6話 明るく楽しいイニシエーション
グレタの報告通り、父上は夕刻に帰ってきた。
エミリオに連れられて、ヒカリダケも魔晄結晶もない部屋の前に到着する。
ランプの光に照らされるエミリオとジーナの顔が陰鬱とした影をつくっている。
おしゃべりなジーナが一言も口を利かないことから、なにかよからぬことが起きようとしているのは、なんとなく想像できた。
「ボネッティ=アメンドラの通過儀礼って知ってるか?」
エミリオにランプを近づけられて眩しくなる。
顔を難しくしかめたままニコラは言う。
「知らない。そんなのがあるの?」
「ああ。まあ成人の儀――みたいなやつでな、男が十五の歳になるとするんだが、」
「ちょっと待って。さすがに察する僕」
「他の奴らよりちょっと早く成人にならないか?」
「ならないっ。ならないよっ」
即答した。
この人の考えることにはニコラの常識が通用しない。
避けられることなら避けるべきだ。
「必死すぎるだろお前。もう儀式の準備は終わってんだけどなあ……」
「だって、ちょっと早くって……十年以上も早いじゃないか」
「ちょっと十年早いな」
「ちょっとじゃないよ。僕まだ三歳なのに」
「そうは言っても、もう準備が……」
「……準備準備うるさいな」
「いやだって準備が……」
エミリオが困ったように腰に手を当てた。
相変わらずこれと決めたことは貫き通す男だ。
本当に融通が利かない。
「とりあえず儀式の内容だけでも聞いてくれ」
「まあ、聞くだけなら」
「というか、もう直接見てもらったほうが早いんだがな」
ランプを握り直したエミリオが、うす暗い開かずの間の扉を肩で押し開いた。
ぷぅんと酸っぱいにおいが鼻をつく。
たぶん、知ってるにおい。
エミリオとジーナに挟まれて、部屋に侵入する。
部屋の中は真っ暗で、手の先からはもう何も見えなくなる。
だだっ広い空間なのは音の響きでわかるが、それにしてもさっきから聞こえるぬちゃぬちゃした音はなんだ?
「見てほしいのはこれなんだが」
エミリオの伸ばしたランプの周りだけ色彩が蘇って、腕の動きに合わせてスポットライトが当たったように床の様子がわかる。
当然見えるのは黒ずんだ木目。
歩きだしたエミリオの後ろについていき、父の腕の動きを目で追っていくと、ランプがある一点でぴたりと動きを止めた。
人間サイズの木桶が照らし出された。
「なんだと思う?」
「お風呂だね」
「そうだ」
「お風呂がどうしたんだい。今から入ればいいの?」
「ああ。今から入ってもらう」
「こんな暗い所じゃ落ち着かないよ」
「そう言わず、風呂の中を覗き込んでみろ」
エミリオがランプで指し示した先をじっくりと見る。
一瞬で心が折れた。
そこには何百匹というミトアグリアがぬちゃぬちゃと蠢き合っていて、犇めき合っていて、押し退け合っていた。ぷぅんと酸っぱいにおいは、溜まりに溜まったミトアグリアの体液のにおいに違いない。
嘘のように脂汗を顔に貼りつけたニコラは、上目づかいをしながら震え声を出す。
「……冗談じゃない」
「いいや。今からお前は入るんだ」
有無言わせぬ重い響き。
ニコラは一歩後退してエミリオに唾を撒き散らす。
「冗談じゃない。入るわけないだろう。嫌だ。もう嫌だ。痛くて苦しいのはもうたくさんだ。もっと普通に生きさせてよ。こんなの絶対無理だよ。二匹で気絶してしまうんだ。それなのにこんな数、どう考えたって許容範囲を越えているじゃないか。馬鹿でもわかる計算だよ。二匹で駄目なら百匹でも駄目。当然だ。馬鹿野郎が。勘違いするな。僕はまだたったの三歳なんだよ。三歳児が成人の儀っておかしいじゃないか。おかしいってすぐわかるだろ。わかるよな。脳足りてるのか。もう痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。なんで僕ばっかりこんな目に遭うんだ。今も昔もいつだって。……僕は惨めだ」
「――気は済んだか? じゃあ入れ」
ニコラは涙を流しながら絶望した。
この男には何も通じてなどいない。
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 父上も母上も頭おかしいよ! なんだよこの仕来り!」
「俺はあとどれくらいお前の『嫌だ』を聞けばいい? お前はあとどれくらい『嫌だ』を叫べば入る気になるんだ? ――いいから入れよニコラ」
ニコラはその場にへたり込んで咽び泣いた。
このままだと確実に死んでしまう。
こういうときのジーナはまったく当てにならない。
自力でなんとかこの場をやり過ごすか突破するかをしなくてはならない。
それとなくニコラは辺りを見渡す。
やっぱり部屋は暗くてよくわからな――思わず唇を噛みしめてしまう。
先ほど入ってきた扉がいつの間にか閉じられていた。
しかもあれは入るときが押し扉だったから出るときは引き扉になるはずで、もしニコラが逃走を選択した場合、引く動作が大きなタイムロスとなって不利になってしまう。
しかもニコラの体躯は三歳児。
逃げられるか?
やれるか?
考えるまでもなく不可能だ。
ならば生き残るにはニコラが父親殺しを果たすしかない。
何か武器になるものはあるか?
――ない。
「どうした。早く入れ」
「うるさい黙ってろ。いま覚悟を決めてる最中なんだ。指くわえて待ってろ」
「……ほう」
お前を殺す覚悟をな。
どうやって殺す?
不意を突くのが最低条件だ。
三歳のガキが大人の魔術師を殺すには生半可なことじゃ出来ない。
百回やって九十九回成功するような安定性のあるタイミングを見つけなければならない。
そもそもエミリオを殺すことが不可能だという前提は今のところ考えない。
そんなネガティブな思考はなしの方向で議論を進める。
ジーナを人質に使うか?
すごくいいアイデアだ。
ジーナを使わずしてこの場はくぐり抜けられない。
計画を立てる。
まずミミズ風呂に入ろうと見せかけてエミリオとジーナを油断させる。
そこで自分は人知れず二匹ほどミトアグリアを手に掴んで、風呂に入るか入らまいか悩んでいる振りをして時間をかせぐ。
痺れを切らしたエミリオがどうしたんだと近づいてくるはずだ。
そこですかさず二匹のミトアグリアにエミリオを食わせる。
ミトアグリアの栄養源は生物の電気的信号。
電気を貪るということは少なからず体にショックが走る。
極短時間だが麻痺するのだ。
これは散々自分が経験したことだから痛いほどわかる。
そしてエミリオが怯んだ隙にジーナの太ももに体重をかけて押し倒し、手早く背中に腕を縛り上げて身動きを封じる。
これ以上何かをするならジーナを殺すと言ってエミリオを脅す。
するとエミリオはやってみろと自分を煽ってくるに決まっている。
煽ってきたら自分は、
自分は、
煽ってきたら、
――何もできない。
心臓が抉られそうになった。
ジーナを殺すなんてニコラにはできない。
ニコラはもうすでに、ジーナのことを心から愛してしまっていた。
同様にニコラは、エミリオのことも愛してしまっている。
あのガサツで融通の利かないクソ親父は、家に帰ってくるたびに玩具を買ってきてくれる。
ニコラの遊ぶ姿を肴に酒を呑むその渋さが堪らなく好きだった。
珍しいお菓子を見つけるといつもそれを買ってきてくれる。
ニコラが前世で知り得なかった数々の美味を教えてくれた。
いつもエミリオはぶすっとした顔をしているが、その表情の下に見え隠れする喜びの顔を、ニコラは敏感に感じ取れる。
不器用な男の典型エミリオ。
愛おしいエミリオ。
早々に成人の儀を行おうとするエミリオの行動は確かに早急過ぎるが、もとを正せば結局ニコラに全部返ってくることだ。
すべてニコラのためだ。
ニコラを一人前の魔術師にするために、いや、一流の魔術師にするために必要なスパルタだ。
くそ。
このまま風呂に突っ込めば死ぬ可能性が高いのに、ニコラはエミリオを殺したくない。
涙が止まらない。
「……どうしてもやらなきゃ駄目なのかい?」
エミリオは何も答えなかった。
ジーナも嗚咽を漏らし始める。
――死にたくない。
「怖いんだ。すごく、怖いよ」
心に思っていることが正直に口から出た。
ランプに照らされてぼんやりと浮かぶエミリオの口元は、一文字に引き絞られて物も言わない。
ニコラとジーナのすすり泣きが物悲しく響くのみ。
「怖いけど、でも――」
やるしかないのだろう。
もう自分にはこの選択肢しかないのだろう。
生まれた家がこうなのだから仕方がない。
赤子は親を選べない。
それにニコラはこの親でよかったとさえ思っている。
父上に魔術を発動されて無理やり風呂に落とされるのが一番楽だし手っ取り早いが、それではニコラとエミリオの絆が壊れてしまう。
だからエミリオは頑固なくせして強行突破できないでいる。
あくまでニコラの意志でこの風呂に入ってほしいと思っている。
脆くて弱くて人間らしいエミリオ。
なぜ今になって成人の儀なのか。
三歳でなくては駄目なのか。
おそらくエミリオにも考えあってのことだと思う。
魔力は幼いときが一番伸びるときだと説明を受けた。
この成人の儀も魔力増強の効果はあるはずだ。
あるどころか過去最大の効果だ。
だからこそボネッティ=アメンドラは優秀な子孫を残すためにこの掟を決めたのだ。
この儀式をするなら早ければ早いほど化物級の魔術師が誕生する。
そしてそれにエミリオは懸けた。
エミリオの直感が自分の息子はこの程度では死なないと感じているのだろう。
零歳のときにミトアグリアを初体験させたときのように、エミリオの直感はいつも大抵が正しい。
――でも怖くて仕方ないんだ。
ニコラの目からぼろぼろと大粒の涙が零れる。
手足が震えて、呼吸が震えて、心が震えているのに、なぜ自分は今お風呂のへりに立っているのだろうか。
自分の頭の中に答えを探して探して探しつづけてやっと捻くり出したものは、過去に親孝行もできずに死んだという無念以外に何も思いつかなかった。
もし過去に後悔を抱いていなかったら、自分はこの場に立っていないだろう。
眼下には紫がかった血色のミトアグリアが、精液みたいな白い粘液を吐き出して蠢いている。
諦観の内にあるニコラはもう鳥肌すら立てない。
ニコラは一言、聞いた。
「いつ、迎えに来てくれるの?」
エミリオは静かに言った。
「明日の朝」
そうか、とニコラは思う。
明日の朝まで自分は耐えられるだろうか。
前世からつねづね思っていたこと――死を忘れるほど強く愛されたい。
愛されるためには、まず自分が愛さなくてはいけないらしい。
ニコラは今この時を以って、エミリオとジーナを愛すると誓う。
そしてこの儀を以って、エミリオの愛を受けとめたいと思う。
朝まで耐えられるかどうかではない。
耐えなくてはいけないのだ。
生きて帰るのだ。
それがボネッティ=アメンドラの長兄。
鬼の子と呼ばれし男の定め。
「母上は外に出て耳を塞いでて」
きっと人間じゃない声を出すだろうから。
母が頷いた。
そっと部屋を出る。
ニコラはエミリオに目で合図を送る。
母がいなくなってきっかり十秒を数え、
目をつぶって息を止めて身体を丸めて、
ミトアグリアの風呂の中に、
ミトアグリアの海の中に、
今、飛び込んだ。
「うっぐああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
ミミズの群れが水面から飛び出る魚のように歓喜しニコラにかぶりついた。
顔、腕、胸、背、腹、脚――全身という全身に神経火傷の熱を感じる。
「ぁああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
ミトアグリアの血色の海から、子供の腕が一本だけ天を求めるように突き出ている。
まさに赤い海に溺れた子供の図であり、今度はもがくようにして左腕が生えてきた。
右腕と左腕、交互に出たり入ったりを繰り返して、そのたびごとにばたばたとミトアグリアが空を舞う。
たまに見せる足先が、今のニコラに上下がないことを知らしめる。
どこからが上でどこからが下か。
右も左もわからなく、重力を感じる暇もなく、ただ今は、身体を貫く激痛に祈るばかりである。どうか早く時が過ぎ去るようにと。
部屋の外では、ジーナが耳を塞いだまま地面にへばりつく。
額を木床に擦らせ、枯れぬ涙を絞り出し、祝詞の如くごめんなさいを繰り返す。
大樹の国のボネッティ=アメンドラ。
誠に狂気の家である。
次回タイトル 『化物の覚醒』