鏡の使い方を知りながら人が自殺を行なわない訳
蝉が鳴くのは雌をおびき寄せる目的であると、そのような事実をぼくがはじめて知ったのはつい四日前のことである。成長に成長を重ねその結果ついに五百メートルの大台を突破した我が家の二階に止まっていた蝉を見て『姉さんこんなところにまで蝉が飛んできているよ。随分とど根性な奴だね』と言ったぼくに『飛んでくるなんてそんなことはありえないじゃない。三年前くらいからそこに張り付いていたんじゃない? それならまだしも有り得るわ。蝉の寿命は七年だから』と姉さんは言った。蝉の寿命は確かに七年くらいだけれどそれはものを食べた場合に限るということを姉さんに伝えると、顔を赤くした姉さんは名誉挽回とばかりに自分の知りうる限りの蝉の知識を披露してくれた。さすがはもの知りの姉さんであり、ぼくはすっかり勉強をさせてもらった訳だ。
姉さんの曰く、蝉が鳴く理由と言うのは小学生くらいの人間ならば誰でも知っていることなのだそうだ。そう言われても、あの茶色くて握りつぶすとばりばりという音のする生き物について物好きでもなんでもないぼくは昔から興味など持っていなかったし、別だん恥と感じることはなかった。
ぼくは下界の公園のベンチにて何もせずにじっと座っていた。どうして何もせずにじっと座っていたのかと言えばじっと座っていたかったという簡単明瞭な理由に基づく。今は姉さんに何も言われていないし、姉さんがいる訳でもないので家にいる理由もほとんどない。ならば五百メートルの階段を降りるのにどれくらいの労力が必要なのかを調べる目的で下に降りて来たという訳だ。
気紛れを起こした太陽が十月に蝉を生かしていた為に、秋の公園は涼やかなみんみんという音に満ちている。休憩にはちょうど良い、風情に満ちた公園である。
「こんにちは」と何者かに声をかけられて、ぼくはそちらに振り向いた。はたしてそこにいたのは右腕のない女の子であり、その顔の造詣には見覚えが合った。「少し待ってください」ぼくは自分の頭蓋骨に指で穴を開けて海馬のあたりを穿り回す。しかし何も出てこず、それどころか物理的な刺激によって混乱した脳はあらぬ幻覚をぼくに見させた。無数の鉛筆削りが公園を乱舞しながらホッチキスを求めて一生懸命に叫んでいる。おまえはいったいホッチキスと何をどうするつもりなんだとぼくは突っ込みたくなったが、鉛筆削りが幻覚でしかないことを思い出して自粛する。
「何をやっているんですか?」心底驚いた声を発して女の子は左側しかない手をぼくの肩に触れた。何をそんなに驚くことがあるのだろうと一瞬考えて、ぼくは自分の過ちに気付いた。海馬とは重要な記憶とそうでない記憶を別ける機関であってそこに思い出が詰まっている訳では決してない。「いいや。失礼、見苦しいものを見せたね」とぼくは一言謝っておいて、それから女の子に向き直る。「以前お会いしたことがあったのでは?」
女の子は信じられないような顔をして「成美が右腕を切り落としたのですか?」とそんなことを言った。ぼくは首を横に振って「いいや。ぼくの知り合いにナルミという人物はいないし、腕の切り落とされた人間は君を含めて六人しか知らないが、その内の五人は左腕を落としている」とそう答えた。女の子は「じゃあ、楓姉か、雪姉か、洋子に会った?」三つの名前を頭の中でこね回す。すぐに思い出した。「ああ。それならこの間、車のエンジンとハンドルと運転手にそれぞれ成っていたのを見たよ。君はあの子らの姉妹なんだね」ぼくが言うと、女の子ははにかんで「三女の聖です」と物腰柔らかに自己紹介をする。
「聖ちゃんか。それで、五女が成美ちゃんと言うわけ?」ぼくが尋ねると「はい。いつも誰か姉に化けているものだから、彼女と成美として話をするのはできませんけれど」と聖ちゃんは答える。
なるほど聖ちゃんはその為に右腕を切り落としている訳なのか。妹が自分に化けられないように工夫をしたのに違いない。なかなか根性のある良い子である。ぼくは感心させられて、つい笑顔になった。この子とは仲良くしたいな、とそう思う。
「聖ちゃん。蝉は良いと思わないかい?」ぼくは言った。「そうですか? うるさいと思いますよ」そういう聖ちゃんに、ぼくは格好をつけて「風情があるじゃないか。この声。異性を求めて必死で声を出している健気さを感じていると、とてもよく和む」言った。すると、聖ちゃんはおかしそうに「じゃあ。蝉を捕まえてみてください」とそうぼくに求めた。
「どういうことだい?」ぼくが訊く。「蝉の声をわずらわしく思わず、蝉の健気さをいとおしいと思うのは、あなたが蝉を自分よりも下劣な存在だと思っているからです。だって、自分以上の存在の自己主張を心地良いと感じるのは、おかしいでしょう? ふつうなら、この鳴き声を心地良いとは思いませんよ、音自体が好きなのなら、ともかく」
なるほど。なかなかにラジカルなことを言ってくれる。ぼくは感心して、それからベンチを立ち上がった。「ようし。それじゃあ、これから蝉を捕まえて見せよう」聖ちゃんは困ったように笑って「冗談です。何も、捕まえることはないじゃないですか」と、前言を撤回する。なるほど捕まえられる蝉を不憫に思ったのだろう。
「いいや。ぼくはこの蝉の声を、ずっと心地良いと感じていたいんだ」これはなんとしても譲れないことであった。だから、何としても蝉を捕まえてみせる。言うなり、ぼくは木に登って、蝉に手を伸ばす。
蝉は大きく二枚の羽を広げて、その間から緑色の光線を発射した。それを食らったぼくの視界は黄色と黒色を混ぜたような色彩に染まり、四肢はしびれて動けなくなった。そのまま木にしがみ付いていることができず、勢い良く地面に落下する。背中をした戦う地つけた。酷く痛い。
「大丈夫ですか?」聖ちゃんが心配そうにこちらに駆け寄った。「負けてしまったよ、聖ちゃん」なさけなく、ぼくは呟く。「ああちくしょう。蝉の野郎め。何と不愉快な鳴き声なんだ」
ぼくは誓った。いつか、この世の蝉と言う蝉を殺し、この不愉快な音色を世界から撲滅してみせると。皆がこの声を不愉快に思っているはずだ。ならば、僕はその行いによって英雄と認められるだろう。そうすれば、我が家だって五百メートルといわず、一千メートルでも、一万メートルでも目指すことができるはずだ。
「やってやる。蝉を皆殺しにしてやる」ぼくは誓いを口にした。その相手は聖ちゃんしかいなかった。彼女は困ったようにぼくに笑いかけると、「ははは。楓姉も喜ぶと思いますよ、そうしてくれたら」とそう言った。
「楓姉? 確か長女だったかな」ぼくは首を傾げつつ、どうにかその場を起き上がった。体についた土を払うのが面倒だったので、その場で上着を脱ぎ捨ててしまう。ズボンを四枚重ねて着ていたことが幸を喫したと言えよう。上下一枚ずつ脱ぎ捨てて尚常識的な格好でいるぼくに、聖ちゃんは呆れたような表情を見せて、「さすが、洋子の知りあいなだけありますね」と笑った。
「洋子ちゃんは四女だったかな。ところで、長女の楓ちゃんがどうしたんだい?」ぼくが訊くと、聖ちゃんは表情を固くして「相談があるんです」と言った。
「あの子は以前からずっと引きこもっていて、家から出ようとしません。理由について尋ねても、いつも違ったことばかり言って。本人は外に出たがっているのですけれど」なるほど。その彼女をぼくにどうにかして欲しいと言うことか。「でも。この間は楓ちゃん、車のエンジンとして活躍していたよ」ぼくが言うと、聖ちゃんは「それは成美だったのかもしれないし、そうじゃないにしても、雪姉に無理矢理連れ出されたんだと思います」寂しそうな口調だった。「お願いします。私の家、変な人が多いから誰も寄り付かなくて。頼れる人がいないんです」そこで、僅かながらに姉妹と関わりのあるぼくを頼ってくれた訳だ。ぼくは笑顔で「もちろんだよ」とそう答えた。なぜなら、そうするしか、なかったからである。
明かりが灯ったように笑顔になる聖ちゃん。ぼくは今すぐにでも楓ちゃんのところに迎える旨を伝える。「分かりました」そう言って、彼女はぼくの手を引いて歩き始めた。即席で車を作ることも、木によじ登ってその木が楓ちゃんに向かって生長するように促すことも、鳥を捕まえて運ばせることもしない、堅実な移動方法は、聖ちゃんの性格をあらわしていると言えた。
さて、楓ちゃんはどんな子なんだろう。実に楽しみだった。
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