過半数の胎児は母の胎内しか愛せない
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どこかに行きたいということはすなわちそれはそこにいたくないことを表しているのだと、その昔姉さんから聞かされたことがある。言われてみるとなるほどその通りかもしれないなとそのように考え、一抹の疑いを口に出すこともせずに姉さんの言うことならと飲み込んでいた。
しかしここであえてならばといえば、ここにもどこにもいたくないという人間ははたしてどのようにしていれば良いのだろうと、そのような問題になるのではないか。これは極めて稀なケースには間違いないし、他でもない姉さんの言い分に対しそのような考えを抱くのはぼくという人間にはあってならないことである。そりゃあもう絶対にだ。
だからこそ、身を持ってそのような引きこもりの少女に出くわす羽目になり、ぼくは相当に楽しみだった。
楓ちゃんは自分の家があまり好きな訳ではないだろう。仮にそうだとすれば外に出たいという意思を彼女が持っていることが不自然になるからだ。それはもう、絶対にそういうことなのである。つまるところ、ぼくのすべきことは簡単なのだ。楓ちゃんを相手に家に引きこもることはとても良くないと、そのように言いざとすことである。
「家に着きましたよ。」聖ちゃんに言われてぼくは意識を自分の外側へと移した。「これは良い家だ。」言いつつぼくは四つの黒い円の上に立つ赤い外装の丈夫な家をぺしぺし叩くのだけれど、聖ちゃんは連れない様子で「それは車です。」とそう言った。なるほどこれはどちらかと言えば車のような外見をしているとぼくはそのように思ったのだけれど、しかし聖ちゃんの体により近い方を彼女の家とするのも一つの道理だと、そのように言えるのではないだろうか。そもそも玄関と屋根があり人の入れる空間のことを家と呼ばない道理は無いのだし。
「すると、こちらの白い建物の中にいるのが楓ちゃんかい? そうは見えないけれど。」「それは犬小屋です。中に置いてあるのは漢字辞典ですけれど。」聖ちゃんは呆れたように言う。「ほう。漢字辞典に小屋を与えているのかい。なかなか博愛的じゃあないのかい。ぼくの姉さんなんか、人間を飼っているんだが、木工ボンドで全身を床に縫い付けるばかりなんだよ。困ったもので、そろそろ体も緑色になって来たし、そろそろ悲鳴をあげながら爆発を起こす時期なんじゃないのかと、ぼくはそのように心配しているのだ。どう思う?」
「それはお姉さんに良く抗議するべきでしょう。」片方しかない手で頭を抑えながら聖ちゃん。「それはそうと。私の家はこっち。この青い屋根です。」「この青い屋根の建物の、どこなんだ?」ぼくが尋ねると、聖ちゃんは首を振って「全てです。」とそのように言った。ふむなるほど。そりゃあそうだ。
玄関を招かれて、ぼくはその広さに圧倒される。「ほう。玄関と言うのはこれほどまでに立派なものだったのか。これなら体を横にずらしながら家に入る必要が無いどころか、ここに布団を敷いて眠ることもできるじゃないか。」家のことを褒めたというのに、聖ちゃんはどこか歪な笑みを浮かべて「そうですか。」とそのように笑うだけだった。ぼくは喜び勇んで靴を脱ぎ、揃える。聖ちゃんはぼくの手を取って歩き出した。
「それじゃあお邪魔するよ。」うきうきとぼくが言った。「床に気をつけてください。誰か釘でもばら撒いていないとも限りません。」忠告するように聖ちゃん。「何。釘程度なら、足にささったところでのっぽになれて良いことだよ。本当に怖いのは色鉛筆とかだ。」「そうですか」聖ちゃんはあしらうに言う。「……あいたっ。」言うなり、悲痛な声をあげた彼女は片目を閉じて床の方を見る。何か、灰色いものを踏みつけてしまったようだった。
「ハツカネズミかい?」ぼくが尋ねると、聖ちゃんは「これはそのように利口な生き物ではありません。おそらくは、兄が作ったおもちゃでしょう。」言いながら足をどけると、そこには正真正銘のハツカネズミが赤い体液を晒して潰れてしまっていた。「ほう。これがおもちゃだというのか。」ぼくは感心する。「良くできているね。まるで本物のハツカネズミのようだ。」「これは多分、本物のハツカネズミを捕まえてきて作ったんだと思います。多分、尻尾についた糸がどこかに繋がっていることでしょう。そこで兄が遊んでいる。」聖ちゃんは小さく笑って「気にせずに行きましょう。さあ。姉の部屋ですよ。」壊れたおもちゃが赤い痕跡を残しながら糸で引かれて行った。
さあ。これから楓ちゃんとご対面という訳である。「それでは。私は待っています。」という聖ちゃんに力強く頷いたぼくは、どきどきしながら部屋の扉に手をかけた。主の意思を反映するかのように扉は重く、というかいくら力をかけても開かないところを見るに鍵がかかっているようだった。
「こまりましたね。」というのは聖ちゃん。「どうしましょうか? そこから何か話しても、姉のこと。部屋の奥でイヤーホンを付けてうずくまってしまうはずです。」困り果てた様子の彼女に、ぼくは胸をどんと叩いてから言った。「ねえ聖ちゃん。彼女に扉の鍵が開いていることを伝えてくれないか? そうすれば彼女は鍵の点検の為に部屋の前まで来るはずだし、上手く行けば間違えて鍵を開けてくれるかも。」
聖ちゃんは残念そうに「いいえ。姉は部屋の前に誰かいる時、何かをしようとしないのです。」「そういうものかい?」「ええ。そういうものです。どうやら、物音を聞かれるのを怖がるようでして。」なるほどそれは良く分かる。部屋の中でとどまる彼女にとって、時間とは速く過ぎるほど良いものに違いが無い。ならば、じっと何もしないでいることに何の呵責もないのだろう。「それは残念だ。ということは、ぼくは楓ちゃんが出てくるまでここで待ち続けなくっちゃいけないことになる。」
聖ちゃんが驚いたように言った。「まさか。姉は勘の良いところがあります。部屋の前に人がいることを悟ったら、飢えて死ぬまで出てこないことに違いありませんし、或いはどうにかしてあなたを殺そうと試みる可能性さえあります。」「その点は心配しないでくれ。」ぼくは胸を張った。「死んだようにしていることならすごく得意なんだ。体の中で常に動いていなくちゃいけない部分以外、全部停止させるくらいの特技はある。君だって、やろうと思えばできるだろう?」聖ちゃんは首を振った。ぼくはそれに何も答えずに、楓ちゃんの部屋の前で待ち続けることに決める。
引きこもりというものとの、対面である。とてつもなく楽しそうではないか。ぼくは噂に聞いたものなら何でも実際に見てみたがる性質の持ち主で、ひきこもりについては、姉さんにご教授いただいたことがある。
彼女の世界が如何なるものなのか、それを知る為にぼくはここでじっと待ち続けるのだった。はたして、この扉が腐り落ちるのと、ぼくの寿命が尽きるのと、どちらが早いことだろうか。わくわくするものさえ感じながら、ぼくは待ち続ける。空気の温度が下がるのを感じ始めた頃、ぼくの背後から声がかかった。「あなた。モグラになるつもりはない?」
「やあ。君は誰だったかな?」ぼくは背後の人物にそのように声をかけた。聖ちゃんよりは髪が長くて、背中を途中まで覆っている。「私は雪子です。ところで、あなたモグラになるつもりはない? いい加減、太陽の光を浴びるのにも飽きたでしょう? 表面が数千度の熱の塊に焦がされながら、四本ある足の内の二本しか使わないで毎日歩き回るなんて、バカげていると思わない?」「それはそうかもしれないね。」ぼくはそう言って頷いた。「けれどね。ぼくはこうも思うんだ。太陽の明るさも、二本の足を地面につけないでいることも、バカらしいと思ったのは、これまでそうしていたからなんだ。バカらしいと思うほど、ずっとそうしていたからなんだ。だからぼくは、これからもずっとそうしていられるはずなんだ。あえてモグラになる必要なんてないよ。」
「そう。」雪子ちゃはそう言って「そのこと。洋子にも伝えてくるね。あの子にはそれがつようだと思うから。」颯爽と背を向けてその場を去って行く。彼女に楓ちゃんを部屋から出す方法を尋ねようかと思ったけれど、彼女を部屋から出さなくては行けないのはぼくなのだし、彼女にそれを伝えてしまうのは違うことである。
再び空気の温度が高くなるのを感じるころ、ようやく部屋の扉が開いた。雪子ちゃんらと同じ顔をしたパジャマの少女は、髪の毛を裸足の足元まで垂らしていた。「何?」少女は端的にそれだけ訊く。なのでぼくは「人間だよ。」とそのように答えて、「君の名前を聞かせて欲しい。」とそのように言った。「楓。」やはり帰って来たその返答。扉を閉めようとする彼女の腕を無理に引っ張って妨害し、ぼくは部屋の中に滑り込んだ。
力付くで外に出さなかったのは、一時的な解決では聖ちゃんが満足しないことを知っていたからである。接着剤と木の丸太が奥に詰まれて、他にはベッドとテレビと本棚があるだけの部屋だった。普段はテレビから発される光と音を体内に取り入れながら、木の丸太をそこのナイフでばらばらにして、それを接着剤で元の形に戻しながら暮らしているのかもしれない。随分と贅沢な子である。
「何?」と楓ちゃんは訊くので、ぼくは今度は「歩いたんだ。今いる地点に。」とそのように答えて、その場に腰掛ける。「さあ。ぼくの目的は、君に定期的に部屋を出るようにしまてもらいたいという君の妹の望みを適えることだ。その為には、君に協力してもらわなくっちゃいけない。」
「……はあ。」楓ちゃんは首を傾げる。どこかしら眠たそうで、足元で落ち着かなく自分の髪の毛を弄っている。「それはできません。」偉く端的に答える彼女にぼくは「そういう訳にはいかない。」とそのように言った。しばし、見詰め合う羽目になる。
さて、こういう事態が一番厄介なのである。複数ある事態がお互いを否定しあう時、状況は停滞しあうしかない。妥協と言う行為はもっとも下劣であると姉さんに教わったぼくは、折り合いをつけるということを忘れてこう言った。「君は協力できない。ぼくは君に部屋から出てもらわなければならない。なので、ぼくは自分だけの力で君を部屋から出すことになる。」
「この部屋をどうするつもりですか?」聖ちゃんのいうとおり、勘の良い女の子だった。楓ちゃんはぼくの考えていることがすぐに分かったらしい。「そりゃあ。君だってこの部屋が他と比べて良いところだからずっとここにいるんだ。ここが居心地の悪いところになれば出て行くのがふつうだろう? 少なくとも洋子ちゃんならそうする。」そう言って、ぼくは気付いた。
楓ちゃんにとってここが良いところだとは限らない。それでも、彼女は長いことここにいた訳だし、それはつまり、彼女はこれからもここにいられるということだ。それをわざわざ外に出す必要なんて、少なくとも楓ちゃんには何も無い。
「それは困ります。」楓ちゃんは言った。「そうさせない為に、私は何でもします。」言いながら、傍にある丸太を手にとって、ナイフで削ることを始める。何を言っても聴こえそうもない集中の具合で、実際に「何の為にその行為をするんだい?」と聞いても何も答えなかったので、ぼくはそれを見ることにした。悪い時間ではなかったし、彼女に対して何かをするなら、彼女が何かをしてからが正しい順序である。部屋を住み心地の悪い状態にする作業ならば、それはまずは楓ちゃんの動きを止めてからで、その為には、彼女がナイフを手放すのを待つ必要があった。
三時間ほど彼女がそうしているのを見詰めていたぼくに、尖らせた丸太を楓ちゃんが突きつけて来る。ナイフよりは木の杭が好きで、そちらを作っていたのだろう。よほどその凶器を愛していると言える。
「出て行ってください。」楓ちゃんは言った。ぼくはテレビを持ち上げると、楓ちゃんの捨てたナイフでそれを削り始める。どちらかと言えば木でできた杭よりテレビでできた杭の方が強いだろうと感じた結果である。ぼくがその作業を始めてすぐ、彼女はぼくの背中を杭で突いて、それからぼくのナイフを取り上げて来た。
「何をするんだい。」出血する背中を見ながら、怖がるように楓ちゃんが返事をする。「テレビに何をしますか。」「削っていたんだよ。」ぼくは立ち上がって言う「君こそ、少しの間出て行ってもらいたい。」楓ちゃんが怯えたようにするのが見える。なるほどぼくはナイフを持っている。これでは女の子を怖がらせているだけだ。なので、ぼくはすぐにそれを捨てた。あわてて楓ちゃんがそれを拾い上げる。
「……あなた。外の人ですか。」「そうだね。この部屋を外とするなら、ぼくがいるところは内ではなく外になる。」一度目を大きく開いた楓ちゃんは、一人何かに納得してから「そうですか。じゃあお願いがあります。これは、私が部屋を出る為に必要なことです。」などと神妙に口にする。
「何だい?」ぼくは毅然と言った。何を言われても実行する心積りである。「私は水が嫌いだから、水のある外には出たくありません。だから、それを何とかしてくれたら外に出られます」「了解した。」言うなり、ぼくは外に出る。「どうでした?」という聖ちゃんに会う。「水が必要だ。」ぼくは言った。「ホースで水を出す。頼むよ。」聖ちゃんはすぐにその用意をしてくれた。ぼくは楓ちゃんの部屋に戻る。案の定。鍵が閉まっていた。
「水はどうにかなりましたか? それがどうにかならないと、外には出ませんよ。」楓ちゃんの声だった。「いつもこうです。無理難題を言って、外に出ようとしないんです。」聖ちゃんが肩を竦める。「ああ。これから君の嫌いな水をどうにかしよう。だから扉を開けてくれ。」「本当ですか?」目を輝かせて出てきた彼女の顔に、ホースで水をぶちまける。
「いいかい。水とはこういうものだ。何か対策が浮かばないか、一緒に考えようじゃないか。」「やめてください。」苦しそうに、楓ちゃんは言った。「冷たいです。」聖ちゃんに申しつけ、放水をやめてもらう。
「どうだった?」ぼくはそう言った。「あながち耐えられたんじゃないかな? 他に苦手なものがあったら、一緒に解決して行こう。そうすれば、この部屋以外のところだって、少しは好きになれるんじゃないのかい? そういうやり方なら、良いだろう。」
長い髪に水を滴らせながら、ずぶぬれの楓ちゃんは神妙に頷いた。「分かりました。」なるほどそれは、なかなか肝の据わった返事だった。思うに、水の冷たさが、あながちそうそう耐え難いほどでもなかったのだろう。
そこ以外のところを少しでも知れば、今まで遠ざけていたものを少しでも知れば、今いるところの嫌なところを少しでも見出すものだ。多分、部屋の中にいると、体が塗れる心地良さも感じなかったのかも知れない。
そういうことも知らなかったに違いない。だいたいのモグラが、日光の暖かさを知らないのと同じである。
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