第1話
誰もが私に、正解を期待している。
ほんの少しだけ平均より高い点数と、ほんの少しだけ器用な振る舞い。
それだけで、世界は私を「天才」という箱に閉じ込めた。
期待に応えるたび、本当の私が削れていく。その音が、心の中で鳴り止まない。
「また勉強してないって言ってたのに、ひどいよー」
隣の席の友達が、冗談めかして私の肩を叩く。机の上に置かれたテストの答案用紙には、いつも通り「85」という数字が、まるで決められたノルマのように無機質に並んでいた。
「本当にたまたまだよ。昨日は早く寝ちゃったし」
嘘をつくたび、喉の奥がチリりと焼けるような感覚がする。本当は、深夜までシャーペンを握りすぎて中指のタコが痛い。でも、必死に食らいついている自分を見せるのは、もっと怖い。いつの間にか周りが作り上げた「余裕のある天才」という虚像だけが、私の居場所を守る唯一の盾になっていた。
「天才はいいよね。私なんて昨日三時間もやったのに」
そんな何気ない言葉の端々に、トゲが含まれているような気がして、胸の奥がざわつく。
……怒らせたかな。今の私の言い方、鼻についたかな。
一度考え始めると、教室の空気が急に重く、鋭くなっていく。誰かの笑い声が自分への嘲笑に聞こえ、床を擦る椅子の音に心臓が跳ねる。視界の端で、クラスの中心にいる結衣が、冷ややかな目でこちらをじっと見ているのがわかった。
期待されるほどに、本当の自分が消えていく。
私は震える手でテスト用紙を裏返し、ノイズを振り払うように、深く、静かに息を吐いた。
一時間目が終わった後の休み時間。教室はいつも通り、嵐のような騒がしさに包まれる。
「ねえ、今の数学の解き方教えてよ。天才ならもっと簡単に解けるでしょ?」
数人のクラスメイトが私の席を囲む。差し出されたノートの白さに、喉がキュッと締まった。私もさっきの授業で、先生の説明を理解するのに必死だった。教科書の隅に書き込んだ自分なりのメモを見られるのが怖くて、ノートをそっと閉じる。
「ごめん、今はちょっと……頭がぼーっとしてて」
「えー、ケチ」
「天才は教えるのもったいないんだ?」
笑い声が混じる。悪気がないのは分かっている。でも、その言葉が耳の奥でキンと響いた。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所で友達と話していた結衣が、こちらを見ていた。彼女は私と目が合うと、口角をわずかに上げて、すぐに視線を逸らした。
(今の、どういう意味……?)
考え出すと止まらない。さっきの断り方が冷たかっただろうか。結衣は私のことを「お高くとまっている」と思っただろうか。
急に、教室の音が尖り始めた。
カチカチと執拗に鳴らされる多色ペンのノック音。窓を叩く強い風。廊下を走る足音。
それらすべてが、私の心臓を外側から直接叩いているみたいに響く。
その後の授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。
放課後を告げるチャイムが鳴り、一斉に生徒たちが動き出す。その賑やかさから逃げるように、私は一人で中庭へ続く渡り廊下へ向かった。
ふと、まだ部員もまばらなグラウンドに目が止まる。
練習開始前の静かな外野の隅で、一人、黙々とライン際を整えている背中が見えた。野球部のユニフォームを着たその少年は、誰に話しかけるでもなく、ただ自分の足元だけを見て作業を続けていた。
「……いいな」
思わず独り言が漏れた。
誰からも「天才」なんて呼ばれず、特別な何者かであることを期待もされず、ただ自分のやるべきことだけに向き合っていられるあの背中が、今の私には、世界で一番自由で、うらやましいものに見えた。
誰かが決めた「天才」という役割を演じていれば、居場所だけは守れると信じていた。
けれど、重なっていく小さな嘘が耳を過敏にさせ、「どう思われたかな」という不安のノイズが、本当の声をかき消していく。
八十五点の裏側に自分を隠して震える私にとって、
ただ黙々と、誰の視線も気にせずそこにいるだけの背中は、
何よりも眩しくて、届かないほど遠い「自由」の形だった。




