表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/13

13話

 イベント会場の空気は、まだ熱を残していた。

 乾きはじめた絵具の匂いと、ライトの熱が混ざり、

 床に落ちた影までもが作品の一部のように揺れている。

 お蜜は、囲まれるようにして参加者たちと話していた。

 話題はもちろん「線」だった。


「背中の二層線、あれ本当に生きてたよね」

「金の乗り方が異常だった。どんなキャンバス使ったらあんな動くの?」

「みぞおちの落とし方、あれは計算なのか、偶然なのか……」


 次々と投げられる言葉に、お蜜は頷き、時に短く返しながらも、興奮の芯が抜けないでいた。

 自分の作品を語れる場は嬉しい。だが、今日のそれはただの技法や筆致以上のものを抱えていた。


 ──アイビー。

 あの身体が見せた揺れ。

 あの線が呼吸で変わる瞬間。


 その全部が、胸の奥にまだ熱く残っている。


「で、キャンバスの子はどこ行ったの?」

 誰かがさらりと言った。


「あ、ちょっと休ませてあげてるだけ……」

 お蜜は答えながら、ふと気づく。

 あれ? 本当にどこ行ったんだろう。


 さっきまで木台のそばにいたはず。コーヒーを飲ませに下がらせたわけでもない。

 視線を巡らせても、黒髪ポニーテールはどこにもない。


(……アイビー?)


 ざわりと胸の内側が波打つ。

 その時、斜め後ろから柔らかい声が落ちた。


「探してるの、あの子?」


 振り向くと、あの“例のプリンター”がいた。

 アイビーに向かって「断る理由がすぐに出ないなら、

 描かせてあげれば?」と軽々しく言っていた女性だ。


「あなた……何か知ってるの?」

 お蜜が問うと、彼女はまるで当たり前のことを言うように肩をすくめた。


「リッキーが攫っていったわよ?」


「……は?」

 お蜜の思考が一瞬止まる。


「だから、あの子。あなたのキャンバス。リッキーに連れられて外に出たの。見てなかったの?」

 まるで自分の不手際を指摘されるような口調だった。


「ちょ、ちょっと待って。どうしてリッキーが……」


 お蜜の言葉を遮るように、女性は淡々と、しかし棘のある声で続けた。


「“渾身の出来”の作品を放置するからよ。

 完成直後に作品をそばに置かず、参加者と談義に夢中になるなんて……馬鹿じゃないの?」


 お蜜の胸に冷水を浴びせるような言葉だった。


「だ、だって……みんなが話したいって言うから……」

「作品を放置して自慢して回るくらいなら、最初から描かなくていいのよ。

 キャンバスは物じゃないわ。出来のいい線ほど不安定なの。わかってる?」


 痛い。全部が正しい。言い返せない。


 作品とキャンバスを見守るのはプリンターの責任。

 それなのに自分は、作品の評価に心を奪われていた。


 女性プリンターはさらに続ける。

「聞きたいなら教えてあげる。あの子なら、イベント御用達のコーヒーショップにいるわよ。

 みんなそこに流れるの、わかってるでしょう?」


「……っ」

 お蜜の足が動き出す。

 返事をする余裕もなく、ただ走るように会場を飛び出した。


 地下特有の湿った空気の中、階段を駆け上がり、外の夜風に触れた瞬間、胸が痛んだ。

(アイビー……ごめん)

 言葉にならない気持ちが喉に絡む。


 角を曲がるたび、不安が膨らんでいく。

 リッキーは悪い人じゃない。でも“描ける身体”を前にした時、迷いなく動くタイプだ。

 何より、アイビーはまだ経験が浅い。

 線を見せる意味だって、十分に理解していない。


 走りながら、昼に描いた線の感触が蘇る。

 アイビーの震え。呼吸。揺れ。

 あれを放置したまま他人に見せたのだとしたら──


(いやだ)


 胸の中で短く叫び、それと同時にコーヒーショップの看板が視界に飛び込んできた。


 ガラス越しに見える店内。

 夕方の客たちが穏やかに席を埋め、ライトが柔らかな金色をつくっている。


 そして──中央近くの席に、いた。


 アイビーが、笑っていた。

 ブランケットを膝にかけ、緩んだ裾からうっすら覗く金のラインが、店内の光を吸い込んで揺れている。


 向かいにはリッキー。

 コーヒーを片手に、楽しげに何か話している。

 周囲の客はちらちらとアイビーの脇腹の線を見て、店員までも視線が吸い寄せられている。


 アイビーは、気づいていない。

 自分が“作品の余韻”をまとったまま座っていることに。

 そしてそれがどれほど周囲の視線を奪うかにも。


 お蜜の胸に、複雑な感情が渦を巻いた。


 安心、嫉妬、後悔、焦り。

 全部が混ざって苦しくなる。


(……取り戻さなきゃ)


 そう思った瞬間、ドアに手をかけるお蜜の指が小さく震えた。


 ◇


 アイビーがブランケットを膝にかけて座った瞬間、

 リッキーはコーヒーの湯気越しに彼女の横顔を盗み見た。

 

 線の余韻がまだ肌の下で揺れているように見え、

 そのわずかな金の光がブランケットの隙間からふわりと漏れた。

 

 あの線を描かれたキャンバス特有の、まだ“作品の音”が残っている体の動き。

 プリンターなら誰だって喉が鳴る瞬間だ。


 「寒くねぇ?」と声をかけると、

 アイビーはブランケットをぎゅっと握りながら「大丈夫。でも……ちょっと落ち着かない」と笑う。

 リッキーはその“落ち着かなさ”こそが美味だと思っていた。

 

 線に気づいているけれど隠しきれない、素人キャンバス特有の揺れ。

 それを無自覚に撒き散らしている彼女は、危うくて、惹かれて、見ているだけで線が浮かぶ。


 「そりゃ落ち着かねぇよ。お前、まだ作品のままだもん」と軽口を叩くと、アイビーは目を丸くした。

 

 リッキーは続ける。

 「店員、見てたぞ。客もちらちら。そら見るよ。今日の線、反則だったしな。」

 

 その言葉に困ったように笑いながら、アイビーはブランケットの端を引き寄せるが、

 完全には隠れない。

 むしろピンと引き上げた背筋のラインが強調され、リッキーはまた視線をそらせなくなる。


「隠さなくてもいいんだぜ? もったいねぇし」とわざと軽い声で言えば、

「そんなこと言わないでよ……」と小さく返される。

 だがその“拒否の言葉”は拒絶ではなく、むしろ誘いに近い温度を持っていた。


「なぁ、アイビー。今日の線、わかってるか? お前の身体じゃなきゃ出なかった線だぞ。」

 そう告げると、彼女は頬を染めながら視線を落とした。


「……そんなこと言われたら、変に意識しちゃうよ……」

 その声の柔らかさに、リッキーの胸の奥で何かがゆっくりと熱を持つ。


「意識してくれた方が嬉しいけどな。俺は」と言うと、

 アイビーはカップの縁を指でくるくるとなぞりながら、

「ねぇ……そんなに、よかった? 今日の線」と小さく聞いてきた。

 リッキーは笑う。自分が狙っていた“その質問”がようやく出た。


「よかったどころじゃねぇ。今日の参加者の中でダントツだった。

 あれは全員描きたがる線だぞ。俺だって羨ましかったくらいだ。」

 そう告げても、重くならないように笑いを混ぜる。

 

「お蜜には言うなよ。あいつすぐ嫉妬するから。」するとアイビーは吹き出して、

「なんかわかる気がする」と肩を揺らした。


(よし、ここまでは順調だ)


「お前さ、キャンバス向いてるよ」と言うと、アイビーは一瞬だけ固まり、

「……私が?」と戸惑う声を漏らした。


 リッキーはゆっくり頷き、

「そう。身体が線を呼んでんだよ。こういうの向き不向きあるんだ。

 お前は“揺れ方”がいい。」と告げる。

 アイビーは驚いたように息を吸い、「そんなの……初めて言われた」と呟いた。


「普通言われねぇよ。でも俺は見りゃわかる。今日のお前は、まだ入口だ。

 腹の動きも、呼吸も、背中の張りも、もっといろいろ出せる。だから……」そこまで言って、

 わざと少しだけ声を落とす。「続き、気になんだろ?」


 アイビーの指がぴたりと止まる。「……その“続き”って……」と慎重に声を出す。

 リッキーは彼女の脇腹にそっと視線を落とした。

 ブランケットの隙間から、金の線がほんの少し覗く。

 その一瞬の光だけで、身体の温度が変わったのがわかる。


「どんな線が出るか。どんな動きが描けるか。

 “お前自身がどう揺れるか”を知りたくないかって話だよ。」


 その言葉が落ちたあと、アイビーはしばし黙った。

 だが沈黙の質は拒絶ではなく、迷いでもなく、

 ただ“自分の胸の奥を確かめている”ような穏やかな揺れだった。

 やがてアイビーは、ほんのり頬を熱くしながらつぶやいた。


 「……ちょっとだけ……興味あるかも」


 その一言で、リッキーは確信する。

(よし、落ちた)


 「なら、さ……」と口を開きかけたところで、店のドアが強く押し開けられた。

 空気が変わる。視線を向けるまでもなく、来たのが誰かすぐにわかった。

 あの独特の“線を読む気配”をまとった足音。


 ──お蜜だった。

 よく聞かれるんだよな。「キャンバスって、その時の気分で描き手を変えたりするんですか?」って。

まあ、結論から言えば──ある。普通にある。


 そもそもこの界隈は“固定ペアで一生添い遂げます”みたいな結びつきは求めてねぇ。

恋人とか夫婦みたいな扱いを想像しちまう読者がたまにいるけど、そういうのとは別物なんだ。

線は生き物みたいなもんで、出る日と出ない日がある。相性も揺れるし、気分や体調でも変わる。

だからキャンバスが「今日はこの人の線が欲しい」って思うのは自然な話だし、

逆にプリンター側も「今日のあの身体は描けねぇ」って判断することが普通にある。


 ただな、これを“軽い関係”とか“節操がない”なんて思われると困るんだが、実際のところはもっと繊細だ。

キャンバスがプリンターを変えるときってのは、気まぐれよりも“今の自分が出す線を、

この人なら拾える”って判断が大きい。つまり相性は流動的で、誰が上とか下じゃない。

線の向きと、人間の向きが、その日たまたま合うかどうか。


 プリンターとキャンバスの関係ってのは、恋愛よりずっと気まぐれで、ずっと正直なんだよ。

嘘がつけない。身体が嘘をつけないからな。


 次に、「毎回あちこちの相手とイベントに参加するのか」って質問。

 これも答えは──人による。

 

 常に固定のプリンターと組むキャンバスもいるし、毎回違う相手に身を預けるキャンバスもいる。

どっちが正しいとかはない。

ただ一つ言えるのは、“線の幅を広げたいキャンバス”ほど、多くのプリンターに触れてみたほうが経験値は伸びる。


 プリンター側も同じで、一人の身体しか知らないと線が狭くなる。

色も揺れも、身体の張り方も、個体差がある。

だから複数のキャンバスと関わっていくのは、ある意味で“研究”みたいなもんだ。


 勘違いしちゃいけねぇのは、このやり取りは決して交遊関係とか色恋じゃないってことだ。

身体を素材にしているように見えても、目的は常に“線の可能性”にある。

 

 もちろん、そこから恋愛に発展するバカもいるけどな。──誰とは言わねぇよ。


 さて、「プリンター同士で勝手に描く順番を決めたりすることはあるのか」って質問。

 これについては──表では絶対にやらない。裏では普通にやってる。

 

 この業界、見せかけの自由さとは裏腹に、静かな縄張り意識がある。

表面上は穏やかに見えても、「あのキャンバスは今日俺が見る」「いや、先週描いたのは俺だ」みたいな駆け引きが裏でちょいちょい起きる。


 ただし、絶対にやっちゃいけないことが一つある。それはキャンバス本人の意思を無視することだ。

順番を決めるのはあくまでプリンター同士の調整であって、

キャンバスが「あなたに描かれたくない」と思えばすべて無効。


 この界隈、表向きのルールは緩いくせに、こういう線引きは異常に厳しいんだ。

信頼がすべてだからな。


 最後に一つだけ、覚えておくといいことがある。


 この関係はな、“奪い合う”ように見えて、実は“譲り合う”んだよ。線が綺麗に出る相手を尊重する。

自分が描くより、あいつが描いたほうが線が光るなら、その場は潔く譲る。そういう暗黙の礼儀がある。


 だから、キャンバスがどこへ行くか、誰を選ぶかを無理やり引き止めるような真似はしない。

どれだけ魅力的な身体でも、線は“支配”から生まれねぇ。自由に揺れた時にだけ、美しい線が出る。


 まぁつまり──だ。


 キャンバスもプリンターも、思ってるほど固定されてないし、縛られてもいない。

 その日の線が、その日の相手を決めるだけ。

 だから、他人から見りゃ気まぐれに見えるかもしれないけど、実態はもっと正直で、

 もっと純粋な関係なんだよ。


 ……ん?

 「じゃあアイビーは?」って顔したな?

 さぁ、どうだろな。あいつの線はまだ“入口”だ。どこへ行くかなんて、俺にもわからん。

 ただ一つ言えるのは──あの日の線は、俺が欲しがる理由がちゃんとあったってだけだよ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ