『完成させない幸せ』
この物語には、はっきりした答えは出てきません。
愛情とは何か。
幸せとは何か。
完成させるべきものなのか。
それを断言することを、この物語はしません。
ただ、
幸せすぎると、急に生きるのが怖くなること。
信じていないわけじゃないのに、不安が消えないこと。
それでも誰かのそばにいたいと思ってしまうこと。
そういう感情が、
どこかに確かに存在する、ということだけを書いています。
もし、読みながら胸の奥が少しだけざわついたなら、
それはきっと、あなたの中にある「未完成の幸せ」が
静かに触れてきただけです。
どうか、正解を探さずに読んでください。
幸せすぎると、急に生きるのが怖くなる。
ぼくはそれを、恋の副作用だと思っていた。笑って、手を伸ばして、指先が触れた瞬間に、世界が「ここにある」と確かめられるほど、胸が満ちる。満ちるほど、溢れたぶんだけ失う未来が想像できてしまう。
怖いのは、壊れることじゃない。壊れる前に、ぼくが勝手に怯えて、いまを台無しにしてしまうことだ。
夜が降りるころ、街の端にある小さな駅のホームで、きみは缶の温かい飲み物を片手に笑った。
「ねえ。怖い顔してる」
見透かすみたいに言われて、ぼくは肩をすくめた。
「してないよ」
「してる。……でも、そういう日もあるよね」
きみはそう言って、言い訳を許すみたいに、ぼくの袖をそっと引いた。
そのとき、ホームの柱の影が、ふっと柔らかく揺れた。
広告のライトが切り替わったのかと思った。でも違う。影の端が、紙をめくるみたいにめくれて、奥に暗い穴が生まれた。穴の奥から、温い風が吹いた。甘い草の匂いと、遠い海の匂い。ありえないはずの匂いが、ありえないほど懐かしかった。
「……見える?」
ぼくが訊くと、きみは目を細めて、影の穴を見つめた。
「うん。なに、あれ」
「行ってみる?」
言ってから、ぼくは驚いた。自分で言ったのに、自分の声が他人みたいだった。怖いのに。怖いからこそ、確かめたくなったのかもしれない。いまの幸せが本物かどうかを。
きみは少しだけ迷って、それから、ぼくの手を握った。
「一緒なら」
その言葉が、ぼくの命綱みたいに胸の奥に結ばれた。
影の穴をくぐると、そこは世界の裏側だった。
裏側、と言っても、暗い洞窟や地底都市ではない。空は淡い薄青で、雲は綿菓子みたいにちぎれて漂い、草は光を含んで柔らかく波打っていた。街は、現実の街の「忘れもの」でできているようだった。壊れた時計塔の針だけが高く突き出し、古いベンチが花壇の真ん中に置かれ、誰もいない噴水からは、きらきらした音だけが流れ落ちる。
音だけの水。触れると、冷たさではなく、記憶の温度が指に残った。
「ここ、あったかい」
きみが呟く。
「不思議だね。裏なのに」
ぼくが言うと、どこからか、鈴のような小さな音がした。鳥の鳴き声にも似ているし、風鈴にも似ている。音は、耳ではなく心に届く。
その音に導かれるように、白い灯りが道を作った。
ぼくたちは歩いた。裏世界の道は、目的地が先に決まっていて、足がそれに追いつくみたいだった。
途中、壊れた観覧車の骨組みが空に刺さっている場所を通った。回らないはずの観覧車が、風もないのに、ゆっくり一周だけ回る。ゴンドラの一つだけが光っていて、中には誰かの笑い声が詰まっているみたいだった。
「誰の笑い声だろう」
ぼくが言うと、きみは耳を澄ませた。
「知らない人。でも……大事な人を思い出してる声」
声って、表情なんだな、とぼくは思った。笑い声の中に、その人の時間が折り畳まれている。
さらに先へ行くと、畑のような場所があった。土の代わりに、薄いガラスの粒が敷き詰められている。粒の一つひとつに、ちいさな景色が映っていた。誕生日ケーキのろうそく、夏の海、雨上がりの道路、夜更かしして食べたカップ麺。平凡で、だからこそ強い景色。
畑の真ん中で、背の低い誰かがしゃがみ込み、粒を丁寧に拾っては、ポケットに入れていた。背中が丸くて、帽子が大きい。まるで絵本の登場人物みたい。
「こんにちは」
きみが声をかけると、その人はゆっくり振り向いた。
顔は、うまく思い出せない。見た瞬間、ぼくの脳が「大事じゃない」と判断して、輪郭をぼかしてしまう感じ。代わりに、目だけがはっきりしている。優しい茶色。
「ようこそ、旅人さん」
その人は微笑んだ。
「ここは、記憶の畑。落ちた幸福を拾って、芽が出るように整える場所」
「芽?」
ぼくが訊くと、その人はガラスの粒を一つ差し出した。
粒の中には、小さな駅のホームが映っていた。たぶん、今日じゃない。もっと昔。制服姿のぼくが、誰かに手を振っている。胸の奥がきゅっと縮む。懐かしいのに、詳細が思い出せない。
「この粒は、まだ芽が出る」
その人は言った。
「芽が出るっていうのはね。幸せが、未来で誰かを支える形に変わること。いまはただの思い出でも、いつか命綱になる。たとえば、転びそうな夜に、引っ張ってくれる」
きみが不思議そうに首を傾げた。
「命綱って、ほんとに命を助けるの?」
「助けるよ」
その人は断言した。静かに、でも揺れない声で。
「泣きながら歩く人が、ぎりぎりの朝に、ふと笑えたら。もう一歩だけ進めたら。それは命がつながったってことだろう?」
ぼくは言葉を失った。大げさな魔法じゃない。ほんの少しの一歩。その一歩が、命綱。
「でも」
ぼくは恐る恐る言った。
「幸せが残るなら、ずっと眺めていたくなる。……いまの幸せにしがみついたら、どうなる?」
その人は少しだけ眉を下げた。
「しがみつくと、糸になる。美しい糸。強い糸。だけど、絡まりやすい」
その人は指先で、空をなぞった。すると、畑の上に薄い糸が見えた。透明な糸。無数に張り巡らされている。
「ほら。これ、全部、誰かの『失いたくない』だ」
糸は光に照らされて、蜘蛛の巣のようにきらめいた。美しくて、怖い。
きみがぽつりと言った。
「失いたくないって、悪いことじゃないのにね」
「悪くない」
その人は頷いた。
「だから厄介なんだ。愛情と恐れは、同じ素材でできてる。片方だけを選ぶと、もう片方が暴れる」
その言葉が、ぼくの胸に落ちた。素材が同じ。だから、分けられない。
「旅人さん」
その人は、ぼくたちに一つずつガラスの粒を渡した。
「裏世界では、道に迷いそうになったら、この粒を握るといい。握った人の手の温度で、粒は少しだけ光る。光は、行き先じゃなくて『戻る場所』を教える」
「戻る場所?」
「そう。戻る場所が分かっていれば、人は遠くへ行ける」
その人は帽子を直し、また畑に向き直った。
「行っておいで。君たちには、まだ会うべき声がいる」
ぼくは礼を言い、きみと手を繋いで歩き出した。
背中から、その人の声が追いかけてくる。
「幸福はね、完成させなくていい。育てればいい。土も雨も、時々は雷もいる。……雷が鳴る日は、手を離さないで」
道の曲がり角で、ぼくたちは誰かの泣き声を聞いた。
泣き声は、風に溶けない。糸みたいに張り詰めて、胸の奥に引っかかる。音の先には、小さな橋があった。橋は半分だけ透明で、残り半分が欠けている。欠けた部分の下は、暗くて見えない。底がないみたいに、ただ黒い。
橋の手前で、一人の人が座り込んでいた。年齢も性別も、裏世界では曖昧になる。けれど、肩の震え方が「どうしようもなく困っている」ことだけははっきり伝わる。
「大丈夫?」
きみがそっと声をかけると、その人は顔を上げた。目が赤い。泣きすぎた目。
「向こうに……行かなきゃいけないのに」
その人は橋の向こうを指差した。向こう岸には、明かりが一つ灯っている。家の窓の灯り。帰る場所の灯り。
「でも橋が……」
「渡れない?」
「怖い。落ちたら、戻れない気がする」
その人の声は、ぼくの胸の中の声と似ていた。怖い。落ちたら戻れない。戻れないから、渡れない。
ぼくはポケットのガラスの粒を思い出した。記憶の畑でもらった粒。
握ると、粒が淡く光った。光は橋の欠けた部分の上に、細い線を描いた。線は頼りない。でも、確かにそこにある。
「これ……道になるの?」
ぼくが呟くと、きみが頷いた。
「戻る場所が分かってるから、行けるって言ってた」
きみはその人に粒を見せた。
「一緒に渡ろう。落ちても、戻れるように」
その人は首を振った。
「ぼくには……戻る場所がない」
「あるよ」
きみが即答した。
「いま、ここで、泣いてる。……それを見てる。わたしたちがいる」
その言葉に、その人の肩が少しだけ緩んだ。泣き声が、ほんの少しだけ小さくなる。
ぼくは思った。愛情って、誰かの「戻る場所」になることなのかもしれない。完璧な答えじゃない。でも、いまこの瞬間に必要な形だ。
ぼくたちは三人で橋に足を乗せた。透明な部分は、足の裏に優しく、欠けた部分は、粒の光の線だけが頼りだ。
一歩。二歩。
黒い下が、口を開けて待っている気がする。怖さが、足首を掴もうとする。
ぼくは、きみの手を強く握った。きみも握り返す。握り返す力が、合図になる。「ここにいる」「離れない」「戻れる」。
欠けた部分の真ん中で、その人が足を止めた。
「無理だ……」
声が震える。
ぼくの胸も震えた。分かる。無理だって言いたくなる。逃げたくなる。
そのとき、きみが小さく歌い出した。
歌詞はない。メロディだけ。短い、優しい旋律。童謡みたいに素朴で、でも胸の奥の鍵穴にぴたりとはまる。
メロディが橋の上に落ちると、空気が少し温かくなる。光の線が太くなる。足元が確かになる。
「歌……?」
その人が驚いてきみを見る。
「魔法って、こういうのだと思う」
きみは照れくさそうに笑った。
「特別な呪文じゃなくて。……いま必要な温度を、分けること」
ぼくはその言葉に、涙が出そうになった。温度を分ける。愛情の定義に近い。
その人は大きく息を吸い、きみのメロディに合わせて、一歩踏み出した。
光の線が、橋の欠けた部分を最後まで繋いだ。三人は向こう岸に辿り着く。
窓の灯りが近づく。帰る場所の匂いがする。ほんの少しの味噌汁みたいな匂い。現実の匂い。
その人は泣き笑いの顔で頭を下げた。
「ありがとう。……戻れる気がした」
「うん」
きみが頷く。
「戻れるって思えたら、行けるよ」
その人は灯りの家に向かって歩き出し、途中で振り返った。
「あなたたちも、戻ってね」
そして、灯りの中に消えた。
ぼくはしばらく、その家の窓を見つめた。
きみが言った。
「ねえ。いまの、命綱だったね」
「うん」
ぼくは頷いた。
「命綱って、派手じゃない。……でも、確かに強い」
怖さは消えていない。橋の下の黒さは、いまも思い出せる。けれど、きみのメロディも思い出せる。怖さと一緒に、温度が残る。
それが、ぼくにとっての「幸せだった記憶は残る」なんだと、初めて腑に落ちた。
道の先には、一軒の小さな屋台があった。屋台というより、旅の途中で誰かが置いていったテーブルの上に、瓶がいくつも並んでいるだけ。瓶の中では、星屑みたいな粒がゆっくり回っていた。
テーブルの後ろに、誰もいない。なのに、声がした。
「ようこそ。あなたたち、まだ見つけていない世界へ」
声は、瓶の中の星屑が擦れる音と混ざっていた。
ぼくは周りを見回した。
「誰?」
「ここにいるのは、あなたたちが置いてきたもの。忘れたもの。言えなかったもの。……それから、守りたいもの」
声は優しい。叱らない先生みたいに、ただ説明するだけ。
「この世界は、地表の裏側。だけど本当は、裏じゃない。現実の隙間。誰かの記憶が、誰かの命綱になる場所」
きみが瓶を一つ手に取った。瓶の中の星屑が、きみの指先に寄っていく。
「これ、なに?」
「幸福の残り香」
「残り香?」
「あなたが幸せだった瞬間は、消えない。けれど現実では、忙しさや不安に押しつぶされて、取り出せなくなる。だからここに沈む。拾えば、命綱になる。……でも、気をつけて」
声が少しだけ低くなった。
「幸福は、使い方を間違えると、怖さを増やす」
ぼくの胸が痛んだ。まるで、見透かされたみたいに。
「ぼくは……怖いんだ。幸せすぎると。失うのが怖くて、疑ってしまう」
言葉が口からこぼれた。きみの前で言ったことがない種類の弱さだった。
きみは瓶を胸の前に抱えて、ぼくを見た。
「疑ってるの?」
責める声じゃない。確かめる声。
「違う。信じてないわけじゃない。……信じられないって思い込んでるわけでもない」
ぼくはうまく言えなくて、笑って誤魔化したくなった。でも笑えなかった。
「ただ、怖いんだ。幸せが大きいほど。……怖くなる」
鈴の音が、もう一度鳴った。
そして、テーブルの上の瓶が一斉に淡く光った。星屑が踊り、瓶の内側に小さな映像が浮かぶ。映画のスクリーンみたいに、瓶のガラスが透明な窓になっていく。
「見せてあげる」
声が言った。
「未来。あなたが怖がっているもの」
「未来?」
きみが息を呑む。
ぼくは反射的に首を振った。
「見たくない。見たら、もっと怖くなる」
「見ないと、いまを壊すよ」
声は静かだった。
「怖さの正体は、見えないところで大きくなる。見える形にすれば、手を伸ばせる」
ぼくはきみの手を握り直した。
「……一緒に」
きみが頷いた。
「一緒に見る」
瓶の窓に映ったのは、知らない部屋だった。
白い壁。小さなテーブル。窓際に置かれた植物。床には散らかった紙切れと、折れかけた鉛筆。部屋の真ん中で、ぼくが座っている。目の下に影を作って、何かの書類を睨んでいる。笑っていない。肩が固い。
部屋の奥で、きみが背中を向けている。ぼくに言葉を投げたいのに、投げられない顔。近いのに遠い。触れられるのに触れない距離。
「これ……」
ぼくの喉が乾いた。
瓶の映像の中で、未来のぼくが呟く。
『ちゃんとできないなら、いまのままの方がいい』
未来のきみが、小さく答える。
『……いまのまま、ってなに?』
『壊したくない』
『壊れてるのに?』
そのやりとりが、刃物みたいに刺さった。怖さのせいで、守りたいものを守れなくなる未来。幸せを完成させたくなくて、未完成のまま抱えて腐らせてしまう未来。
ぼくは瓶から目を逸らした。
「やめて……」
きみが、ぼくの肩に額を寄せた。
「見よう。ちゃんと見よう」
その温度が、命綱だった。
次の瓶が光った。
今度は、きみが泣いている映像だった。駅のホーム。今日の場所と同じようで違う。きみは一人で立って、改札の向こうを見ている。人の波に押されても動かない。ぼくは映っていない。代わりに、きみの手には小さな紙袋が握られている。袋から覗くのは、二つ分のカップ。冷めてしまった飲み物。
映像の外から、未来のきみの声が聞こえた。
『好きだよ。……でも、怖いって言われるたび、わたしが悪いみたいで』
ぼくは、心臓を掴まれたみたいになった。
「きみが悪いわけない」
「うん。知ってる」
きみは現実の声で言った。優しすぎる声で。
声は、ぼくたちを屋台の裏へ案内した。
そこには、小さな劇場があった。段ボールで作ったみたいな小ささなのに、扉を開けると中は広い。赤いカーテン、古い映写機、椅子が三列。椅子の背には、誰かの名前が書いてある気がするけれど、読めない。読めないように作られている。
「ここは、記憶の劇場」
声が言った。
「未来を『一本』で見せると、人は固まる。だから、いくつかの可能性として見せる。夢世界は何パターンもある。現実は一本。その違いを、目で見て学ぶ場所」
映写機が勝手に回り始めた。
スクリーンに映ったのは、ぼくときみが、同じテーブルを挟んで向かい合っている光景。さっき瓶で見た未来に似ている。けれど、違う結末がいくつも続けて流れた。
一つ目の結末では、ぼくが怖さを隠し続けた。笑っているふりをして、心の中でだけ怯え続けた。きみは気づいているのに、気づかないふりをした。二人は優しくすれ違い、優しいまま離れていった。喧嘩はしない。だから傷も残らない。だけど、何も残らない。スクリーンが暗転したとき、胸が妙に寒かった。
二つ目の結末では、ぼくが怖さをぶつけた。「怖い」を刃にして、きみを突いた。きみも突き返した。派手に壊れて、派手に泣いた。スクリーンの中のぼくは、自分の言葉で自分を嫌いになっていく。暗転したとき、胸が痛かった。
三つ目の結末では、ぼくが怖いと言って、きみが受け止めた。受け止めたけれど、きみが疲れてしまった。きみは笑って「大丈夫」と言い続け、ある日、笑えなくなった。暗転したとき、胸が罪悪感でいっぱいになった。
四つ目の結末では、ぼくが怖いと言って、きみも怖いと言った。二人で怖さを並べて置いて、名前をつけた。「失うのが怖い」「一人になるのが怖い」「期待に応えられないのが怖い」。怖さが言葉になると、刃ではなく道具になった。二人は何度も縫い直しながら、少しずつ笑い方を覚えた。暗転したとき、胸が温かかった。
ぼくは気づく。
どの結末も、完全な幸福ではない。痛みがある。迷いがある。だけど、温かい結末は、痛みを消していない。痛みを「一緒に扱って」いる。
愛情って、感情の種類じゃなくて、扱い方なのかもしれない。
「どれが現実になるの?」
ぼくが訊くと、声は答えた。
「どれでもない。どれもだ」
「どれも?」
「未来は、一本の線の上で、何度も分岐の影を持つ。影の方が先に見えることもある。でも線は、君たちの足元にしか引けない」
声は少しだけ強くなった。
「だから、映画のように『これが運命』と見せるのは簡単だ。だけど、それは魔法じゃない。魔法は、足元で起きる」
きみが、ぼくの袖を引いた。
「ねえ。いま、選ぼう」
「いま?」
「うん。帰って、いつもの世界で、今日の続きをする。……怖いって言いながら」
きみは少し笑った。
「怖いって言いながら、温かい飲み物を買って、寄り道して。そんな映画、好き」
ぼくは、涙が出そうで笑った。
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「答えは、ここにある」
声が言った。
瓶の列の奥に、小さな扉が現れた。扉は本棚の背表紙みたいに細く、そこだけ色が違う。扉の上には、何も書かれていない。でも、なぜか分かる。あれは「完成」の扉だ。
「扉の向こうには、夢世界がある」
声は続けた。
「夢世界は、何パターンもある。あなたが選ばなかった未来、選べなかった未来、選びたかった未来。だけど現実の線は一本。あなたが決断するたび、夢世界のひとつが完成する」
「完成したら?」
きみが訊く。
「完成した夢は、眩しい。完璧で、欠けがない。……だからこそ、人はそこに留まりたくなる。留まれば、現実は薄くなる。薄くなれば、現実は崩れる」
ぼくは息を呑んだ。
「じゃあ、夢は……ダメなの?」
「ダメじゃない」
声ははっきり言った。
「夢は、現実を支える。だけど、夢だけで生きようとすると、現実が空洞になる。空洞はいつか割れる。……あなたたちは、どちらを完成させる?」
ぼくは扉を見つめた。
怖い。扉の向こうに、完璧な幸福があるのなら、ぼくはそこに逃げてしまうかもしれない。失う恐れのない幸福に。だけど、それはきみを失う幸福だ。矛盾しているのに、誘惑は甘い。
きみが小さく笑った。
「ねえ。完璧な夢があるなら、覗いてみたい」
「……怖くないの?」
「怖いよ。だって、そこで満足しちゃったら、いまのあなたを手放したくなるかもしれない」
きみはぼくの手を握り直した。
「でも、怖いからって見ないでいたら、もっと勝手に想像して、もっと怖くなる。ね?」
同じ言葉を、さっき声が言っていた。きみの口から聞くと、呪いじゃなくて救いだった。
扉を開けると、そこは映画のセットみたいに美しかった。
花が季節を間違えて咲き乱れ、空には二つの月が浮かび、街はいつも夕焼けの色を纏っている。音楽がどこからともなく流れていて、足取りが自然と踊りになる。笑い声が、温かいスープみたいに辺りに満ちている。
そして、そこにいるのは、ぼくときみだった。
夢のぼくときみは、いつでも笑っている。喧嘩をしない。すれ違わない。沈黙が怖くない。言葉はいつも正しく届き、手はいつも温かい。
夢のきみが言った。
『大丈夫。失わないよ。ここでは』
夢のぼくが答えた。
『怖くない』
その言葉が、甘すぎて、舌が痺れるみたいだった。
ぼくは胸の奥がざわついた。
「……これが、完成した夢?」
「そう」
声が背後からした。
「ここには、失う未来がない。だから怖くない。だけど、成長もない。傷もない。……あなたが怖いと思うものを、全部切り捨てている」
きみが夢の自分を見つめた。
「綺麗だね。でも……」
きみは言葉を探して、やがて小さく首を振った。
「ここ、わたしの匂いがしない」
「匂い?」
「うん。現実のわたしって、もっと不器用で、迷うし、意地もある。嬉しいのに素直になれない日もある。泣きたくないのに泣いちゃう日もある。……そういうのが、全部消えてる」
きみは夢の景色を一周見回して、ぼくを見る。
「あなたも。怖がらないあなたって、あなたじゃない」
その瞬間、ぼくの中で何かがほどけた。
ぼくは、怖さを悪者にしていた。怖さは、幸せを壊す敵だと思っていた。でも、怖さは「守りたい」の裏返しだ。守りたいから、怖い。怖いから、守りたい。
なら、怖さを消した夢は、守りたいものを消しているのと同じだ。
「戻ろう」
ぼくが言うと、夢の夕焼けが少し揺れた。まるで、聞き耳を立てるみたいに。
夢のぼくがこちらを見て、笑った。
『戻るの? ここなら、ずっと幸せだよ』
夢のきみも微笑む。
『怖いこと、ないよ』
その笑顔が、可愛いのに、泣きたくなるほど空っぽに見えた。怖さがない世界は、優しいけれど、薄い。薄い優しさは、重い命綱にはならない。
きみが言った。
「愛情って、きっと、怖さごと抱えることだと思う」
「怖さごと?」
「うん。怖いって言えること。怖いって言われても、消えないこと。……怖いのに、一緒にいるって決めること」
きみは夢のきみに向かって、静かに言った。
「あなたの幸せは綺麗。だけど、わたしたちの幸せは、もう少し泥くさい」
夢の景色が、ぱきりと音を立てた。
ガラスにひびが入るみたいに、夕焼けの空に細い線が走る。花の色が少しずつ抜け、音楽が遠のいていく。
夢が壊れるのではない。夢が「完成」したまま、こちらの選択で輪郭を変えられている。
「完成させないといけないって、誰が決めたんだろう」
ぼくが呟くと、声が答えた。
「完成は、終わりじゃない。選び続けることが、別の完成だ」
「選び続ける?」
「現実は一本。だけど、一本の線の中にも、無数の小さな決断がある。あなたが怖い日も、きみが泣く日も、そのたびに選び直す。完成は、一回きりじゃない」
声は少し笑った気がした。
「ほら。見て」
夢のひび割れの向こうに、現実の景色が覗いた。
駅のホーム。今日の場所。広告のライト。缶の温かい飲み物。いつも通りの世界。だけど、少しだけ違う。現実の空気が、夢の温かさをほんの少し借りて、優しくなっていた。硬いはずのコンクリートの床に、柔らかい灯りが薄く滲んでいる。
夢が現実を食うのではなく、現実が夢の良さを取り込んでいる。補い合っている。
「共存……?」
きみが呟く。
「そう」
声は言った。
「夢とリアルは、敵じゃない。お互いの欠けを補えばいい。夢の優しさは、現実の荒さを少し丸める。現実の重さは、夢の薄さに骨を通す」
ぼくは喉の奥が熱くなった。
「じゃあ、ぼくの怖さは?」
「怖さは、愛情の影」
声は言った。
「影があるから、光が分かる。影があるから、手を繋ぐ理由ができる」
夢の世界が、最後に一度だけ、夕焼け色の風を送ってきた。
風は、きみの髪を揺らし、ぼくの頬を撫でた。甘い草の匂いと遠い海の匂い。そして、鈴のような音。
それは別れの音じゃなかった。合図の音だった。
『忘れないで』と、『戻っておいで』が混ざった音。
けれど、扉の向こうを閉めようとしたとき、夢の景色の割れ目から、黒い糸のようなものが伸びてきた。
糸は空気を縫うみたいにうねり、ぼくたちの足首に絡みつく。冷たい、というより、指先がしびれるような感覚。糸の先には、小さな影がついていた。影は影のままでは終わらず、次第に形を持ち始めた。
犬のようで、猫のようで、鳥のようでもある。どれでもない。目だけが妙に人間くさくて、ぼくの胸の奥をじっと見つめてくる。
影の獣が、口を開いた。
『完成させないなら、失うだけだ』
声は、ぼく自身の声に似ていた。深夜に一人で考えごとをしているときの、あの低い声。
きみが一歩前に出る。
「あなた、だれ?」
『恐れ』
影の獣は即答した。
『幸せを壊さないために、先に壊してしまう恐れ。信じる前に疑ってしまう恐れ。手を伸ばす前に引っ込める恐れ』
獣は糸を引き、ぼくの足をすくう。ぼくはよろめいた。
夢の夕焼けが、ひび割れたガラスのように音を立てる。ひびの隙間から、現実のホームの冷たい光が差し込む。差し込むのに、近づけない。糸が、ぼくを夢に縛りつける。
『ここにいれば、怖くない』
獣が囁く。
『怖くない場所で、きみを守れる』
その言葉は、甘い毒だった。守るという名の逃避。きみを守るふりをして、ぼくが傷つかない場所を選ぶ。
ぼくは歯を食いしばった。
「それは……守ってない」
『じゃあ、何が愛情だ』
獣の目が細くなる。
『愛情ってなんだ。定義できないものを、信じろっていうのか』
問いが、胸を貫いた。ぼくはずっとその問いを避けていた。愛情が「分からない」と言えば、臆病を正当化できるから。
きみが、ぼくの手を引いた。
「答え、いま出さなくていい」
「でも……」
「出さなくていい。……ただ、選ぼう」
きみは獣を見据えた。
「怖さがいるなら、いていい。でも、支配はさせない」
きみの言葉に、獣が笑った。笑い声は、金属を擦る音に似ていた。
『支配? ぼくは支配してない。君たちがぼくに鍵を渡しただけだ』
獣の糸が、ぼくの手首に絡む。思い出が早送りされるように、頭の中に映像が流れた。きみが笑った日。きみが泣いた日。きみが「大丈夫」と言った日。ぼくが「怖い」と言った日。
そのたびに、糸が一本ずつ増えていく。幸福の瞬間ほど、糸が強くなる。守りたい瞬間ほど、縛りが強くなる。
ぼくは気づいた。
幸福が残るのは、救いだ。けれど、それを「失いたくない」と握りしめれば、糸になる。命綱が、足枷に変わる。
怖さは、幸福の影。影が伸びすぎると、光を覆ってしまう。
「……どうすれば」
ぼくが呟くと、背後から、あの声がした。
「縫い目を探しなさい」
「縫い目?」
振り向くと、夢と現実の境界に、小さな階段が現れていた。階段は、布の端みたいにほつれていて、そこだけ世界の質感が違う。階段の下からは、トントン、と規則正しい音が聞こえる。針が布を刺す音。
きみが頷いた。
「行こう」
糸に縛られたまま、ぼくたちは階段を降りた。
階段の先は、工房だった。
天井から無数の糸が垂れ、床には色とりどりの布が積まれ、壁には、世界の断片が額縁のように並んでいる。青空の切れ端、夕焼けの欠片、雨音の瓶詰め、笑い声のリボン。どれも見たことがないのに、触れた瞬間に懐かしい。
工房の中央に、小さな椅子があり、そこに座った誰かが、ひたすら縫っていた。
背丈は子どもくらい。顔は見えない。フードを被っている。手だけが、驚くほど器用に動く。針で糸を引き、世界の裂け目を縫い合わせている。
「……縫い手」
ぼくが言うと、縫い手は針を止めずに答えた。
「呼び方は何でもいいよ。裏世界では、役割が名前になる」
声は若くも老いてもいなかった。雨のあとみたいに澄んでいる。
「君たち、糸に絡まってるね。いい糸だ。強い糸」
「ほどける?」
きみが訊く。
「ほどける。けど、ほどいたら、全部落ちる」
縫い手は淡々と言った。
「幸福の糸も、恐れの糸も、同じ根っこから伸びてる。根っこを切れば、君たちが守りたいものも、一緒に切れる」
ぼくの喉が詰まった。
「じゃあ、どうするの」
「ほどかない。編み直す」
縫い手は針を置き、初めてこちらを向いた。フードの奥で、目だけが光った。瓶の星屑みたいな光。
「命綱にするなら、結び目が必要だ。足枷にするなら、絡まりが必要だ。君たちは、絡まりのまま引きずってる。結び目に変えよう」
縫い手は、机の引き出しから、小さな空の瓶を取り出した。さっきの屋台にあった瓶と同じ形だ。
「怖いって言ってごらん」
ぼくは息を吸った。
「怖い」
声が震えた。弱さを見せる怖さも含めて、怖かった。
「もう一度」
「怖い。……でも、きみといるのが、嬉しい」
きみがぼくの背中に手を置いた。
「うん」
縫い手は瓶の口を開け、ぼくの言葉を吸い込ませるように、瓶を軽く振った。すると、瓶の中に黒い糸が現れた。恐れの糸だ。けれど、黒だけじゃない。糸の中に、金色の粒が混ざっている。幸福の残り香が、恐れの中に刺繍されているみたいだった。
「きみも」
縫い手が言う。
きみは少しだけ息を整え、言った。
「わたしも怖い。あなたが遠くなるのが。……でも、遠くならないように、手を伸ばしたい」
瓶の中の糸が、ふわりと柔らかく膨らんだ。黒い糸に、淡い赤が差した。あたたかい色。
縫い手は針を取り、瓶の中の糸をすくい上げた。
「ほら。これが結び目の材料」
「結び目?」
「そう。恐れは消さない。恐れに、言葉を通す。言葉に、相手の手を通す。……すると、絡まりは結び目に変わる」
縫い手は、ぼくの手首に絡んだ糸の束を指でほどき、代わりに瓶の糸を結びつけた。結び目ができた瞬間、糸の冷たさが消えた。糸は軽い。引っ張ると、痛みじゃなくて、方向が分かる。
『……ずるい』
工房の入り口に、影の獣が立っていた。糸の端を引きずりながら。
『恐れを、愛情の材料にするなんて』
縫い手は肩をすくめた。
「恐れは、いつだって材料だよ。君が怖いのは、切り捨てられること? それとも、役に立たないこと?」
獣が黙る。目が揺れる。
ぼくは獣を見つめた。
「きみは……ぼくの一部なんだよね」
『そうだ』
「なら、消さない。だけど、運転席には座らせない」
獣は鼻で笑った。
『言えるようになったじゃないか』
その声に、少しだけ棘が減った気がした。
縫い手が言った。
「最後の仕上げ。君たちの現実を縫うよ」
縫い手は壁に掛けられた額縁の一つを外した。額縁の中には、駅のホームの断片が入っている。いまの現実と同じ景色。でも、そこには薄い裂け目が走っていた。裂け目は、誰の目にも見えないほど細い。でも確かに、そこから冷たい風が漏れている。
「裂け目は、怖さが大きくなったときにできる」
縫い手は針を通しながら言った。
「怖さを隠すと、裂け目は広がる。怖さを言葉にすると、裂け目は縫える」
針が、額縁の世界をすっと貫いた。チク、と小さな痛みが胸に響いた。現実が縫われていく感覚。ぼくの中の空洞が、少しずつ塞がっていく感覚。
縫い終わると、額縁の裂け目は消えた。
代わりに、縫い目が残った。白い糸の細い線。消えない線。
「縫い目は残すの?」
きみが訊くと、縫い手は頷いた。
「残す。完璧に戻す必要はない。縫い目は、思い出になる。傷は、弱さじゃない。二人で直した証拠だ」
ぼくはその言葉に、胸が詰まった。
「帰り道は、ひとつ」
縫い手が指を鳴らすと、工房の天井から糸がほどけ、一本の道になった。白い灯りの道。さっきの矢印の道よりも、少しだけ太く、少しだけ頼もしい。
「この道は、君たちの『いま』に繋がってる。夢に戻りたくなったら、瓶を振って。残り香を取り出して。……でも、瓶の中に閉じこもらないでね」
縫い手は最後に、瓶をぼくたちに渡した。
空の瓶じゃない。瓶の底に、黒と金の糸が小さな結び目になって沈んでいる。怖さと幸福が、同じ形で一緒に眠っている。
ぼくは瓶を握った。
「ありがとう」
「お礼は、現実で言って」
縫い手は笑った。
「君たちの物語は、裏世界じゃなくて、地表で続く」
ぼくたちは、白い灯りの道を走った。
背後で、影の獣がついてくる気配がした。怖さは消えない。けれど、足音は前ほど重くない。ときどき、道を照らす役をしているみたいだった。
道の先で、夢の夕焼けが最後に瞬いた。
夢は、崩れない。きらめきを残して、静かにたたまれる。たたまれた夢の布が、現実の肩にふわりと掛けられる。
現実は一本。だけど、その一本に、少しだけ柔らかい裏地がつく。
次の瞬間、ぼくたちは駅のホームに立っていた。
影の穴は消えている。柱の影はただの影。遠くで電車がブレーキを鳴らす。誰かがくしゃみをする。現実の雑音が、なぜだか愛おしい。
きみは缶を持ったまま、ぼくを見上げた。
「……帰ってきたね」
「うん」
ぼくは息を吸って、吐いた。
現実は冷たい。夢ほど温くない。だけど、きみの手は温かい。温かさの場所が、夢ではなく「ここ」にある。
「ねえ」
ぼくは言った。
「怖いって、また言うかもしれない」
きみは頷いた。
「うん」
「そのとき、きみを傷つけるかもしれない」
きみは眉を下げて笑った。
「傷つくかもしれない。でも、わたしも意地悪言う日あるし」
「じゃあ、約束して」
ぼくは言葉を選んだ。完成させない約束。終わらせない約束。
「怖いって言ったら、逃げないで。……一緒に見て。怖さの正体を」
きみは、ぼくの手をぎゅっと握った。
「約束する。あなたも、逃げないで」
「うん。逃げない」
ぼくは頷いた。
怖さは消えない。消さなくていい。怖さの中に、守りたいものがあるから。
電車がホームに滑り込んできた。ドアが開く。風が吹く。人の波。
その中で、ぼくはふと、裏世界で見た瓶のことを思い出した。幸福の残り香。命綱。
たぶん、ぼくの胸にも、瓶がある。今日のきみの笑い声、袖を引いた指先、影の穴の温い風。そういう小さな幸福が、いつかのぼくを支える。
そして、いつかのきみを支える。
列車に乗り込む直前、きみが言った。
「ねえ。さっきの世界、また行けるのかな」
「分からない」
ぼくは正直に答えた。
「でも、行けなくてもいい気がする」
「どうして?」
「だって、魔法って……現実に宿るんでしょ」
ぼくが言うと、きみは目を丸くして、それから笑った。
「それ、いいね」
「ね。映画の最後みたいだ」
「じゃあ、エンドロールの代わりに、帰り道に寄り道しよ」
「寄り道?」
「温かい飲み物、もう一本買おう。二つ。……冷めてもいいやつ」
きみはそう言って、改札の手前の自販機を指差した。
ぼくは笑った。
幸せが、また胸を満たす。
満ちるほど、少し怖い。
でも、怖いのに笑える。
それがたぶん、愛情なんだと思った。
改札を抜けて、夜の街へ出ると、冷たい風が頬を刺した。
現実はやっぱり、少しだけ不親切だ。信号は赤で止まり、歩道には段差があって、知らない人の肩がぶつかる。裏世界みたいに、足が勝手に目的地へ連れていってはくれない。
それでも、きみはぼくの手を離さなかった。
自販機の前で、きみが缶を二本選んだ。一本は甘い。一本は少し苦い。
「どっちがいい?」
「……苦い方」
ぼくが答えると、きみは笑った。
「今日のあなたは、ちょっと大人」
「強がってるだけ」
「強がりも、かわいい」
きみはそう言って、苦い缶をぼくに渡した。指先が触れた瞬間、裏世界の瓶の感触がよみがえる。結び目の瓶が、ポケットの中で小さく鳴った気がした。鈴の音に似た、合図の音。
歩きながら、ぼくはふと思った。
このまま幸せが続いたら、また怖くなる。たぶん、明日も。来週も。もっと幸せになればなるほど。
でも、怖くなるたび、裏世界へ行けるとは限らない。縫い手にも、記憶の畑の人にも、もう会えないかもしれない。
ぼくは立ち止まって、ポケットから瓶を取り出した。
街灯の下で見ると、瓶の底の結び目が、ほんの少しだけ光っている。
「それ、なに?」
きみが訊く。
「……内緒にしたいけど、内緒にすると裂け目が広がるんだった」
ぼくは苦笑して、瓶を差し出した。
「怖さと幸福を、一緒に結んだやつ」
きみは驚いた顔をして、それから、ゆっくり瓶を受け取った。
瓶を振ると、結び目がふわりとほどけて、糸が瓶の中で踊った。黒い糸に金の粒。淡い赤。まるで、小さなオーロラ。
「綺麗」
きみが呟く。
「これ、ぼくの中にもあるの?」
「あるよ」
ぼくは頷いた。
「たぶん、あなたの中にも」
きみは瓶を胸の前に抱えて、少しだけ真剣な顔になった。
「ねえ。もし、あなたが怖くなって、言葉が出なくなったら」
「うん」
「この瓶、振っていい?」
ぼくは一瞬、息が止まった。怖さの正体を見せるのは、まだ怖い。けれど、隠す方がもっと怖い。
「……振って」
ぼくは言った。
「ぼくも、あなたが黙ったら、振っていい?」
「うん」
きみは頷いた。
「二人の合図にしよう」
合図。鈴の音。裏世界の合図が、現実に移植された。
そのまま二人で歩き出したとき、遠くで救急車のサイレンが鳴った。
胸が、きゅっと縮んだ。命が、壊れる音に聞こえる。幸せが壊れる音に聞こえる。
ぼくの足が、ほんの少しだけ止まった。
きみが、ぼくを見上げた。
「いま、怖い?」
ぼくは頷いた。言葉にできるだけで、少し楽になる。
「うん。……怖い」
「じゃあ、合図」
きみは瓶を軽く振った。糸が瓶の中で踊り、街灯の光を拾って、ほんの少しだけ明るくなった。
その光は、派手な魔法じゃない。誰にも気づかれないくらい小さい。
でも、ぼくには分かった。これは「戻る場所」の光だ。きみの手の温度で、光っている。
ぼくは息を吸って、吐いた。
怖さが、少しだけ形を持つ。形を持てば、扱える。抱えられる。
きみの手を握り直す。
きみが笑う。
その笑い声が、畑の粒みたいに胸に落ちて、いつかの命綱の材料になった。
列車の窓に映る夜の街は、いつもと同じはずなのに、どこか柔らかかった。
家へ向かう途中、橋を渡った。さっき裏世界で渡った橋と違って、ただのコンクリートの橋。川は黒く、街の光を映している。
ぼくは一瞬、足を止めた。
川面の反射の中に、裏世界の薄青い空が混ざった気がしたからだ。錯覚かもしれない。でも、錯覚でいい。錯覚でも、心が少し軽くなるなら、それは魔法だ。
「ねえ」
ぼくは言った。
「愛情って、完成させたくないって思ってた」
「うん」
きみは隣で頷く。
「完成させたら終わる気がして。終わるのが怖くて。だから、ずっと途中のままでいたかった」
きみは黙って聞いてくれる。聞いてくれることが、すでに答えの一部だ。
「でも、たぶん違う。……完成って、終わりじゃない。縫い目みたいに、残していいものなんだ」
「縫い目」
きみがその言葉を繰り返した。
「うん。直した跡。二人で直したっていう証拠。傷があるから、そこを大事にできる」
ぼくは瓶をポケットの中で握った。結び目が、かすかに鳴る。
きみが言った。
「わたしは、あなたが怖がるの、嫌いじゃないよ」
「え?」
「もちろん、苦しいときもある。悲しいときもある。でも、怖いって言えるのは、わたしを信じてるってことでもあるでしょ」
きみは照れくさそうに視線を逸らして、すぐにぼくを見る。
「だから、怖いって言って。言ってくれたら、わたしも言う。嬉しいって。好きって。……怖いって」
ぼくは胸がいっぱいになって、言葉が詰まった。
代わりに、笑った。笑いながら、少し泣いた。
「ずるい」
「ずるくない」
「ずるいよ。そんなの、信じたくなるじゃん」
きみは肩をすくめた。
「信じて。……信じながら、疑ってもいいよ。疑ったら、言って。隠さないで」
「うん」
ぼくは頷いた。
疑いは、愛情の反対じゃない。黙ってしまうことが、反対だ。
ぼくはようやく、その区別を知った。
橋を渡り切ったところで、ふっと風が止んだ。
静けさの中で、どこからか、鈴の音が聞こえた気がした。
振り向いても、風鈴はない。誰もいない。車の音だけが遠くを走る。
それでも、ぼくは確かに思った。
裏世界は遠くへ消えたのではなく、現実の縫い目の中に潜ったのだと。
だから、魔法は現実に宿る。誰にも見えない縫い目のところに、温度として。
家の前で、きみが立ち止まった。
「またね」
その言葉は、別れじゃない。続きの合図だ。
ぼくは言った。
「またね。……明日、怖くなっても」
「うん」
「来週、怖くなっても」
「うん」
「ずっと先で、怖くなっても」
きみは笑って、少しだけ目を潤ませた。
「そのときも、合図しよう」
きみは瓶を軽く振る仕草をした。
ぼくも同じ仕草を返した。
帰り道、街灯の下の影が、ほんの少しだけ丸く見えた。
影がある。だから光がある。
怖さがある。だから手を繋ぐ。
そして、手を繋ぐから、怖さは命綱になる。
ぼくはポケットの瓶をそっと握りしめ、歩き出した。
現実の線は一本。
でも、その一本の上で、ぼくたちは何度でも選び直せる。
そのたびに、夢の優しさを少し借りて、現実の重さに骨を通していく。
映画みたいなエンドロールは流れない。
代わりに、明日の朝日が、静かに始まりの音を鳴らす。
鈴の音みたいに。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、
「幸せを完成させてはいけない」という主張ではありません。
完成を恐れることも、未完成でいることも、
どちらも間違いではないと思っています。
ただ、
幸せが怖くなる瞬間があること。
愛情が分からなくなってしまう夜があること。
それでも誰かの手を離さずにいようとすること。
その揺れ自体が、
もう十分に愛情なのではないか。
そんな問いを、そっと置いてみたかったのです。
もし今、
あなたが幸せで、そして少し怖いのなら。
この物語が、その怖さを否定せず、
一緒に座る場所になれたなら嬉しいです。
完成しなくてもいい。
選び直しながら、生きていける。
そんな余白が、
あなたの日常にも残りますように。




