4.距離が近すぎる先輩は、たぶん“好き”を隠す気がない
人は、慣れる生き物らしい。
たとえば最初は死ぬほど恥ずかしかった女装も、二回目、三回目ともなると、鏡を見た瞬間のダメージが少し減る。
いや、減るだけでゼロにはならないけど。
「……誰だよこれ」
放課後。駅前の小さな貸しスペースの鏡の前で、俺――朝比奈唯斗は、今日も“朝比奈唯”になっていた。
肩までの自然な黒髪ウィッグ。薄く入れられたメイク。やわらかい色のブラウスに、ひざ丈スカート。どう見ても、そこにいるのは普通の女の子だ。
どう見ても。
「何回見ても笑えるな」
背後から聞こえた声に、俺は鏡越しに睨みを返した。
「笑うな」
「いやだって、お前ほんと完成度高ぇんだもん」
壁に寄りかかってニヤニヤしているのは、瀬神美央だ。今日も今日とて元凶のくせに、まったく悪びれていない。
「完成度とかいらねぇんだよ。男としての尊厳返せ」
「安心しろ。元からそんな大層なもん持ってねぇだろ」
「喧嘩売ってんのか?」
「買ってほしいなら売るけど」
「買わねぇよ」
というか、女子同士の会話と思えないくらい治安が悪い。
「ほら、前髪ちょっと直す」
「自分でできる」
「お前がやると雑なんだよ」
美央がぐいっと俺の顎を持ち上げた。近い。近いって。
「じっとしてろ」
「……お前さ、近い」
「今さら何言ってんだ」
「いや近いけど」
「凛花先輩には言わねぇくせに」
「それとこれとは話が別だろ!」
思わず声が大きくなる。
美央は、はいはい、とでも言いたげな顔で前髪を整えると、一歩引いた。
「よし。今日も百点」
「その評価いらない」
「凛花先輩、絶対また惚れ直すぞ」
「惚れ直すな」
「無茶言うなよ。相手、あの先輩だぞ?」
それは、そうだ。
白瀬凛花先輩は、たぶん俺が想像していたよりずっと、諦めが悪い。
いや、悪いというか、強い。
一度ちゃんと振ったはずなのに、なぜか“好き”の勢いが落ちるどころか、じわじわ増している気がするのだ。
意味がわからない。
「ほら、行ってこいよ」
「他人事みたいに言うな」
「他人事だからな」
「お前が始めたんだろうが」
「でも面白いし」
「最悪だこいつ」
心底そう思いながら、待ち合わせ場所へ向かう。
今日の約束は、駅前のショッピングモール。休日ということもあって人通りが多い。これなら知り合いに会う可能性も低いし――いや、ゼロじゃないけど。
「……いた」
待ち合わせ場所のベンチの近くで、凛花先輩は立っていた。
黒のパンツスタイルに、ラフな白シャツ。シンプルなのにやたら目立つ。というか、通る女子高生がちらちら見てる。
そりゃそうだ。私服の凛花先輩、破壊力がおかしい。
そしてその人は、俺を見つけた瞬間、表情をやわらかくした。
「唯」
「こんにちは……」
「来てくれてよかった」
たった一言なのに、声が甘い。
昨日、学校で見たクールな先輩とは別人すぎるだろ。
「待たせてないですか?」
「全然。むしろ少し早く来すぎた」
「それ、待ってたってことじゃないですか」
「うん、待ってた」
即答だった。
やめろ。そういうの、サラッと言うな。心臓に悪い。
「……じゃ、じゃあ行きますか」
「うん」
並んで歩き出す。
その直後だった。
す、と凛花先輩の手が俺の手首に触れた。
「ひゃっ」
変な声が出た。
「……ごめん。嫌だった?」
凛花先輩が少しだけ眉を下げる。
まずい。この顔はまずい。こっちが悪いみたいになる。
「い、いや、嫌とかじゃなくてですね」
「じゃあいい?」
「よくはないです」
「そっか」
離れた。けど、離れ方が妙にしょんぼりしている。
くそ、罪悪感がすごい。
「……でも、人多いですし」
「うん」
「はぐれたら面倒なんで」
「うん」
「服の袖くらいなら……」
何を譲歩してるんだ俺は。
でも、言った瞬間、凛花先輩の目がわかりやすく輝いた。
「ほんとに?」
「……袖、だけですからね」
「わかった」
わかったと言いながら、しっかり俺の袖をつまむ指先がうれしそうだ。
可愛いなこの人、と思ってしまった自分を殴りたい。
「唯」
「はい」
「優しいね」
「違います」
「じゃあ甘い?」
「違います」
「私にだけ?」
「違います!!」
なんでそんな楽しそうなんだ。
絶対わかってて言ってるだろ。
ショッピングモールの中に入ると、凛花先輩は雑貨屋の前で足を止めた。
「こういうの好き?」
「雑貨ですか?」
「うん。可愛いの多い」
「まあ、見るのは嫌いじゃないですけど」
実際、嫌いじゃない。色合いとか小物とか、見てるだけでちょっと楽しいし。
いやだから何で男の俺がそんな感想持ってるんだよ。順応しすぎだろ。
「じゃあ、一緒に見よう」
店内に入る。
可愛いキーホルダー、ポーチ、文具、アクセサリー。見事に女子向けの商品ばかりだ。
俺が内心で微妙な顔をしていると、凛花先輩が小さな白い猫のキーホルダーを手に取った。
「これ、唯っぽい」
「どこがですか」
「なんとなく」
「雑すぎる」
「じゃあこっちかな」
次に手に取ったのは、黒猫のキーホルダーだった。
「それは美央っぽいですね」
「……ああ、たしかに」
想像したのか、凛花先輩が少しだけ笑う。
「似合うかも」
「首輪とか一番似合いそうです」
「怒られそう」
「たぶん噛みつかれます」
「それは怖いね」
ひそひそ話みたいにそんなことを言い合っていたら、店員さんがにこやかに声をかけてきた。
「お二人、仲いいですね。姉妹ですか?」
「ぶふっ」
危うく吹き出しかけた。
「……いえ」
凛花先輩が一瞬だけ俺を見る。
その横顔が、なぜか少し楽しそうだった。
「まだ、そういうのではないです」
何が“そういうの”なんだ。
店員さんは「あっ、ごめんなさい」と笑って去っていったが、去ったあとも問題は残った。
「……先輩」
「凛花」
「凛花先輩」
「なに?」
「今の言い方、誤解招きません?」
「招くかな」
「招きます」
「でも、嫌じゃなかったでしょ」
「……」
図星を突くな。
「ほら」
凛花先輩が、さっきの白猫キーホルダーを俺に見せる。
「これ、似合いそう」
「だから猫判定やめてください」
「可愛いからいいじゃん」
何ひとつよくない。
その後も、服を見たり、本屋に入ったり、フードコートをのぞいたりしたのだが、とにかく凛花先輩の距離感がおかしかった。
「唯、こっち」
袖をつままれる。
「唯、それ食べたいの?」
顔をのぞき込まれる。
「唯、ちょっとしゃがんで」
「何ですか――って近っ!?」
髪についたほこりを取るためだったらしいが、近い。近すぎる。鼻先が触れるかと思った。
心臓が何度止まりかけたかわからない。
しかも、本人に自覚がないのがたちが悪い。
「……どうしたの? 顔赤い」
「暑いんです!!」
「館内だけど」
「暑いものは暑いんです!」
「ふふ」
「笑わないでください」
「だって、唯ってほんと可愛い」
「可愛くないです!」
「ううん、可愛い」
断言するな。
そのままフードコートで飲み物を買い、二人で座る。少し落ち着くかと思ったら、全然そんなことはなかった。
「はい」
と、凛花先輩が自分のストローつきカップを差し出してきた。
「……何ですか」
「一口飲む?」
「なんでですか」
「美味しいから」
「いや意味わかんないです」
「唯にも知ってほしくて」
「その共有の仕方おかしいでしょ」
「だめ?」
「だめです」
「そっか」
またしょんぼりした。
その顔やめろと何度言えばわかるんだこの人は。
俺が慌てて自分のカップに口をつけると、凛花先輩がじっと見てくる。
「……何ですか」
「唯の飲み方、綺麗だなって」
「飲み方に綺麗とかあります!?」
「あるよ」
「ないです」
「ある」
「ないです」
小学生か。
そんな不毛な押し問答をしていると、唐突に聞き慣れた声がした。
「へぇ。だいぶ楽しそうじゃん」
「っ!?」
視界の端に、美央がいた。
なんでいるんだ。
私服姿でジュース片手に、こっちを見てニヤニヤしている。
「み、美央!?」
「おう、奇遇だな」
「絶対奇遇じゃないだろ」
「ひでぇな。友達が休日にモール来ちゃダメか?」
「その顔で言うな」
「どんな顔だよ」
凛花先輩が、美央に気づいて軽く手を上げた。
「美央」
「ちわっす、先輩」
「買い物?」
「そんなとこです」
「そう」
普通に会話するなこの二人。
いや仲いいの知ってるけど、今は困る。
ものすごく困る。
「唯」
「はいっ」
凛花先輩に名前を呼ばれて、変な声が出る。
「知り合い?」
「え、っと……」
一瞬、言葉に詰まる。
美央はニヤニヤしてるし、凛花先輩は普通に見てくるし、心臓はうるさいしで、頭が回らない。
その時、美央が助け舟を出した。
「前にちょっと会っただけっすよ。イベントで」
「ああ、そうなんだ」
「はいはい。そんで俺は今から用事あるんで、ごゆっくり」
「絶対今来たばっかだろ!」
「気のせいだろ」
美央はそれだけ言うと、俺の横を通り過ぎざま、極小の声で囁いた。
「あとで感想聞かせろ、“姉妹さん”」
「ぶっ殺す」
「物騒」
そして本当に去っていった。
くっそ、あいつ、あとで絶対文句言う。
「……仲いいんだね」
ぽつりと凛花先輩が言う。
「え?」
「今の子と」
「まあ、腐れ縁というか」
「そっか」
ストローをくるくる回しながら、凛花先輩が少しだけ視線を落とした。
「……ちょっと羨ましい」
「何がですか」
「唯があんなふうに、自然に話してるの」
「……」
意外すぎて、言葉に詰まる。
「私の前だと、唯すぐ緊張するから」
「そ、それは……」
原因あなたです、とは言えない。
「もっと、気楽に話してほしい」
凛花先輩がこちらを見る。
その目はまっすぐで、でもどこか少しだけ不安そうだった。
「私、そんなに話しかけにくい?」
「……そんなことないです」
それだけは本当だ。
話しかけにくいんじゃない。
近すぎて、心臓が耐えないだけで。
「ならよかった」
ほっとしたように笑う。
その笑顔を見た瞬間、俺はふっと力が抜けた。
「……凛花先輩」
「うん?」
「十分、変です」
「え」
「距離近いし、すぐ口説くし、すぐ可愛いって言うし」
「……口説いてるつもりは、ちゃんとあるよ」
「あるんですか!?」
自覚あったのかよ!
思わず声が裏返ると、凛花先輩はくすっと笑った。
「だって、好きな子にはちゃんと伝えたいし」
「……っ」
無理無理無理。
真正面から来るな。そういうのは危険だ。
「でも、嫌がることはしたくない」
続く声は、思ったよりやさしかった。
「だから、嫌ならちゃんと言って」
「……」
「その代わり、嫌じゃないなら」
ほんの少しだけ身を乗り出して。
「諦めない」
だめだ、この人。
本当に諦める気がない。
そしてその言葉に、少しだけうれしいと思ってしまった自分が、一番だめだ。
「……知ってます」
「うん」
「知ってるから困ってるんです」
「困らせたいわけじゃないんだけどな」
「だいぶ困ってます」
「じゃあ、お詫びにこれあげる」
そう言って、凛花先輩はさっきの白猫キーホルダーを差し出してきた。
「買ってたんですか!?」
「うん。似合うから」
「だから猫判定やめてください」
「じゃあ、お守り」
「何のお守りですか」
「私とはぐれないお守り」
「もう意味わかんないです」
でも、受け取ったキーホルダーは小さくて、軽くて、少しだけあたたかかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
凛花先輩がうれしそうに笑う。
その顔を見ていたら、なんだかもう、何を言っても無駄な気がしてくる。
たぶんこの人は、これからもこうやって距離を詰めてくるんだろう。
しかも悪気なく、まっすぐに。
「唯」
「はい」
「次は、手」
「だめです」
「即答」
「当たり前です」
「じゃあ、その次」
「段階踏めばいけるみたいな言い方やめてください」
「いけるようになるの?」
「なりません!」
「そっか。残念」
全然残念そうじゃない。
むしろちょっと楽しそうだ。
俺はため息をつきながら、白猫のキーホルダーを握る。
……全然バレる気配はない。
それは本当にありがたい。ありがたいんだけど。
代わりに別の意味で、心臓がもたない気がする。
たぶん一番の問題は、秘密がバレることじゃない。
この人の距離感に、俺が慣れてしまいそうなことだ。




