3話 かくも愛しきミトアグリアⅠ
何度練習しても、魔法陣が出てくれない。
祖母のイゾルデは、「人間の根源的な部分を覗きこむように想像してごらん」と教えてくれたが、話が抽象的すぎていまいち理解できない。
そもそも人間の根源的な部分とやらを想像しなければならないのであれば、自分は魔術が使えない可能性が高いのではないだろうか。
自分は地球生まれで地球育ちだし、考え方も知識も地球に引っ張られている。
ポリトカ星の根源的なイメージを想起しろと言われても、できっこないのである。
生まれたときからニコラの脳みそは、地球人仕様で柔軟性の欠片もないのだから。
これは、非常にまずい。
コンコン、とノックされる。
「どうぞ。あなたのニコニコニコラです」
「失礼します。坊っちゃま……」
扉から入ってきたのはグレタだ。
グレタには小さい頃からお世話になっている。
子供一人に侍女を一人つけてくるボネッティ=アメンドラも大概狂った権力の持ち主だが、身の回りの世話をしてくれるのは素直にありがたかった。
ニコラにはわからないことが多すぎる。
「どうしたの?」
「あの、エミリオ様がご帰宅になられます」
「父上が?」
「はい」
エミリオとはまだ面識がない。
生まれてからこの八ヵ月間、エミリオは国外で何やら仕事をしていたらしい。
いわばやくざ頭である。
ボネッティ=アメンドラ組の組長である。
できることであればご対面したくないところだが、親子なのだからそうもいくまい。
目の前でグレタがもじもじしている。
ニコラはグレタが好きだった。
もちろんジーナに対する好感度も高いのだが、グレタに対する感情には特別なものがあった。グレタの雰囲気は、前世の母に似ているのだ。なぜかグレタと一緒にいると落ち着くのは、その空気に因るものが大きい。
グレタは淡い芦色の髪の毛を一本に纏め上げ、佇まいからどこか気品のようなものが感じられる。うなじがいい。うなじである。給仕服をぱつぱつにするほど盛り上がる胸は、男女ともに目を引くだろう。
何よりグレタは小言がよかった。
小言を言いまくる。
あれが駄目、これが駄目。もっと綺麗好きになれ。手を洗え。走るな。いたずらするな。間抜けな顔をするな。こっちを見るな。仕事の邪魔だ。大人しくしていろ。黙ってろ。
要約するとこういう感じの小言を言ってくる。
もちろん言葉に棘はなく、あたたかくて懐かしい。
――そうそうお母さんもこんな感じだった。
ニコラは、一方的にグレタを特別視する。
グレタを他の人と重ねるのは失礼だし無粋だとも思うけど、仕方がない。
一方的に好きになったのだから。
もじもじしているグレタに、ニコラが聞いた。
「どうしたの? なんだか落ち着かない様子だけど」
グレタは困ったように俯く。
「あの。坊っちゃま。わたしちょっと、エミリオ様が苦手なんです……」
「え? ああ……」
「あの、これ、内緒ですよ……? 絶対に絶対に内緒ですからね……?」
「うん。わかってるよ」
内心ではパニックだった。
ちょっとグレタやめてくれる。
そういう意味深な発言は。
こっちは結構びびってるのよ。
試しに聞いてみた。
「父上はどういう人なの?」
「エミリオ様は、とても厳格な方です。他人にも自分にも」
「大変だね……」
「それに、何を考えているのかわからない方です。底が知れないというか」
「わかった。もういいよ。やめにしよう。直接会って確認するから」
「それがいいと思います」
伝聞だと、どうしても想像が駄目な方向に膨らんでしまう。
「――ああ、ちょっとニコラ様。衣装がずれていますよもう」
ニコラはグレタの為すがままに羽織衣装を整えられる。
小言のグレタに思わずニヤけてしまう。
「なに笑ってるんですか気持ち悪い。服装の乱れは心の乱れなんですから、ちゃんとしましょうね。わたしだって暇じゃないんです。笑わないでください。笑うな。もう。わたしの時間を返しやがれです。笑うな。もう。知りません」
表情の変化を見るだけで楽しい。
「グレタ。僕はグレタのことが好きだよ?」
「はいはい。ありがとうございます」
「ねえグレタ。グレタのこと好きだから、ちょっと魔術見せてくれない?」
「嫌ですよ。ジーナ様に怒られちゃいます」
「ケチ」
「ケチでいいですよ」
「ケチグレタ」
「はいはい。わたしはケチでございます。若旦那様」
ニコラとグレタがいちゃついていると、壁の連絡穴から鈴の音が聞こえてきた。
これは大樹の町の一般的な遠距離通話手段だ。
部屋と部屋を結ぶように空洞があけられていて、そこに掛け降ろされている蓋をぺろりと外して声をかければ、相手に伝わるという仕組みだった。
今回はそれが鈴の音というわけである。
グレタがニコラを見下ろした。
「ご帰宅なられたようですね。お迎えに行きましょう」
◇
廊下を進んで玄関の前に到着すると、何十人もの使用人が列をなして、エミリオの帰りを待っていた。
使用人は邪魔にならないように壁に沿って立ち並び、妻であるジーナは廊下の真ん中に陣取っている。
「ニコ坊っちゃまも、さあ」
グレタに背中を押されて、ニコラは一歩踏み出した。
とことこと小さい歩幅でジーナの横に立ち、エミリオという恐怖の男を震えて待つ。
ニコラの両サイドの使用人は、背筋をぴんと伸ばして直立不動である。
緊張感がニコラの体を支配する。
いま目の前にある扉の向こうにエミリオがいるのだ。
この樹木の洞窟の先に。
笑顔で「ただいま」と言ってくれる人ならいいなと淡い希望を抱く。
玄関の扉がゆっくりと開き、父の顔を見た瞬間に、ニコラは負けを悟った。
オーケイ。
エミリオ・ボネッティ=アメンドラ。
髪の毛をオールバックにしたこの厳めしい男は、細くて鋭い眼光に野生のにおいを染みこませ、眼力だけで人を殺めそうなヤバイ外見のマフィアだった。
もちろん、ただいまも言わない。
鋭い視線をぎろりと向けて一言。
「こいつがニコラか?」
怖いのだが。
「父上。ニコラだよ」
子供っぽい振りをしてニコラが答える。
「ふうん。なんだ可愛いじゃねえか。鬼子って言うからもっと気色悪い奴かと思ったら、俺でもなんとか愛せそうな外見をしているな、ジーナ。もっとカエル顔かと思っていた」
するとジーナが頬を膨らませる。
「なに言ってるんですか。ニコラは世界一可愛いんです。ジーナ憤慨っ!」
「わるいわるい」
エミリオは唇の端をくいと吊り上げて笑う。
「まあいいや。なあおい、家族水入らずと行こうや、ニコラ。俺の部屋に来い」
ニコラの頭にぽんぽんと手を置いてすれ違う。
乱暴な仕草だったが、悪い気はしなかった。
ニコラはエミリオに対する警戒を解いてその後ろについていく。
ついていく途中で使用人にちらりと目を向けたが、その中でグレタは顔を青くして目を伏せていた。苦手なのは本当らしい。
エミリオの部屋に到着すると、エミリオがその場にしゃがんで、目線を合わせてきた。
「ようニコラ。初めましてだな」
「うん」
「元気だったか」
「それなりにね」
エミリオの部屋は機能的で物が少ない。
本棚と机と寝台だけだ。
天井に吊るされた魔晄結晶が淡い光を提供してくれる。
薄明りに照らされるエミリオの顔は、やはり強面である。
「お前、生まれてきたばかりなのに立ったり話したりできたんだよな?」
「まあね」
「すげえなおい。どういうカラクリなんだ?」
「僕にわかるわけないじゃないか」
「それもそうか」
エミリオが鼻で笑う。
ニコラはエミリオの黄色い瞳を覗き込んだ。
「僕ね、魔術にはすごく憧れてるんだ。母上には駄目だって言われるんだけど」
「そりゃまあそうだろうな。ジーナの気持ちもわからんでもない。お前が目立てば目立つほど命が危なくなるわけだから。聞いてるだろう?」
こくりとうなずく。
「一応」
「俺の母親に習うくらいだったらいいんじゃねえか?」
「お婆様?」
ニコラは目をくりくりさせて聞いた。
「ああ。お袋なら暇もあるだろうしな。お前、今どのくらい魔術が使える?」
「全然だよ。魔法陣すら出てこない」
「生まれてすぐに立てるくせに、魔術の才能はないのか」
「八ヵ月で魔術が使えたら天才だって聞いたけど」
「八ヵ月で魔法陣出す奴なら目の前にいるがな」
エミリオは、魔術は無理だったが魔法陣くらいは出せたらしい。
「じゃあ魔法陣が出せない僕は微妙ってこと?」
「出せる奴は多くもないが、そんなに珍しくもないって話だ」
「そもそも魔術の仕組みがわからない」
エミリオが片手を振って、
「まだわからなくていい。今の段階でわかっていればいいことは、魔法陣が出せねえと魔術は使えねえってことだ。ついでに言えば、ポルッカポッカじゃあ魔術の才能がねえ奴はクソほどの価値もない――そのことは理解しておいたほうがいい。つまりお前はクソ以下ってことだ、ニコラ。泣けよ?」
ニコラが鼻白む。
「それ、子供に言うことかい」
「どうして自分の子供に気を遣わなくちゃならないんだ? 気を遣うのは俺じゃなくててめえだろ、ニコラ? 子供ってのは父親にムカつきながら成長するもんだ」
心臓に響く重低音でそんなことを言われたらびびって反論できない。
エミリオは柔らかく笑って肩を竦める。
「涙目になることじゃないだろ。俺はこういう人間だ。早々に慣れることだな」
「涙目になってねえよ。馬鹿じゃないのかエミリオ」
「その意気だニコラ」
この会話を、ジーナは微笑ましそうに眺めている。
エミリオは言葉程度のものでは傷つかない人間なのだろう。
だからニコラに対して平気で乱暴な物言いをするし、自分が乱暴な物言いをされても大して気にも留めないのだ。
人種が違うのだとニコラは思う。
エミリオはカジノギルドという極道でしのぎを削っているのだし、病院で甘く育てられたニコラとは根本的に精神の在り方が違うのだ。
ジーナだってそうだ。
ジーナがニコラに怒るときはいつも「めっ!」と可愛らしい怒り方だが、使用人に対して怒るときのジーナはまさに極道の妻と呼ぶべき迫力があった。
ジーナもまたボネッティ=アメンドラに嫁いだ人間なのだと嫌でも理解することになる。
エミリオが、ニコラの頭に手のひらを乗せた。
「今の段階で魔術が使えないのは仕方ないが、早めに魔力の増強は行っておいたほうがいい。早ければ早いほど、成長したときに見返りがあるんでな」
「ふぅん?」
「もうアレをやってみるか?」
「アレ?」
ニコラは小首を傾げる。
エミリオの低い声が響いた。
「ミトアグリアだ」
「みとあぐりあ? なに、それ?」
「だ、だめですっ!」
傍で立っていたジーナが見る見るうちに青ざめていく。
エミリオは肩ごしに振り返ってジーナを見上げた。
ニコラからでは表情が窺えない。
「なに言ってんだお前? 早ければ早いに越したことはない」
「ですが、まだ早いと思います」
「俺はそうは思わないが?」
「普通は六の歳に始めるものだと思います」
「笑わせるなよジーナ。こいつが普通なわけねえだろ。お前の目は節穴か?」
ミトアグリアってなんだよ。
どうして二人は喧嘩をしているんだ。
「で、ですが……」
「こいつが普通に見えるか? こいつは正真正銘の鬼子だよ、ジーナ」
「ニコラは、鬼子なんかじゃ、ありません」
目尻を下げてエミリオが言う。
「べつに俺は鬼子を悪い意味で言ってるんじゃあない。怯えるな、ジーナ。頭の固い年寄りなら、鬼子はすぐに殺せと抜かすだろうが、俺は化け物が好きなんだ。ボネッティ=アメンドラはクソったれな化け物を歓迎する」
すごい言われようだった。
でもエミリオは、自分のことをあっさりと受け入れてくれた。
確かに気味の悪い子供ではあるが、ここまではっきりと言ってもらえると、すごく気が楽になるし気持ちがよい。
第一印象は恐ろしさが勝ったが、エミリオは気持ちのよい男なのだと理解した。
前世の父のようにやさしくあたたかい人間ではないが、嫌いじゃない。
ジーナは納得したような納得してないような複雑な顔をする。
「要は、肩の関節と同じなんだよ。肩の関節はガキの頃から弄っておかないと柔らかくならない。それと同じで、人間の魔力なんざガキの頃に蓄えておかないと意味がない。体が成長してからの魔力の増強なんて高が知れている」
エミリオの中にはちゃんとしたビジョンがあるようだ。
「でも」
「こいつは頭領になる男だ。俺の跡を継ぐんだ」
ジーナが下唇を噛み締める。
「……はい」
「わかればいいんだ。俺は素直な女が好きだぜ? じゃあお前が持ってこいジーナ」
渋々とジーナが子供部屋から出て行く。
ジーナの後ろ姿に視線を追っかけていると、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。
「俺が次期頭領になるから、お前は俺の跡を継げよ。いいな?」
「……うん」
嫌だと言ったらぶん殴られそうだった。
いつかこの男に、「自分は旅に出ます」と伝える日がくることを考えると、恐ろしくてたまらない。容易に想像できるのは、勘当に近い喧嘩別れだろう。
それはなんというか、嫌だなあと思う。
でもニコラはこの国から出るという意志を曲げることは決してない。
喧嘩別れは嫌だなあとは思うが、それも仕方のないことだと思うし、自分はこれからエミリオの信頼を勝ち取って自分の意志を伝え、後腐れのない別れのために奔走するのだと思う。
地位や名誉や金など、ニコラには要らない。
ほしいのは夢の実現だ。
病院の外の世界が無性にほしい。
ただそれだけ。
「――おう。きたきた」
エミリオの言葉どおり、ジーナが扉から姿を現した。
ジーナの手には、重そうな四角い箱がある。
その箱は黒く墨がかったガラスでできており、中にはペットボトルくらいの大きさのナメクジが一匹入っていた。
体の表面は紫がかった血色で、ガラスの内側には精液みたいな白い粘液が尾を引いている。
ニコラはぎょっとした。
――気色悪い。
思わずニコラは、足の先から頭の天辺までびっしりと鳥肌を立てた。
馬鹿みたいに震える声で尋ねる。
「……なんだい、それは?」
ジーナから箱を受け取ったエミリオが、揚々と説明した。
「こいつはミトアグリア。電気的刺激を餌に生きている経虫だ」
「経虫……?」
「ミトアグリアに、お前を食ってもらう」
「ーーは?」
グレタ:ニコラの付き侍女。
エミリオ・ボネッティ=アメンドラ:ニコラの父。当主。