2話 カジノギルドとボネッティ=アメンドラ
三日が過ぎた。
ニコラが部屋の端から端までごろごろ転がって暇を潰していると、扉をノックして生真面目な侍女が入ってくる。グレタという名で、緑色の枕を手に抱えていた。
侍女の給仕服は、中華着にも似た紋様のある末広がりのスカート状のものだった。
何度かこの国の人々の服装を目にしたが、ニコラはいつも豪華絢爛な古代中国を連想する。赤色と黄色の浴衣みたいな羽織衣装で、身動きのしやすい格好だと言えた。
おそらくだが、この世界は平成の世ではないのかもしれない。
順当に行けば未来だが、過去の可能性だってある。
グレタは緑色の大きな枕を床に置き、ニコラを抱き上げてベッドに寝かせた。
それからまた緑色の枕を抱え直して、子供部屋の隅っこにそっと降ろす。
ニコラは、なんとか叫ぶことを堪えた。
あれは枕でもなんでもなかった。
巨大な青虫だ。
グレタは一体どういうつもりで、あんな気色の悪い幼虫をここへ連れてきたのだろう。
それにしても大きい。
新種かな、とニコラは訝しむ。
『ニコ坊っちゃま。お掃除しますので、遊ぶのはもう少し待っててくださいね』
グレタはそう言って青虫を残して部屋を出た。
……えっと、どういうこと?
あの人は何をしに来たのだろうか。
まさか青虫をここに放置するため?
それはなんという名前の嫌がらせなの?
僕はもしかして嫌われてるの?
ニコラが心配になって唸っていると、
なにかが回転するきゅるきゅるきゅるという音が子供部屋に響き渡った。
慌てて視線を向ける。
音の発信源は青虫。
嘘だろう?
ニコラは泣きたい気分になる。
青虫の口にブラシのようなものがくっついていて、それが高速回転することできゅるきゅるきゅる、という甲高い音を撒き散らしていたのだ。
どういう仕組みで回転しているのかもわからないし、新種どうこうの話ではなくもはや妖怪の域にまで達している。
襲われはしまいだろうか。
ニコラ涙目。
「ジーナ! ジーナいる!? ジーナどこ!?」
不思議なことに青虫は、壁際の端から端へと移動して、子供部屋を磨き始めた。
十分ほど経つと、青虫は掃除を終えて、こてんと丸くなる。
ニコラが人知れず息を吐く。
「焦ったぜ……!」
コンコン。
ノックの音ともに先ほどのグレタが姿を現す。
立ったまま巨大な青虫に手をかざすと、
中空に青白い輝きが満ちて、荘厳な幾何学模様が出現した。
ニコラは今度こそ心臓が止まるかと思った。
――魔法陣。
こてんと丸くなっていた青虫が、反重力でも作用したかのように浮かび上がる。
――は?
浮かび上がった青虫を、グレタは何事もなかったようにまた小脇に抱えて、子供部屋を後にした。動作があまりにも作業的で、日常的で、ニコラは気が狂いそうになってしまう。
つまりこれは、この国では当たり前のこと?
一体どうなっているんだ?
自分は一体どの時代のどの国に生まれてきたんだ?
自分はこの国の文明レベルを発展途上国並みだと判断した。
だがそれは間違いだったのだろうか。
青白く光る幾何学模様が引き起こした一種の奇跡は、前世の世界にはなかった技術だし、前世の技術よりも高度に見えた。
ならばこの屋敷の設備も高度なものでなければおかしい。
なのになんだこれは。
どうしてこうも未開な備品だらけなのだ。
すべてが材木だ。
プラスチックなどどこにも見当たらない。
あって当たり前なはずの携帯やパソコンもない。
だからこそ自分は未来ではなく過去の可能性を疑った。
だけど過去だと先ほどの魔法のような技術があることに矛盾が出てくる。
未来だと携帯やパソコンがないことに矛盾が出てくる。
ではこういうのはどうだろう。
ここは地球ではない。
地球ではないのだから、地球と同じような文明の発展の仕方はしない。
化学工業や物理学問が発展する代わりに、魔法学が発展して今の時代ができあがった。魔法の技術は優れているが、科学は未発達なので屋敷の設備もみすぼらしくて当たり前。
これなら文句のつけようがない。
不可解なことにも説明がつくし何より筋が通る。
「ははは……」
阿呆か。
馬鹿馬鹿しい。
でも――
でも、じゃあ、さっきの魔法陣は一体どう説明をすればいい?
あの奇妙な青虫はどうすれば納得ができる?
この屋敷の備品は?
機械類の非存在は?
――自分は一体、どこの世界に迷い込んだの?
◇
あれから八ヵ月が過ぎて乳母のおっぱいを卒業したニコラは、この世界のことを段々と理解し始めていた。
まず言えることは、ここは地球ではないということだ。
この星の名前は、ポリトカ。
あの侍女の技術は、魔法。
この国の名前は、ポルッカポッカ。
――大樹の国のポルッカポッカ。
まだ屋敷の外に出たことがないので俄かには信じられないが、ジーナの言うことを信じるのであれば、我々人間はくそでかい大樹の中で生活していることになる。
想像もつかない。
たとえば直径4キロメートルの幹を有する大樹の中に、人間が穴を開けて居住しているということなのだろうか。ジャックの豆の木みたいなものなのだろうか。
途方もないことのように思える。
自分はずいぶんと遠いところに来てしまった。
八ヵ月が過ぎてもまだまだわからないことばかりだ。
ようやく言葉が通じるようになったものの、読み書きは依然できない。
ニコラは書物を読みたくて読みたくて仕方がない。
この世界のことをもっと知りたいし、魔法のことをもっと学びたい。
図鑑の絵を眺めてみるだけでも、心底から面白かった。
竜がいる。
モンスターがいる。
獣人もいるし竜人もいるし翼人もいる。
特にこの近隣に生息しているディアボレウスという竜はすごい。
黒い鱗に覆われた細めの身体。
筋肉には無駄がなく精巧の一言で、全長は尻尾から頭までで28メートル、全高は9メートルもある。象徴的なのは二本の角で、捻じれた悪魔の槍のように見える。
赤子を装ってグレタに図鑑を読ませたら、いろいろなことを教えてくれた。
とりあえず当たり前の注意事項。
見かけたら逃げろ!
手荷物? 阿呆か。捨てちまいな!
ポルッカポッカ周辺では、間違いなく生物の頂点に君臨する存在である。
ただディアボレウスは樹海の麓に生息しているので、人里までおりてくることはそうそうない。特に50歳を越えている竜は知能も遥かに優れているので、わざわざ面倒事になる人里には近づかないとか。1000歳にもなると、人の言語も操ってしまうのが竜という種族らしい。
コンニチハ。竜サン。ニコラデス。サノバビッチデス。
ニコラはふと、異世界に転生して冒険するマンガのことを思い出していた。
異世界転生は、本当に存在していた。
広大な世界。
病院の外の世界……。
とうとう自分は、病院の外の世界に飛び出したのだと思った。
手足を縛る冷たい鎖を断ち切って、まばゆく光る自由の世界に足を踏み入れたのだと思った。
唸るような興奮がニコラを襲う。
ニコラもやはり男の子ということである。
冒険活劇の舞台になるファンタジー世界に、やはりニコラもロマンを感じずにはいられなかったのだ。
胸がわくわくしてどうしようもなかったのだ。
足の底が痒くなって今にも駆け出してしまいそうだったのだ。
好奇心という風船が音を立てて割れたのだ。
それを自覚したとき、ニコラはこの世界で生きる理由を得た。
世界中を回ってみたい。
前世では叶わなかった病院の外の世界を、
この足で渡って、
この目で見て、
この手で触れて、
この心で感じたい。
全身全霊で世界を謳歌したい。
ずっと夢見てきたこと。
ずっと憧れてきたこと。
ずっと諦めてきたこと。
――世界って、なんだろう?
この疑問の答えを、自分の中で見つけること。
こうしてニコラは、動き出したのである。
自分の夢に向かって、心に秘めて、体を熱くして。
◇
「はあああああっ! 出でよ、魔法陣っ!」
幼児特有の可愛らしい声で叫ぶ。
すると廊下の方からドタバタと駆けつけてくる音がする。
勢いよく扉が開けられて、
「めっ! めっ! ニコラめっ! めっ! めっ! めっ!」
「わわっ! 母上っ!」
ジーナの語彙の足らない説教が響く。
顔を真っ赤に染めて、ほっぺたをぷくうっと膨らまし、腰に手を当てて前屈みになる。
「いま魔術の練習をしていましたよね! もし魔術が発動して怪我でもしたらどうするんですか! お母さんを困らせないでください! お菓子にして食べちゃいますよ!」
「……してないよ?」
「あ。いま嘘つきましたよね。嘘ついちゃいましたよね。もうお母さんしーらない」
ぷいと顔を背ける。
「……ごめんなさい」
「え!? やっぱり嘘だったんですか!? 嘘だったんですね!? 衝撃の事実!」
「えっ?」
「お母さん衝撃! ニコラの嘘つき! 反抗期! ドラ息子! 母親愛好者!」
「ええっ?」
母親愛好者って……。
日本語で言えばマザコンって意味なのかな。
どさくさに紛れてそんなことを言う母上に衝撃だった。
「……ごめんなさい?」
「なんですかそれ。謝る気があるんですか。誠意が足りません。すかぽんたん!」
ニコラはぎゅっと拳を握って俯いた。
「だって、母上、僕、魔術やってみたい……」
「もう。なんべんも言ってるじゃないですか」
今度はやさしい声で語りかけてくる。
「私が厳しく言うのは、なにも怪我の恐れがあるからだけではないんですよ? ニコラの立場を思って言っているのです。あなたはボネッティ=アメンドラの長男だから……」
「はい。わかっています」
「あまり目立つようなことをしてほしくないのです、母は。ボネッティ=アメンドラには敵が多い。ただでさえニコラは優秀でいい子です。さらに生後八ヵ月で魔術が使えるとなると、これはもう必ず暗殺対象になってしまいます。だから我々はあなたにしゃべらせなかったし、歩かせなかった。すべてはニコラの命を守るためなんです」
「はい。……でも、実感が沸かないんだ」
世界が違い過ぎて。
暗殺という言葉を聞くたびに吹き出しそうになる。
おいおいこの国はそれほど物騒なものなのかって。
ただ優秀なだけで、赤子の命を狙うなどギャグにしてもお粗末である。
平成生まれの自分にはうまく想像ができない。
――ボネッティ=アメンドラ家。
この家が大層すごいことは知っている。
何人もの侍女を侍らせているし、料理長を雇って料理は豪華だし、赤子の乳やりに乳母まで用意してある。観察するまでもなく、この家の権力はずば抜けている。
ジーナはニコラを抱いて膝の上に座らせた。
「ギルド貴族の話はしましたっけ?」
「聞いたことない」
「うん。じゃあ、ギルド貴族の話からしましょう」
「うん」
「まずはね、この国の大きな産業の一つがカジノ経営なの。カジノってわかる?」
「うん。グレタから聞いた。賭け事を娯楽にしたものでしょ?」
最初はその単語の意味が何を示すかわからなかったが、グレタの説明を聞いていくうちにカジノのことだと気がついた。だから今では普通にカジノだと翻訳している。
グレタは何事も説明が上手だった。
「そう。そのカジノを運営するための組織がカジノギルドで、ギルドの重役はだいたい四つの派閥に分かれているんです。そのうちの一つが私たち――ボネッティ=アメンドラ。いまカジノギルドの政権を握っている樹亀派とは、やや敵対関係にあるわけです」
「なるほど。やや、というのは?」
「まあ樹亀派は過激な派閥ではないので、我々樹龍派にはあまりちょっかいをかけてはきません。でも樹亀派寄りの樹虎派っていう派閥が、結構なやり手で、我々のことを敵とみなしてがんがん攻めてくるんですよね。だから注意が必要なんです」
「つまり、僕は樹虎派に命を狙われると?」
「そうです。もちろんそれもあるけど、また複雑な事情があって、カジノギルドの重役には、この国の政策に意見ができる特権があるんですね」
「ああ。だからギルド〝貴族〟なんだね」
ニコラはそっと頭を撫でられる。
「えらいえらい。もともとはね、カジノギルドは弱い立場にあったの。でも何百年前かは知りませんが、カジノギルドが力をつけてきて、強い影響力を持ってきた。カジノギルドっていうのは、結局はやくざ者の集団だから、そんなのが力をつけることは国が許さないわけですよね。だから国が動いた。力関係から、国はもうギルドを無下にはできない。ならば、ということで、国はギルドを内側に取り込んだんです」
「特権を与えるから国に従えってことだね?」
「そうです。ギルドはその提案を了承し、今に至るというわけです。だからもともとの王宮貴族からすると、ギルド貴族は目の上のタンコブなわけです。金にがめつい卑しい暴力団、とでも思っているでしょう。あとはなにが言いたいかわかりますよね?」
「まあ、うん。王宮も敵なわけだ」
「正確には、樹虎派の息のかかった王宮貴族、ということになるけどね」
「……また樹虎派か」
「樹虎派は保守的で、樹龍派は革新的だからね。お互いにムキになっちゃう」
よくある話だ。
本当にどこでもよくある話。
「ニコラにはちょっと難しい話だと思うけどちゃんと理解しておいてほしい。もし私が一般的な国民で、カジノギルドと関わりがないのなら、自分の息子にこんな物騒な話は聞かせません。でもあなたは、樹龍派筆頭のボネッティ=アメンドラの一員だし、エミリオの息子だし、ボネッティ=アメンドラの家督を受け継ぐ長男なんです」
ニコラは黙っておいた。
自分の願いがこの国を去ることだということを。
家督なんて受け継ぐ気はさらさらなかった。
世界を見て回ることが夢なのだ。
こんな面倒臭い政治屋のおままごとに付き合うほど自分は暇じゃあない。
すまんね、マッマ。
だがそれを告白するタイミングは今ではない。
今の話を聞く限りでは、自分の夢について切り出すのは慎重であるべきだ。
「母からの話はこれで終わりです。ね。魔術なんか使っちゃいけませんよ、まだ」
「はぁい」
……練習するんですけどね。
ギルドの四大派閥
保守側
樹亀派→ジュキハ 穏健。頭領(ギルド長)が存在する。
樹虎派→ジュコハ 過激。
革新側
樹龍派→ジュリュウハ ボネッティ=アメンドラ家。
中立側
樹鳥派→ジュチョウハ