13話
イベント会場の空気は、まだ熱を残していた。
乾きはじめた絵具の匂いと、ライトの熱が混ざり、
床に落ちた影までもが作品の一部のように揺れている。
お蜜は、囲まれるようにして参加者たちと話していた。
話題はもちろん「線」だった。
「背中の二層線、あれ本当に生きてたよね」
「金の乗り方が異常だった。どんなキャンバス使ったらあんな動くの?」
「みぞおちの落とし方、あれは計算なのか、偶然なのか……」
次々と投げられる言葉に、お蜜は頷き、時に短く返しながらも、興奮の芯が抜けないでいた。
自分の作品を語れる場は嬉しい。だが、今日のそれはただの技法や筆致以上のものを抱えていた。
──アイビー。
あの身体が見せた揺れ。
あの線が呼吸で変わる瞬間。
その全部が、胸の奥にまだ熱く残っている。
「で、キャンバスの子はどこ行ったの?」
誰かがさらりと言った。
「あ、ちょっと休ませてあげてるだけ……」
お蜜は答えながら、ふと気づく。
あれ? 本当にどこ行ったんだろう。
さっきまで木台のそばにいたはず。コーヒーを飲ませに下がらせたわけでもない。
視線を巡らせても、黒髪ポニーテールはどこにもない。
(……アイビー?)
ざわりと胸の内側が波打つ。
その時、斜め後ろから柔らかい声が落ちた。
「探してるの、あの子?」
振り向くと、あの“例のプリンター”がいた。
アイビーに向かって「断る理由がすぐに出ないなら、
描かせてあげれば?」と軽々しく言っていた女性だ。
「あなた……何か知ってるの?」
お蜜が問うと、彼女はまるで当たり前のことを言うように肩をすくめた。
「リッキーが攫っていったわよ?」
「……は?」
お蜜の思考が一瞬止まる。
「だから、あの子。あなたのキャンバス。リッキーに連れられて外に出たの。見てなかったの?」
まるで自分の不手際を指摘されるような口調だった。
「ちょ、ちょっと待って。どうしてリッキーが……」
お蜜の言葉を遮るように、女性は淡々と、しかし棘のある声で続けた。
「“渾身の出来”の作品を放置するからよ。
完成直後に作品をそばに置かず、参加者と談義に夢中になるなんて……馬鹿じゃないの?」
お蜜の胸に冷水を浴びせるような言葉だった。
「だ、だって……みんなが話したいって言うから……」
「作品を放置して自慢して回るくらいなら、最初から描かなくていいのよ。
キャンバスは物じゃないわ。出来のいい線ほど不安定なの。わかってる?」
痛い。全部が正しい。言い返せない。
作品とキャンバスを見守るのはプリンターの責任。
それなのに自分は、作品の評価に心を奪われていた。
女性プリンターはさらに続ける。
「聞きたいなら教えてあげる。あの子なら、イベント御用達のコーヒーショップにいるわよ。
みんなそこに流れるの、わかってるでしょう?」
「……っ」
お蜜の足が動き出す。
返事をする余裕もなく、ただ走るように会場を飛び出した。
地下特有の湿った空気の中、階段を駆け上がり、外の夜風に触れた瞬間、胸が痛んだ。
(アイビー……ごめん)
言葉にならない気持ちが喉に絡む。
角を曲がるたび、不安が膨らんでいく。
リッキーは悪い人じゃない。でも“描ける身体”を前にした時、迷いなく動くタイプだ。
何より、アイビーはまだ経験が浅い。
線を見せる意味だって、十分に理解していない。
走りながら、昼に描いた線の感触が蘇る。
アイビーの震え。呼吸。揺れ。
あれを放置したまま他人に見せたのだとしたら──
(いやだ)
胸の中で短く叫び、それと同時にコーヒーショップの看板が視界に飛び込んできた。
ガラス越しに見える店内。
夕方の客たちが穏やかに席を埋め、ライトが柔らかな金色をつくっている。
そして──中央近くの席に、いた。
アイビーが、笑っていた。
ブランケットを膝にかけ、緩んだ裾からうっすら覗く金のラインが、店内の光を吸い込んで揺れている。
向かいにはリッキー。
コーヒーを片手に、楽しげに何か話している。
周囲の客はちらちらとアイビーの脇腹の線を見て、店員までも視線が吸い寄せられている。
アイビーは、気づいていない。
自分が“作品の余韻”をまとったまま座っていることに。
そしてそれがどれほど周囲の視線を奪うかにも。
お蜜の胸に、複雑な感情が渦を巻いた。
安心、嫉妬、後悔、焦り。
全部が混ざって苦しくなる。
(……取り戻さなきゃ)
そう思った瞬間、ドアに手をかけるお蜜の指が小さく震えた。
◇
アイビーがブランケットを膝にかけて座った瞬間、
リッキーはコーヒーの湯気越しに彼女の横顔を盗み見た。
線の余韻がまだ肌の下で揺れているように見え、
そのわずかな金の光がブランケットの隙間からふわりと漏れた。
あの線を描かれたキャンバス特有の、まだ“作品の音”が残っている体の動き。
プリンターなら誰だって喉が鳴る瞬間だ。
「寒くねぇ?」と声をかけると、
アイビーはブランケットをぎゅっと握りながら「大丈夫。でも……ちょっと落ち着かない」と笑う。
リッキーはその“落ち着かなさ”こそが美味だと思っていた。
線に気づいているけれど隠しきれない、素人キャンバス特有の揺れ。
それを無自覚に撒き散らしている彼女は、危うくて、惹かれて、見ているだけで線が浮かぶ。
「そりゃ落ち着かねぇよ。お前、まだ作品のままだもん」と軽口を叩くと、アイビーは目を丸くした。
リッキーは続ける。
「店員、見てたぞ。客もちらちら。そら見るよ。今日の線、反則だったしな。」
その言葉に困ったように笑いながら、アイビーはブランケットの端を引き寄せるが、
完全には隠れない。
むしろピンと引き上げた背筋のラインが強調され、リッキーはまた視線をそらせなくなる。
「隠さなくてもいいんだぜ? もったいねぇし」とわざと軽い声で言えば、
「そんなこと言わないでよ……」と小さく返される。
だがその“拒否の言葉”は拒絶ではなく、むしろ誘いに近い温度を持っていた。
「なぁ、アイビー。今日の線、わかってるか? お前の身体じゃなきゃ出なかった線だぞ。」
そう告げると、彼女は頬を染めながら視線を落とした。
「……そんなこと言われたら、変に意識しちゃうよ……」
その声の柔らかさに、リッキーの胸の奥で何かがゆっくりと熱を持つ。
「意識してくれた方が嬉しいけどな。俺は」と言うと、
アイビーはカップの縁を指でくるくるとなぞりながら、
「ねぇ……そんなに、よかった? 今日の線」と小さく聞いてきた。
リッキーは笑う。自分が狙っていた“その質問”がようやく出た。
「よかったどころじゃねぇ。今日の参加者の中でダントツだった。
あれは全員描きたがる線だぞ。俺だって羨ましかったくらいだ。」
そう告げても、重くならないように笑いを混ぜる。
「お蜜には言うなよ。あいつすぐ嫉妬するから。」するとアイビーは吹き出して、
「なんかわかる気がする」と肩を揺らした。
(よし、ここまでは順調だ)
「お前さ、キャンバス向いてるよ」と言うと、アイビーは一瞬だけ固まり、
「……私が?」と戸惑う声を漏らした。
リッキーはゆっくり頷き、
「そう。身体が線を呼んでんだよ。こういうの向き不向きあるんだ。
お前は“揺れ方”がいい。」と告げる。
アイビーは驚いたように息を吸い、「そんなの……初めて言われた」と呟いた。
「普通言われねぇよ。でも俺は見りゃわかる。今日のお前は、まだ入口だ。
腹の動きも、呼吸も、背中の張りも、もっといろいろ出せる。だから……」そこまで言って、
わざと少しだけ声を落とす。「続き、気になんだろ?」
アイビーの指がぴたりと止まる。「……その“続き”って……」と慎重に声を出す。
リッキーは彼女の脇腹にそっと視線を落とした。
ブランケットの隙間から、金の線がほんの少し覗く。
その一瞬の光だけで、身体の温度が変わったのがわかる。
「どんな線が出るか。どんな動きが描けるか。
“お前自身がどう揺れるか”を知りたくないかって話だよ。」
その言葉が落ちたあと、アイビーはしばし黙った。
だが沈黙の質は拒絶ではなく、迷いでもなく、
ただ“自分の胸の奥を確かめている”ような穏やかな揺れだった。
やがてアイビーは、ほんのり頬を熱くしながらつぶやいた。
「……ちょっとだけ……興味あるかも」
その一言で、リッキーは確信する。
(よし、落ちた)
「なら、さ……」と口を開きかけたところで、店のドアが強く押し開けられた。
空気が変わる。視線を向けるまでもなく、来たのが誰かすぐにわかった。
あの独特の“線を読む気配”をまとった足音。
──お蜜だった。
よく聞かれるんだよな。「キャンバスって、その時の気分で描き手を変えたりするんですか?」って。
まあ、結論から言えば──ある。普通にある。
そもそもこの界隈は“固定ペアで一生添い遂げます”みたいな結びつきは求めてねぇ。
恋人とか夫婦みたいな扱いを想像しちまう読者がたまにいるけど、そういうのとは別物なんだ。
線は生き物みたいなもんで、出る日と出ない日がある。相性も揺れるし、気分や体調でも変わる。
だからキャンバスが「今日はこの人の線が欲しい」って思うのは自然な話だし、
逆にプリンター側も「今日のあの身体は描けねぇ」って判断することが普通にある。
ただな、これを“軽い関係”とか“節操がない”なんて思われると困るんだが、実際のところはもっと繊細だ。
キャンバスがプリンターを変えるときってのは、気まぐれよりも“今の自分が出す線を、
この人なら拾える”って判断が大きい。つまり相性は流動的で、誰が上とか下じゃない。
線の向きと、人間の向きが、その日たまたま合うかどうか。
プリンターとキャンバスの関係ってのは、恋愛よりずっと気まぐれで、ずっと正直なんだよ。
嘘がつけない。身体が嘘をつけないからな。
次に、「毎回あちこちの相手とイベントに参加するのか」って質問。
これも答えは──人による。
常に固定のプリンターと組むキャンバスもいるし、毎回違う相手に身を預けるキャンバスもいる。
どっちが正しいとかはない。
ただ一つ言えるのは、“線の幅を広げたいキャンバス”ほど、多くのプリンターに触れてみたほうが経験値は伸びる。
プリンター側も同じで、一人の身体しか知らないと線が狭くなる。
色も揺れも、身体の張り方も、個体差がある。
だから複数のキャンバスと関わっていくのは、ある意味で“研究”みたいなもんだ。
勘違いしちゃいけねぇのは、このやり取りは決して交遊関係とか色恋じゃないってことだ。
身体を素材にしているように見えても、目的は常に“線の可能性”にある。
もちろん、そこから恋愛に発展するバカもいるけどな。──誰とは言わねぇよ。
さて、「プリンター同士で勝手に描く順番を決めたりすることはあるのか」って質問。
これについては──表では絶対にやらない。裏では普通にやってる。
この業界、見せかけの自由さとは裏腹に、静かな縄張り意識がある。
表面上は穏やかに見えても、「あのキャンバスは今日俺が見る」「いや、先週描いたのは俺だ」みたいな駆け引きが裏でちょいちょい起きる。
ただし、絶対にやっちゃいけないことが一つある。それはキャンバス本人の意思を無視することだ。
順番を決めるのはあくまでプリンター同士の調整であって、
キャンバスが「あなたに描かれたくない」と思えばすべて無効。
この界隈、表向きのルールは緩いくせに、こういう線引きは異常に厳しいんだ。
信頼がすべてだからな。
最後に一つだけ、覚えておくといいことがある。
この関係はな、“奪い合う”ように見えて、実は“譲り合う”んだよ。線が綺麗に出る相手を尊重する。
自分が描くより、あいつが描いたほうが線が光るなら、その場は潔く譲る。そういう暗黙の礼儀がある。
だから、キャンバスがどこへ行くか、誰を選ぶかを無理やり引き止めるような真似はしない。
どれだけ魅力的な身体でも、線は“支配”から生まれねぇ。自由に揺れた時にだけ、美しい線が出る。
まぁつまり──だ。
キャンバスもプリンターも、思ってるほど固定されてないし、縛られてもいない。
その日の線が、その日の相手を決めるだけ。
だから、他人から見りゃ気まぐれに見えるかもしれないけど、実態はもっと正直で、
もっと純粋な関係なんだよ。
……ん?
「じゃあアイビーは?」って顔したな?
さぁ、どうだろな。あいつの線はまだ“入口”だ。どこへ行くかなんて、俺にもわからん。
ただ一つ言えるのは──あの日の線は、俺が欲しがる理由がちゃんとあったってだけだよ。




