僕は小さい頃から病弱で自由がなかった。
あらゆることを禁止されて病院に閉じ込められてたまに家に帰ることがあってもすぐに病院へ逆戻りにされた。
病室では孤独だった。
世界で自分一人しかいないと思った。
もちろんお父さんやお母さんや看護師や先生もいたけど、僕の胸にぽっかり空いた穴はそう簡単に塞がるようなものじゃなかった。
同時に僕は人形でもあった。
両親の顔色を窺って無理やり健気な振りをした。
いい子を演じて生きてきた。
両親に心配をかけたくなかったし、治療費のことを考えるとこれくらいしか恩返しができなかった。
告白すると虚しかった。
こんなことでしか恩返しができないのかと嫌になった。
自分を偽って騙して生きることがつらい。
両親は僕を愛してくれたし、僕はその愛を真正面から受け止めたけど、その愛に応える術を知らなくて無性に悲しくなった。
むしろさっさと死んだほうがよかったんじゃないかとさえ思った。
でも両親は僕が健康になることを望んでいて、新しい治療法を勧めてきたりもして、僕は僕の命を諦めることなんて許されない状況にあった。
僕が僕の命を諦めたら、その瞬間に両親を裏切ることになってしまうから。
両親の悲しむ姿を見たくなかったから。
僕に残された唯一の選択肢は、最後まで足掻いて足掻いて、醜くても惨たらしくても必死に生きることだけだった。
僕はそれをやり遂げた。
何度も死にたくなったし、楽になりたかったし、両親にもう僕のことを諦めてくれと懇願しようとしたけど、僕は歯を食いしばって、命を懸けて、両親のいい息子であろうとした。
何度も心臓が止まったし何度も息を吹き返した。
自分でもよくやり遂げたと思う。
当たり前の話だけど戦っていたのは僕だけじゃない。
両親も共に戦ってくれた。
同様につらかっただろうし痛かっただろうし悲しかっただろう。
もしかしたら僕よりもきつかったかもしれない。
なのに結局僕は自分のことをぐちぐちと言って心の平静を保とうとする。
なんて卑しい子供なんだと思う。
本当に呆れる。
僕は孤独なんじゃなくて、むしろ自分から孤独に逃げ込んでいたんじゃないかと思えてくる。
弱虫野郎だよ。
僕の世界の全ては病室の真四角の部屋だけだった。
あの真っ白な直方体の部屋だ。
ずっと窓から外の世界を眺めては嫉妬のため息を吐いていた。
淋しかった。
この世界を享受できないことが、率直に言って淋しかったんだ。
世界は大きなうねりを絶えず持っていて、人々はそのうねりに流されて生きるのが嫌だと言うけれど、僕はそのうねりにさえ飲み込まれないただの欠陥品で、自分が欠陥品だと自覚するのが吐き気を催すほど嫌だった。
僕は世界の歯車にさえなれない。
要らない部品なんだって。
なんだか世界から拒絶されたような気がして僕はそれが淋しい。
無性に淋しい。
世界の一部ですらないのだから、どうやって生きることに喜びを見出せばいいのだろう。
最初からこの世に生まれ落ちなかったらよかったんだとまで考えてしまう。
というわけで僕は数多くの身体的苦痛を味わってきているし、数多くの精神的苦痛を受けてきているし、数多くの躁と鬱を繰り返してきた。
つねに死と共にあった。
強大な死の恐怖と、ミクロほどの脆い希望があった。
希望って本当に悪い子だよ。
状況がよくなると思わせておいてすぐにそっぽを向くんだもん。
一回だけならそれでいい。
でも希望というやつは何度も何度も僕の目の前で尻尾を振ってくるんだ。
僕はそれに飛びつくしかない。
両親がそれを望んでいるから。
どうしようもないさ。
だからね。
延々と躁と鬱を繰り返した僕は、何度も死んで何度も生き返った僕は、増強するまでもなく魔力の権化なんだよ。
今さら精神を苦しめる必要なんてなかったんだ。
末期だった僕には不要なことなんだ。
わかるでしょ」
ニコラは語るのをやめない。
「だからほら――ミトアグリアはこの有り様さ。僕はとうとう魔力を覚醒させてしまったらしい。ミトアグリアは僕の魔力に耐えられなくなって跡形もなく爆散したよ」
音もなく立ち上がったニコラは両腕を広げて見せた。
「ねえ見て」
「ひっ」
ランプの光に落ちたニコラの影が悪魔のようにむくむくと膨張していき、堪えきれなくなったジーナはその場で腰を抜かしてしまう。
ニコラの化け物じみた影に目をやるだけに留めて、ニコラ本体に目を向けることを即座に放棄した。
世界最高峰の魔術師が誕生したということだけわかっていればそれでよかった。
足音が聞こえる。
エミリオだ。
エミリオが、ミトアグリアの体液に塗れたニコラに近寄って熱い抱擁を交わした。
「シャワーを浴びよう。それとも風呂がいいか?」
「お風呂がいいね」
「わかった。用意させる」
エミリオの胸の中でニコラが呟く。
「父上。一つだけ約束してほしいんだけど」
「なんだ?」
「僕はこの世界を明るく元気に生きるって決めているんだ。邪魔しないでね?」
「ああ。邪魔しねえさ」
その会話の歪みが気の遠くなるほど恐ろしい。
そしてジーナは本当に気を遠くしてしまい、気絶し、この抑圧から逃避する。
ジーナの中のニコラは、いつまで経っても愛らしいニコラであり、
ニコニコニコラなのである。
◇
額に汗を貼りつけて使用人は駆け回る。
人目を避けて木の洞窟を走り抜け、一刻も早く情報を伝えねばならぬと考える。
最初は耳を疑った。
馬鹿な、と思った。
侍女たちの間で噂される内容は想像も絶することだった。
三歳児がボネッティ=アメンドラの地獄の通過儀礼を完了させた――。
人につけられていないか細心の注意を払って洞窟内をぐるぐる回る。
人を撒くためにわざと遠回りする。
ギルド一家の住処は根っこにあるので通路が立体的であり、上から下から人を撒くには事を欠かなかった。まさに迷路である。
できるだけ迅速にギルド図書館に入ったあと、呼吸を整えて悠然と胸を張る。
奥に位置する司書と会話をして例の廊下に案内してもらう。
もちろんこのときが人目を避けるために最も神経を使うときである。
だが司書のほとんどは樹虎派が買収しているし、館内に来る人間も大量の樹虎派によって目暗ましをさせられているので、怪しまれるようなことはほとんど起こらない。
厳重に施錠された古書保管庫の廊下は、行く先々で開錠しなければならない。
いつも密談に使用される三番庫に顔を覗かせるが、まだ誰も来ていなかった。
昨日に伝令の使いは出したから、そのうち樹虎派の連絡係がやってくるだろう。
その場を落ち着かない様子で歩き回りながら待機する。
やがて連絡係の一人が慌てて古書保管庫に身を入れてくる。
使用人は簡潔かつ詳細に事のあらましを語って、語るにつけて連絡係の顔が驚愕に溢れ返っていく。
無理もない。
歴史上でこのようなことは一度たりとも起こらなかった。
まさに異常事態、空前絶後、天変地異の事象である。
青ざめた連絡係と仕事を終えた使用人はばたばたと部屋を後にした。
数日後。
ついに樹虎派の鳩たちが重い腰を上げる。
彼らが腰を上げるということは、樹虎派を押し留める枷が外されたということだ。
様子を見るなどという呑気なことも言っていられない。
早急に対処しなければ、カジノギルドの今後において大きな影響を及ぼしてしまう。
ボネッティ=アメンドラが力をつければ、それだけ樹虎派の立場が危うくなるし、まだまだギルドの政権を樹龍派に明け渡すわけにもいかない。
もちろん事を大げさにするのは避けるべきである。
樹龍派に何か事件が起きれば真っ先に疑われるのは樹虎派の幹部で、暗殺を企てるにしても何かの行事の最中に事故として始末するのが常であった。
そうすれば樹龍派が樹虎派を疑っていたとしても、証拠がないので糾弾することも叶わないからである。安全かつ効果の大きい定石。
しかしそれがボネッティ=アメンドラの息子に通用するかどうか。
それが問題だった。
樹龍派の筆頭組の息子はもうすでに成人の儀を迎えているのである。
成人の儀を迎えた魔術師を、事故に偽装して殺すことが可能なのか。
多くの者は口を揃えてこう言う。
難しいだろう、と。
ボネッティ=アメンドラの成人の儀を終えた者が、容易く事故で死ぬような玉ではない。
では結局これしかない。
真正面から刺客を送り込んで例の息子を暗殺する。
当然ボネッティ=アメンドラは樹龍派を疑ってくるだろうが、我々はしらばっくれて「その証拠を出せ」とでも言えばいい。
樹龍派が証拠を出してこなければ我々の勝ちで、証拠を出してきたら我々の負け。
そのときは、少なからず樹虎派の幹部が打ち首となるだろう。
本当に最悪な手段であるが、今はもう非常事態であった。
ボネッティ=アメンドラにこれ以上優秀な人材を増やすことは許されない。
頭領の属する樹亀派は、今のところ優秀と呼べる人材がいない。
頭領の息子のベニート・ベンソ・ディ・カヴールは頭が切れる男ではあるが、幼い頃から体が弱く、次期の頭領候補には名前を挙げられていない。
次期の頭領候補は、エミリオ・ボネッティ=アメンドラとオルソ・アストーリの二人だけである。そこにニコラが加わったとあらば、ボネッティ=アメンドラのギルド支配はより強固のものとなってしまう。
カジノギルドの頭領は世襲制ではない。
ギルドの四つの名門一家から、能力に優れたものを選出するという方式だった。
もちろん同家の血筋が有利なことには変わりはないが、ギルドの幹部が不満を表せば引き摺り降ろすことは可能だ。
だからこそ頭領の選択は慎重であるべきであるし、周囲が優秀だと認めてしまうえば引き摺り落とすことが難しくなってしまう。
しかも現頭領のパオロ・ベンソ・ディ・カヴールは、エミリオという男に惚れ込んでいて、次期の頭領を任せてもいいと考えている節がある。
頭領の裁量権は大きく、その決定に異を唱えることは勇気がいるし責任も伴う。
さらにエミリオは誰が見ても優秀な男であるので、頭領になることに不満を表す人間は樹虎派の中にしかいないだろう。
そうなった場合は、当然多数決によりエミリオが頭領ということになる。
状況は最悪だ。
樹虎派筆頭のアストーリ家が日の目を見ることはなくなる。
それだけは避けなければならない。
パオロが自分の息子を頭領候補に挙げなかったこの機会を、我々樹虎派は必ず掴み取らねばならない。
みすみす逃してしまうと、樹虎派がギルド長になるにはいつのことになるやらわかったものではなかった。
樹龍派の手に政権が渡ってしまったら、樹虎派から候補が挙がることもなくなるかもしれない。
あそこの家系はいつの時代も優秀な子を宿す。
最後に暗殺が行われたのはいつだっただろうか。
自滅の危険性があるのでそう簡単に行われるものではない。
少なくともここ数十年の間で暗殺が行われたという疑いはない。
どの一家もそれぞれが子供を宿し、順当に成人を迎え、しかるべき手順で頭領に選ばれてきた。
四家の均衡が保たれていたからだ。
今はその均衡が揺らごうとしている。
どれもこれもニコラ・ボネッティ=アメンドラのせいだ。
かつて化け物と呼ばれた人間は、四代目頭領のバルトロメオしかいない。
バルトロメオの出現は大きく歴史を変えた。
歴史上最も優秀で最も凶悪な頭領として知られている彼は、子供の頃から天賦の才を見せつけて、政権を握っていた家系の頭領候補の存在を無残なほどに霞ませていた。
どれだけ同家系の人間を頭領に推そうとしても、周りのほとんどの人間がバルトロメオを推してどうにもならなかった。
圧倒的な才能は政治的な駆け引きすらも無に帰すのだ。
頭領は彼以外にいないと確信させるからである。
議論の余地などない。
バルトロメオとはそういう男だった。
バルトロメオの政策は多くの批判を生んだが、彼がいなければこれほどまでにギルドを成長させられなかっただろう。
王家ですら敵わないと思わせたのはすべてバルトロメオの手腕のせいである。
国民にとってバルトロメオとは恐怖の対象であり、ギルド一家にとっては崇め奉る対象である。
そのバルトロメオの再来が、樹龍派の中に生まれ落ちた。
ニコラ・ボネッティ=アメンドラ。
百年に一度の逸材。
樹虎派からすれば後手後手の展開だ。
まさか三歳で手遅れになるとは思いもしなかった。
三歳にして、時すでに遅し。
暗殺者が返り討ちに遭う可能性も大いにありえる。
だが樹虎派には暗殺を行う以外に選択肢はない。
ただただ無謀な強硬策に打って出る。
誰かが言った。
手段は問わない。
証拠を隠蔽し、できるだけ穏便に、あの龍児を、
「――殺せ」
バルトロメオ:カジノギルドの第四代目頭領。
歴史上最も優秀で、最も凶悪な頭領と言われている。
ギルドの四大派閥
保守側
樹亀派 筆頭家はベンソ・ディ・カヴール家。
頭領はパオロ・ベンソ・ディ・カヴール。
長男はベニート・ベンソ・ディ・カヴール。
傘下は???家。
樹虎派 筆頭家はアストーリ家。
当主はオルソ・アストーリ。
傘下は???家。
革新側
樹龍派 筆頭家はボネッティ=アメンドラ家。
当主はエミリオ・ボネッティ=アメンドラ。
長男はニコラ・ボネッティ=アメンドラ。
傘下は???家。
中立側
樹鳥派 筆頭家は???家。
傘下は???家。