第13話「帰還と日常」
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【12月7日(土) 夕方4時 霞が関】
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霞が関にある内閣府特務機関『影守り』の本部ビル。
その重厚なエントランスを抜けた時、空はすでに茜色から群青色へと変わり始めていた。
自動ドアが開き、湿り気を帯びた都会の夜気が肌に触れる。
俺、橘悠真は、大きく息を吐き出した。
「……ふぅ。やっぱり、ここは空気が重いですね」
背後に聳え立つ巨大なビルを見上げる。
表向きは防災関連の庁舎だが、その地下深くには、日本の裏社会を統制する魔導のエキスパートたちが蠢いている。
年収数千万円のエリートたち。国家の存亡を背負う覚醒者たち。
時給1200円のフリーターである俺にとっては、呼吸をするだけで肺が押し潰されそうな場所だった。
「そう? 私は実家よりも落ち着くけれど」
隣を歩く如月シオリが、涼しい顔で言った。
彼女はキーを操作し、ロータリーに停めてあった漆黒の高級セダンを解錠する。ドイツ製の、戦車のように頑丈そうな車だ。
彼女のハイヒールがアスファルトを叩く音は、カツン、カツンと、メトロノームのように正確で迷いがない。
「乗って。家まで送るわ」
彼女は運転席に乗り込み、俺に助手席を顎で示した。
俺は少し躊躇してから、革張りのシートに体を沈めた。
高級車特有の、新しい革と微かな香水の匂い。
ドアを閉めると、外界の喧騒が嘘のように遮断され、静寂が満ちた。
◆ ◆ ◆
エンジンが低く唸りを上げ、車が滑るように走り出す。
流れる景色。
皇居周辺の緑、新宿方面へと伸びる首都高の灯り。
それらが次々と後ろへ飛び去っていくのを、俺はぼんやりと眺めていた。
今日は色々なことがあった。
解呪の方法を聞き、局長に許可をもらい、バチカンへの根回しまで約束してもらった。
だが、同時に新たな疑問も生まれた。
局長が言っていた「十年前に『変わった』人間」。
俺の鑑定眼が目覚めたのも、十年前のあの事故だ。
偶然か? それとも——。
「……ねえ、ユウマ君」
しばらくの沈黙の後、シオリさんが口を開いた。
視線は前方に固定したままだが、その声にはいつもの冷徹さとは違う、どこか探るような色が滲んでいた。
「なにがそんなに、あなたをあのコンビニに縛り付けているの?」
「え?」
「さっきの局長との話よ。あなたは『バチカンへの寄付金を稼ぐ』『聖遺物を探す』と言った。それだけの覚悟と、あの『鑑定眼』があるのなら、影守り(ウチ)に正式採用される道だってあったはずよ」
シオリさんはハンドルを滑らかに切りながら、言葉を続ける。
「ウチなら、初任給でもあなたの年収の十倍は出せる。福利厚生も万全だし、身の安全も保障される。……どうしてそこまでして、あの小さなコンビニのアルバイトにしがみつくの?」
彼女はずっと不思議だったのだろう。
命を懸けて深淵の化け物と戦い、伝説級のアイテムを見つけ出す能力を持ちながら、あくまで「コンビニ店員」という立場を崩さない俺の心理が。
合理的で効率的な彼女からすれば、俺の行動は理解不能なエラーに見えるのかもしれない。
「……逃げ場所、ですかね」
俺はシートに深く体を預け、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
疲れ切った、どこにでもいる冴えない男の顔だ。
「俺、就活に失敗してるんです。大学を出て、何十社も受けて、全部落ちて」
思い出したくもない記憶が、夜の景色と共に蘇る。
「……実は、俺の『鑑定眼』って、昔はもっと制御が下手だったんです」
「制御?」
「今でこそ意識して発動させられますけど、当時は勝手に見えちゃうことが多くて。特に——人の『本音』みたいなものが」
面接官の笑顔の裏に浮かぶ【こいつは使えない】という文字。
握手を求めてきた人事部長の頭上に見えた【早く終わらせたい】のステータス。
『君の将来に期待しています』と言いながら、心の中では【どうせすぐ辞めるだろ】と思っている上司候補。
「人の本音が見えすぎて、人間が嫌いになったんです。みんな嘘ばっかりだって。表では笑ってても、裏では俺を見下してる。そう思ったら、面接でまともに喋れなくなって」
シオリさんは何も言わず、静かに俺の話を聞いている。
「結局、何十社も落ちました。社会から『お前は不要だ』って烙印を押されたんじゃなくて、俺が勝手に社会を拒絶してたんです」
俺は自嘲気味に笑った。
「なんとなく今の店で働き始めた時も、最初は『すぐに辞めてやる』って思ってました。人間なんて信用できない。どうせみんな本音と建前が違うんだ。……そんな風に、世の中を恨んでました」
「でも、続けていくうちに気付いたんです。深夜の店に買いに来る客は——俺に何も期待してないんだなって」
深夜二時。疲れ果てて栄養ドリンクを買いに来るサラリーマン。
早朝四時。誰とも話さず、ただ酒を買いに来る老人。
行き場を失って、立ち読みで時間を潰す若者。
「彼らは俺のことなんか見てない。愛想笑いも、建前も求めてない。ただ、弁当を温めて、袋に入れて、『ありがとうございました』って言うだけでいい」
だから、鑑定眼が発動しても怖くなかった。
彼らの本音が見えても、そこにあるのは【疲れた】【眠い】【早く帰りたい】という、シンプルな感情だけだった。
俺を値踏みする視線も、嘘の笑顔もない。
「そのうち、俺がレジで『お疲れ様です』って声をかけると、ほんの一瞬だけ、救われたような顔をする客がいることに気付いたんです」
湯気の立つ弁当。
「ありがとう」という、小さな呟き。
社会の歯車から外れかけた俺たちが、レジカウンターという境界線で交錯する、ほんの数秒間の人間関係。
「あの店は、俺が『誰かに必要とされている』と、唯一感じられる場所なんです。社会の片隅の、さらに夜の闇の中にある小さな灯りですけど……俺にとっては、そこが世界で一番重要な拠点なんです」
俺は照れ隠しに鼻をこすった。
「だから、それを魔物や呪いのせいで失いたくない。あそこを奪われることは、俺の存在意義を奪われることと同じ気がして。……まあ、ただの貧乏人の強がりですけどね」
◆ ◆ ◆
長い独白が終わると、車内には再び静寂が戻った。
タイヤがアスファルトを噛む音だけが、低く響いている。
シオリさんはしばらく沈黙し——やがて、ぽつりと溢した。
「……羨ましいわね」
「え?」
意外な言葉に、俺は隣を見た。
街灯の光が、彼女の美しい横顔を断続的に照らし出している。
その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「私は物心ついた時から『魔導の名門・如月家』の神童として育てられたわ」
彼女の声は淡々としていたが、そこには深い諦念のようなものが滲んでいた。
「遊びなんて知らなかった。学校が終われば魔術の特訓、休日はダンジョンでの実地研修。期待に応えるのが当たり前で、失敗は許されない。……『普通の日常』なんて、一度も味わったことがないもの」
彼女の指が、ハンドルを強く握りしめる。
「誰かに必要とされる? ええ、私は必要とされたわ。でもそれは『私』という人間じゃなくて、『A級魔導士』という機能が必要とされただけ。……あなたが言うような、温かい交流なんて一度もなかった」
氷の魔女。
若き天才局員。
数々の華々しい肩書き。
だが、その鎧の下にいるのは、孤独な一人の女性だった。
彼女もまた、俺とは違う意味で「持たざる者」だったのだ。
信号が赤に変わり、車がゆっくりと停止する。
シオリさんはふと、寂しげな微笑みを浮かべて俺を見た。
「だから余計に、必死に『普通』を守ろうとするあなたが、少しだけ眩しく見えるのよ。……泥臭くて、効率が悪くて、でも、とても人間らしい」
「シオリさん……」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
いつもの冷徹で高圧的な上司の顔ではない。
不器用で、寂しがり屋で、でも誰よりも強くなろうとしてきた、等身大の如月シオリがそこにいた。
車内の空気が、少しだけ柔らかく解けていくのを感じた。
俺たちは、生きる世界も、持っている力も正反対だ。
でも、だからこそ、互いにないものを埋め合わせることができるのかもしれない。
「……まあ、だからって」
不意に、シオリさんの表情がキリッと切り替わった。
悪戯っぽい、小悪魔のような笑みが唇に浮かぶ。
「甘やかしはしないわよ? さっき『バチカンへの寄付金を稼ぐ』って大口叩いたんだから、その言葉、死ぬ気で実行してもらうわ」
「うわ、台無しだ! いい雰囲気だったのに!」
俺は思わず天を仰いだ。
この人、本当に性格がいいのか悪いのか分からない。
「当然よ。感傷に浸るのもいいけど、現実は待ってくれないもの。資金作りもダンジョン攻略も、私がスパルタで指導してあげる。……覚悟しておきなさい、相棒」
「……へいへい。分かってますよ」
信号が青に変わる。
Gを感じて車が走り出す。
だが、その加速は心地よかった。
◆ ◆ ◆
三十分後。
車は、中野区と新宿区の境目にある、古びた木造アパート「メゾン・ド・中野」の前に横付けされた。
新宿のコンビニまで自転車で十分という立地だけが取り柄の、俺の城だ。
「じゃあ、送ってくれてありがとうございました」
俺はシートベルトを外そうとして、バックルに手を伸ばした。
カチャ。
……外れない。
「あれ?」
ボタンを押すが、びくともしない。
何度かガチャガチャと動かしてみるが、まるで溶接されたかのように固まっている。
「どうしたの?」
「いえ、シートベルトが噛んじゃったみたいで……外れません」
「ちょっと見せて。……ああ、ごめんなさい」
シオリさんがバックルを覗き込み、小さく謝った。
「さっき車内で無意識に魔力を漏らしていたみたい。金具の内部が凍り付いてるわ」
「ええっ!?」
どうやら、さっきの「自分語り」で感情が揺れたせいで、無意識に冷気が出てしまったらしい。
意外とポンコツだ、この人。
「じっとしてて。今、解凍するから」
シオリさんは運転席から身を乗り出し、俺の腰元にあるバックルへと手を伸ばした。
狭い車内。
彼女が俺を覗き込むような体勢になる。
ふわっ、と柑橘系の香水の匂いが鼻をくすぐった。
近い。
彼女の整った顔が、俺の目の前にある。長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離だ。
「……んっ、ちょっと硬いわね」
シオリさんは真剣な顔で、凍ったバックルに魔力を流し込んで温めようとする。
その拍子に、彼女の体がさらに前に乗り出してくる。
むにゅっ。
柔らかい感触が、俺の胸板に押し当てられた。
「ッ!?」
俺は息を呑んだ。
シオリさんの豊かな胸が、俺の体に密着している。
上質なブラウス越しでも分かる、弾力と温もり。
彼女が力を込めるたびに、その柔らかいものが形を変えて、俺の理性をゴリゴリと削ってくる。
(ちょ、シオリさん! 当たってる! 当たってます!!)
俺は心の中で絶叫したが、声に出せなかった。
彼女はあくまで真剣にトラブルを解消しようとしているだけだ。ここで指摘したら、セクハラだと思われて今度こそ氷漬けにされるかもしれない。
だが、視線のやり場に困る。
伏せれば胸元が見えるし、上げれば彼女の無防備なうなじが見える。
「……んんっ……もうちょっと……」
シオリさんが小さく漏らす吐息が、俺の耳にかかる。
だめだ。これは拷問だ。
心拍数が上がっていく。これ以上続いたら、俺の心臓が爆発するか、何か取り返しのつかない衝動に駆られそうだ。
カチンッ。
その時、バックルが軽快な音を立てて外れた。
「ふぅ……取れたわよ」
シオリさんが体を離し、涼しい顔で微笑んだ。
俺は全身の力が抜け、シートに沈み込んだ。
「……あ、ありがとうございます……」
「どうしたの? 顔が赤いわよ。また熱でもあるの?」
シオリさんが不思議そうに首を傾げる。
この人、本当に無自覚なのか。それとも確信犯なのか。
どっちにしろ、この護衛任務、魔物に殺される前に、俺の心臓が持たない気がする。
「なんでもないです……! それじゃ、お疲れ様でした!」
俺は車を降りながら、改めてシオリさんの姿を見た。
いつものパンツスーツ姿は、彼女をスマートでクールなキャリアウーマンに見せている。
だが、今さっき車内で密着した時の、あの柔らかくて豊かな感触が、まだ胸に残っている。
(普段はあんなにスリムに見えるのに……中身はとんでもないことになってるんだよな)
俺は思わず視線を逸らした。
知ってしまったものは、もう忘れられない。
「ユウマ君」
ドアを閉める直前、シオリさんが呼び止めた。
「……無理はしないこと。何かあったら、すぐに雪兎を通じて知らせなさい。たとえシャワー中だろうと、すぐに駆けつけるから」
「シャワー中は勘弁してくださいよ……」
さっきのことがあると、余計に想像してしまう。
俺は苦笑したが、その過保護さが今は頼もしかった。
「分かってます。シオリさんも、しっかり休んでください」
「ええ。……行ってらっしゃい」
彼女の短い言葉に見送られ、俺はバタンとドアを閉めた。
漆黒のセダンは、音もなく闘夜へと消えていった。
◆ ◆ ◆
残された俺は、アパートの前で一度深呼吸をした。
まだ胸のあたりに、あの柔らかい感触が残っている気がする。
「……さて、と」
俺は頬をパンと叩いて気合を入れた。
今日だけで、色々なことがありすぎた。
解呪の三つの方法。バチカンへの根回し。局長の意味深な言葉。
そして、シオリさんの過去と、あの密着事故。
……情報量が多すぎる。
だが、考えるのは後だ。
冒険者の時間は終わり。
ここからは、プロのコンビニ店員の時間だ。
俺はボロアパートの階段を駆け上がった。
シャワーを浴びて、制服に着替えて。
いつもの戦場へ向かうために。
——そして、今夜も深夜の客たちに「お疲れ様です」と声をかけるのだ。
それが、俺の日常。
魔物に狙われようが、呪いを刻まれようが、絶対に守りたい「普通」の暮らし。
俺は拳を握りしめ、夜の街へと歩き出した。
(第13話 完)
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