エンゼルフィッシュは水槽の所有権を主張できない
繁華街の只中に聳え立つ灰色一色で細長いばかりの、ともすれば新しい形の電柱とも間違われかねないような建物の最上階にして第二階層。それがぼくらの住居であった。どういうところかと言えばまず風呂がある、トイレがある、ダイニングとキッチンと寝室があるいわゆる1DK。開放的な印象を持たせる広めの空間。窓はどこにも無いが、でも通気工のお陰で換気はばっちり。姉さんの意向により一度着た服はどんどん捨てていくようにしているので、洗濯物を干す場所が無いのは問題にならない。街へ繰り出すのに地球に空洞を開けたような階段を下らなければならないのが欠点と言えば欠点。
その日もぼくは、買い物の為にこそ階段をたったかたったか降っていた。早くも汗をかいたぼくは清涼な水を用意しておくのだったと後悔したくなる。ポケットの中にナイフの一つでも用意していれば、血でも流して飲んでおけば一応溜飲を下げることができたというのに。色々な場面で行き当たりばったりな面が目立つのがぼくの短所である。しょうがないので犬歯で口の中に穴でも開けてやろうかと考えていると、踊り場に一人の男を発見する。
その男は全身から力を抜かれた上接着剤で床に縫い付けられており、唸ることさえできないほどに弱りきっている。彼はこの間、祖父の財産を目当てにここにやって来たところ、階段の途中で力尽き倒れたのだ。体力を根こそぎにされた彼が姉さんのおもちゃにされたのは言うまでも無く、いくら泥棒とは言え、気の毒極まる話だと思う。と言って姉さんに意見をつけるつもりなどぼくには微塵たりともありえなかった。
ああ、もう三十一番目の踊り場にまで辿り着いたのか、とぼくは自分を奮い立たせた。休むのはもう少し後にしよう、せめて折り返し地点まではがんばろうかな、と思っていると「何か食い物くれないか?」男に声をかけられる。
「あれ。姉さんに何も貰っていないんですか?」ぼくは首を傾げた。いくらあのずぼらな姉さんでも自分が管理している人間に食事をやり忘れるだなんてミスはしないはずである。二人でカブトムシを飼っていた時など虫かご一杯にゼリーを突っ込んで窒息させたことがあるほどだ。
「ああ。おまえの姉さん、上から何か投げときゃそれがここまで転がってくるものだと考えているらしくってな。少し前までなら俺が取りに行けば済む話だったんだが、今はこのとおりで。」悲しそうに男は接着剤に固定された体をよじって見せた。なるほどここに来る途中にバームクーヘンやら干からびたミミズやら落ちていたのはそういう訳だ。姉さんは少しばかり、それでは不足だと知っていて物事をサボタージュする癖がある。この男はその被害者という訳だ。「それは気の毒に。今度ぼくの方から姉に言っておきます。」さすがのぼくでも、これは姉さんを戒めなければならないだろう。なるだけやんわりと、ともすれば一時間くらいで忘れられそうな言い方になってしまうのは力関係の都合上は仕方のないことであるけれど。
ひいひい息を吐きながらぼくは何とか下界へ辿り着いた。こんな生活を続けた所為で足腰だけは妙に鍛えられてしまっている。時間と脚力のどちらをより優先したいかと問われれば間違いなく時間であるので、エスカレーターか何かを取り付けたいところであるが、そんなことをすれば先ほどのような泥棒の侵入をより許しやすくなってしまうのは問題だ。何がしかの案を検討するか或いは階段を上下する練習を進める必要があるだろう。
これからするべき買い物は大学ノートとホッチキスとカタツムリを六体ばかり。余裕があれば厚めの辞典か何かを購入したいところである。ここで安易に小麦粉などを購入してはならないのがポイントである。姉さんの性格を考えればそれくらいは推し量れなければならないところだ。
階段にかけた時間の半分ほどかかって大型のスーパーマーケットにまで辿り着いた。ホッチキスと大学ノートについては苦も無く手に入れることができたのだが、どこを探してもカタツムリが売られていない。そこらへんで店員を捕まえて尋ねてみると「当店ではカタツムリは扱っておりませんが、キャベツや白菜などに張り付いたものがいるかもしれません。」と仰った。カタツムリであるならそれで構わない。ぼくは「なら探しといてください。」と言って、手元にあるものだけを持って店の外に出る。さてどうやって時間を潰そう。店中の野菜を漁るのにどれくらいの時間がかかるのだろうか。手持ち無沙汰でスーパーの周りを歩いていた時だった。
大ぶりな眼球が落ちていた。
拾い上げるとまだ新しいことが分かった。そこら辺の電線にカラスやらが止まっているところを見ると、彼らによって目玉をついばまれた気の毒な人物がいるらしいことが推測される。これは良い時間つぶしになると判断したぼくは、そこにいるカラスの中で一際大きくて賢そうな者に群れの活動範囲を訊き出す。
言葉が通じないと言う穴をその頭の良いカラスは見事なボディランゲージで埋めて見せた。見立てたとおりの賢さである。そんじょそこいらの政治家やらと比べても十分に通用する能力の高さだ。もしもこのカラスが次の選挙で市議会議員にでも立候補したなら、ぼくは迷わず一票を投じることだろう。もっともぼくは選挙権という奴を持っていないので、それは適わぬ話であるのだが。
教えられたとおりの道を行く。なるほど先ほどのカラスの下っ端らしき連中が忙しそうに飛び回っている。自分たちの道のりを逆に進むぼくを怪訝そうに見ながらも、彼らは殊更何も仕掛けては来なかった。人間であるというだけで彼らカラスにしてみれば、ぼくのような青二才ですら大きな恐怖なのだろう。そのあたりの肝の大きさの違いが有象無象と先ほどのカラスとの格の差を表していると言える。
「お兄ちゃん、この子をどう思う?」そうぼくに訊いたのは年端もいかない少女達であった。「何のことだい?」勤めて優しげにそう答えたぼくに、少女達がまるで連行するように連れてきたのは、下を向いて縮こまっている為に周囲の同世代と比べても小さく見える女の子。
話を訊くところによると、彼女は体育のプールの時間において、目を開けて水の中に入ることができないのだそうだ。瞳が水を浴びるのが怖いようなのだが、なるほどそれならば目玉を摘出してしまえば何でもないじゃないかと思いついたらしい。そこまでならなかなか賢明だと言える話だが、取り出した目玉をプールサイドに置いてしまったのだから大変だ。案の定、両方をカラスに持っていかれて困っていると言う話。
「それでどうして、君たちはその子をとがめるように言うんだい?」などと訊いてみたところによると、視力がないという状況に耐えられなくなったその子は、持っていたタオルに描かれた猫のキャラクターの瞳を切り取って自分の目の中に入れてしまったらしい。なるほどそれは確かに、自分勝手な話かもしれない。少なくとも、自分の為に他者から略奪することを良しとしない小さな少女たちにとっては、その子の行いは絶対悪という他無いに違いない。
「あまり責めないであげようよ。」言って、ぼくは女の子に眼球を一つ手渡してやる。女の子は布でできた目玉をくりくりさせてこちらを見て、ありがとうと言った風にこくこく頷いた。布の目玉を引きずり出して無造作に地面に棄て、代わりに元の目玉を瞳へ突っ込む。不器用なのかその女の子はもたついてばかりいた。「グズねぇ。」
「違うみたいだよ。」ぼくは言う。「どうやらこの目玉はこの子には少し大きいようだ。」
そんなぁ、と力なく女の子は言う。周囲の子達は嬉しそうにしていたが、その心境と言えば悪は悪であって欲しいし、救われて欲しくないという正義感であろう。心の成長がうまくいっている証拠であり、良い兆候であると言える。もっとも、他人の子供がどんな風に育とうが知ったことではないし、ぼく自身まだまだ成熟しているとは言いがたいのだから、こんな風に言うのはいささか傲慢という奴であろう。
だが、何れにせよここまで関わってしまっているからには、縋るようにこちらに向くこの女の子を見捨てる訳には行かないだろう。ぼくは「ちょっと待っててね。」とそれだけ言って、スーパーの入り口に走る。「今は何匹カタツムリが見付かっていますか?」と適当な店員に尋ねる。「三匹ですが。」「じゃあ一匹で良いので今ください。」カタツムリの代償として十円玉を三津手放したぼくは、すぐに女の子のところに向かった。
「そのカタツムリをどうするの?」と気味悪そうに訊くのは目玉がちゃんと二つある女の子だ。ぼくは飛び出た目玉を強く引っ張って十センチほどに伸ばし、それから引き抜いて見せると、予想がついていただろうに、皆が仰け反って見せる。ぼくは視力をなくした女の子の顔の空洞に、カタツムリの目をそれぞれ突き立てた。
「見えるかい?」女の子に尋ねる。こんなのやだよぅとあごの辺りまで垂れ下がった細長い目で女の子は涙を流した。周りのまともな目をした女の子たちはどっと笑う。ぼくはその用済みになったカタツムリを地面に棄てた。女の子の一人が、即座にそれを踏み潰した。
女の子達に別れを告げて、スーパーに戻った頃にはカタツムリは六匹目が見付かっていた。先程踏み潰されたのをあわせての話である。手間賃含めて千三百五十円を支払い、カタツムリを受け取って家に帰る。ひたすらに長い階段を上る過程で、床に接着剤で貼り付けにされた男と再び顔をあわせた。
「何か、飯を買ってきてくれたのか。」と男は的外れなことを言う。「いいえ。あなたの世話をぼくがやると、姉さんが機嫌を損ねるんですよ。」とぼくは勤めて申し訳なさそうにそう言って、「食事なら、もうすぐに手に入るでしょう。それまでは、自分の口の中の肉でも食べれば良いのです。」アドバイスをしてあげた。男が何か言っていたが、階段を上りつかれて至極疲労したぼくにはこれ以上聞こえない。
「ただいま。帰ったよ姉さん。」ぼくがそう言って現れると、「おかえり。」呟いた姉さんは手のひらの上で小ぶりな眼球を二つ、弄んでいる。「ねぇ、あなたこれ食べる?」ぼくは首を横に降った。「そう。」姉さんは階段に向かって二つの眼球を投擲、ぼくが何か言う前に「言ったものは買ってきてくれた?」と訊かれたので、ぼくはスーパーの袋を姉さんに手渡す。姉さんはありがとうと笑って、ぼくは幸せになった。
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