ジャッシフの妻
こんなところにいたのかと、ジャッシフが胸を撫で下ろす。目覚めた時、隣にいるはずの妻の姿が消えていた。夜は明けているものの、厨房に行って使用人に食事の支度を命じるには早過ぎる時刻だ。まさか屋敷を出て行った? 妙な不安に苛まれ、慌てて寝台から飛びだして妻を探した。
まずは、と厨房へ向かう途中、微かに吹き込む風に気が付く。その風は開かれたままにされた庭に出られる隠し扉、もしもの時の緊急避難用に備えた扉から入り込んでいる。覗いてみれば庭に佇む妻の姿が見えた。
「どうかしたのか、こんな朝早くに?」
ジャッシフの声にレナリムがゆっくりと振り返る。昇り切らぬ太陽の柔らかな光の中で、レナリムはうっすらと微笑んでいる。なんて美しいんだ――見惚れるジャッシフ、レナリムはやはりゆっくりと視線を足元に向けた。
「この子の声が聞こえたものですから」
そこにいるのは生まれてまだ幾らも経たないと思しき子猫、生後ふた月といったところか? 置かれた皿に入れられた何かの乳を盛んに舐めり取っている。
「母親と逸れたのでしょうか?」
「そうだな、まだ一人立ちできる頃ではないな」
「ジャッシフさま、この子を飼ってもよろしいですか?」
「もちろんだとも……レナリム、なんでも好きにしていいと言ったはずだぞ」
つられたわけではないが、やはりゆっくりとした足取りでジャッシフがレナリムに歩み寄る。その間にレナリムは座り込んで、乳を飲み終えた子猫の頭を撫でている。
「お義母さまが嫌がらないかしら?」
「母上が?」
「えぇ……」
しゃがみ込んだままレナリムがジャッシフを見上げる。
「お義母さま、このところ塞ぎ込んでいらしてて……お加減が思わしくないのかもしれないと」
この館で暮らすのはジャッシフとレナリム、ジャッシフの母親、そして数名の使用人のみ。屋敷の大きさにしては小所帯だ。
ジャッシフの母親は伴侶が殺害された心痛から身体を壊し、もう長いこと寝たり起きたりの生活を送っている。レナリムはそんな義母に随分と心を砕いていた。
「なぁに、この子猫なら、きっと母の慰めにもなるだろう」
「そうだとよいのですが……」
「もし問題がありそうならば、母の部屋には近づけないようにすればいいだけだ。おまえが遠慮をすることなど、何ひとつもないのだよ」
身体を冷やしては胎児に障る、中に入ろう――ジャッシフに促され、子猫を抱き上げるレナリム、ジャッシフは空になった皿を拾い上げ建屋に向かった。
レナリムは生後すぐに母親を亡くした。物心つくころには父親も儚くなった。それからは叔父である前王に引き取られ、王宮の中、義叔母である王妃に慈しまれて育った。だが義叔母は義叔母であり、従兄である二人の王子の母親で、レナリムの母ではなかった。『おかあさま』、そう呼びたい衝動を幾度抑えたことか。
両親に愛されている従兄たちを羨ましいと感じていた。でもそれは許されないことだ。叔父夫婦はレナリムを愛してくれた。羨ましいと思うなど間違っている。そう思い込もうとし、それがレナリムの本心になった。羨むことはなくなったが、寂しさを自分自身にさえ隠しているのだとレナリムが気付くはずもない。
もっとも、王宮での暮らしは幸せなものだった。中でも双子の従兄の存在は大きかった。実の兄サシーニャは、事情は判らないものの魔術師に預けられ、その事もレナリムの心細さに拍車を掛けていたが、その穴を二人の王子は充分に埋めてくれた。昼間に顔を見せるだけの実兄よりも、嵐の夜に一緒にいてくれる従兄たちのほうが頼もしい。
双子の王子リューズとレオ――兄のリューズは周囲を顧みることもなく先へ先へと進みたがり、弟のレオはその兄の後ろに控えてばかりいた。そして、遅れがちになるレナリムをいつでも待っていてくれた。
遅いと言って不機嫌になるリューズ、気にするなと庇ってくれるレオ――どうせリューズは本気で怒ってなどいない、レオの言葉通り、リューズはすぐに機嫌を直す。レナリムはそんな二人を『二人でいるからこそ』なのだと理解していた。
リューズはレオが何かの理由で不在の時は我儘など言わず、レナリムを気遣ってさえくれた。リューズの我儘は、レオへの甘えなのだと、共に過ごすうちにレナリムは知る。リューズと比べ、なにがあっても変わらないレオを信頼し頼りにしているからこそリューズは大胆に、思いのままに動けるのだ。
そう、レオはいつでも穏やかだった。リューズが誰かと争うことはあっても(サシーニャに意地悪をして喧嘩になることが多かったが)、レオが誰かと争うことはなかった。むしろ何かがあればそれを仲裁するのがリオの役目だ。
リューズの我儘が過ぎればそれを止めるのはいつもリオだった。怒ったサシーニャが黙りを決め込み、誰が何を言っても耳を貸さなくなくなってしまったのを、上手に宥めてしまうのもレオだった。リューズに叱られて落ち込んでしまった守役ジャッシフを慰めるのも、リューズの悪戯に驚いて泣き出してしまったレナリムを笑顔にするのもリオだった――
幸せそうな笑みを浮かべ、抱き上げた子猫を撫でるジャッシフの母ナムジェカに優しい眼差しを向けるレナリム、そのレナリムを見詰めるのはジャッシフだ……邸内、ナムジェカの居室、まずはナムジェカの意向を確認しようと子猫を連れてここに来た。
「よかった、お義母さまが喜んでくださって」
「本当に貰ってしまっていいの? あなたの猫なのでしょう?」
そう言いながら、返したくないと顔で訴えるナムジェカだ。
「もちろんです、お義母さまが愛でてやってくださいませ」
レナリムの返事に嬉しそうにナムジェカが頷いた。
自分たちの居室に帰るとジャッシフが
「よかったのか? 手元で育てるつもりだったのだろう?」
とレナリムに問う。それにレナリムは静かに微笑む。
「母のない子猫を哀れと思ったのです。わたしでなくとも、誰かが大事に育ててくれるなら、それでいいのです」
「うん……」
それでもジャッシフは腑に落ちないようだ。
「本当に遠慮などいらないのだぞ?」
ジャッシフを見ることなくレナリムが答える。
「遠慮などしていません――ジャッシフさま、わたしはナムジェカさまを実の母と思う事にしているのです」
「実の母?」
「わたしは産んでくれた母の顔を知りません。わたしのため命を落としたと聞いているだけです」
「おい、レナリム!」
落命はおまえのせいじゃない、そう言おうとするジャッシフにレナリムが微笑む。
「そのわたしに母と呼べる人ができた――幸せを感じているのですよ」
「う……む――でもレナリム、自分のせいでなどと思うな」
それには答えずレナリムは再びジャッシフから目を逸らす。
「わたしはね、幸せなのです、ジャッシフさま」
本当に幸せなのか? そう問い詰めたい衝動にジャッシフが耐える。口ではそう言っているが、レナリム、おまえは本当に幸せなのか? その疑問は、後宮の庭の隠れ場所に突然呼び出されたあの日からジャッシフを捕らえて放さない。
リオネンデ王の密かな呼び出しと言われ王宮の庭に行ってみれば、居たのはレナリムだった。渡された紙片にはリオネンデの筆跡で『好きにしろ』と書かれているだけだ。そして絡みついてきたレナリムの身体――もともとレナリムに憧れていたジャッシフは秘密の逢瀬に夢中になった。
本来ならレナリムは後宮の女、王リオネンデの持ち物、だがそのリオネンデが好きにしていいとレナリムを寄こした。ほかの誰かに知られさえしなければ、いずれ王はレナリムを譲ってくれる。その思惑通り、リオネンデはレナリムを手放した。しかもこれ以上望むべくもない方法、レナリムを親元に返したのだ。
だからレナリムは王からの賜りものではなく、筆頭魔術師サシーニャの妹としてジャッシフの正式な妻となった。そうでなければ、ジャッシフの母の兄、一の大臣マジェルダーナはレナリムを正妻とすることを認めてくれなかっただろう。
リオネンデがレナリムをジャッシフに与えたのは、レナリムが望んだからだとジャッシフは思っている。自分に恋い焦がれるレナリムの、願いをリオネンデが聞き届けた。だからあの場にレナリムが来て、好きにしろとリオネンデは言った。でも――本当にそうだろうか?
時おり根拠のない不安がジャッシフを襲う。レナリム、おまえは本当に俺を愛しているのか?
子どものころから憧れ続けたレナリムは、その美しい微笑みを俺に向け、優しい声で語りかけ、胸に抱けば燃えるような身体で反応えてくれる。俺は愛されているはずだ。何を疑う事がある?
もしジャッシフが揺れる心内をレナリムに打ち明けていたならば、どんな答えを得ただろう? ジャッシフが知らない、いいや、誰も知らないレナリムの思い――
巡ってきた春に、気づけば胸の奥に潜む切ない思慕。告げることもできず、その人の眼差しから、相手もまた同じ思いだと信じるしかない日々。
『日没限りで後宮から出なくちゃいけない』
王子たちは十五になるまで母親のもと、つまり後宮で過ごした。明日、王子たちは十五の誕生日を迎え、今夜からは別の屋敷に移ることになる。
寂しさに、そして別の思いから忍び泣くレナリムから王子が視線を逸らす。
『レナリムは王姉の娘で準王女。後宮の女と言っても父上の女ではない』
何を言い出すのかと訝るレナリムに王子は続けた。
『誰かがレナリムを望み、レナリムが同意するなら、その――』
王家の姫としての婚姻が許される、きっとそう言おうとしたのだろうに、王子はそこから先は言わなかった。
『いつか――いつかきっと』
それだけ言うと逃げるように王子は去った。いつかきっと? レナリムはその続きを『一緒になろう』なのだと思い込んでいた。
だが、その『いつか』は来ることなく、レナリムが王子と次に顔を合わせたのはあの火事騒ぎの時だった。レナリムは後宮から出られず、王子は後宮には滅多なことでは入れない。あんなことがなければ顔を見ることさえ適わなかった。
けれど王子はレナリムの思いをすっかり忘れてしまっていた。それでも忘れられないレナリムは王となった王子、火事場から命がけで救ってくれた恩人リオネンデ王を、自分を愛してくれることはないと知りながら今も慕っている。リオネンデ王が、レナリムが愛した王子リオネンデではないと知らないままで――




