消せぬ傷跡
スイテアが思い切りリオネンデを突き飛ばして立ち上がる。スイテアの肩を抱いていたリオネンデの腕が遠ざかり、向こうによろける。弾みで大皿が横滑りし、綺麗に盛られた料理が乱れた。
「あはは、おまえは判り易いな。だが、皿をひっくり返すな。あぁあ、ごちゃごちゃになった」
「そんな料理など! 皿から落ちればすぐにでも、代わりの物を用意させるのでしょう!?」
笑いを引っ込めたリオネンデが寂しげな顔でスイテアを見上げる。
「どうだろう? 料理を用意する女たちの苦労を知っているし、そもそもこの食材は誰かが丹精込めて育て、危険を顧みず狩ったものだ。皿から落ちただけで捨てるわけにはいかなさそうだ」
グッと言葉に詰まったスイテアが
「だったら! 床に落ちたものを王は口にすると?」
叫ぶように言えば、リオネンデが頷く。
「うん、それもなさそうに思える。だから、皿をひっくり返すな」
返す言葉も気力も失ったスイテアに、リオネンデがニッコリと笑む。
「さっきよりは元気になったな」
いいから座れと言われれば、すっかり毒気を抜かれたスイテアが素直にリオネンデの隣に座った。そのスイテアをリオネンデが抱き寄せる。
「いいか、よく聞くんだ」
耳元で囁きかける。
「リューデントと親密だったと誰かに知られれば、おまえが危険に曝される。俺に逆らう者と見られるのだ。今のおまえの反応を見て、実はヒヤリとした。おまえが大きな声で『リューデントの仇』とでも叫びはしないかってな」
そう言われればそうだ。スイテアが俄かに緊張する。そもそもリオネンデに殺されないだけでも不思議だった。
「判ったな? リューデントの名は忘れろ――それから、おまえは今日、王家の一員となった。これが何を意味するか、判るか?」
リオネンデはスイテアの返事を待っていたようだが、答える様子がないと見て取ると、
「おまえが俺を殺しても王家内部の諍いと判断され、誰もおまえを罰せない――判ったな? そう言う事だ」
更に声を小さくして言った。
リオネンデがスイテアを放し、
「さぁ、食え。おまえが食わなければ片付けの女が困る。さっさと食ってしまえ」
皿をスイテアに押しやる。そして自分も瓜を手に取ると、齧り始めた。
スイテアが恐る恐る皿に盛られた葡萄に手を伸ばす。
「なぜ……」
葡萄を口に入れる前にスイテアが小声で言った。
「なぜ、わたしを生かしておくのです?」
食べかけの瓜を眺めながら、リオネンデが答える。
「さぁな。あの男が愛した娘だからじゃないか?」
あの男――間違いなくリューデントの事だ。
「あのかたは……リオネンデさまを優しいと仰っていました」
「――この話は終わりだ」
突然リオネンデが立ち上がる。
「もう召し上がらないのですか?」
「おまえは好きなだけ食べろ」
そう言うと後宮の入り口へ向かい、レナリムと何か話している。やがてレナリムは頭を下げて後宮に退いた。
戻ってきたリオネンデは
「俺は少し眠る。食べ終わったらレナリムに言って片付けさせろ。それと、正午にジャッシフが来る予定だ。来たら起こせ。それまでおまえは好きにしていろ」
と、寝台に横になってしまった。
本当に眠っているのだろうか? 皿に盛られた料理を口に運びながら、スイテアはリオネンデの気配を窺っていた。
俺を殺しても、誰もおまえを罰せない――あの言葉は真実なのか?
スイテアの視線が、寝台の下に向かう。リオネンデが隠した剣があそこにある。壁に掛けられた剣には手が届かないが、あれなら容易く手が届く。でも――
リオネンデに持たされた剣の重さを思い出す。
(リオネンデの言う通り、今のわたしにリオネンデを殺すのは無理だ)
葡萄を口に放り込みながら、スイテアは思う。
(それにしても、何を企んでいる? 自分を殺そうとする女を生かし侍らせるだけならまだしも、武器を与えると言う。自分を殺すための武器を、だ。それに……)
我ら兄弟の願いと言った。我ら兄弟とは、リオネンデとリューデントを指すのは明白だ。
(リューズさまからそんな話は聞いてない。わたしに話していないだけ?)
スイテアが瓜に手を伸ばす。齧ると青臭い匂いが広がっていく。
食べなさい。咽喉が乾いただろ? 瓜は水分が多い――リューデントは瓜が好きだった。夏の日差しが照り付ける王宮の庭、人目に付かないよう、手入れのいき届いていないところを選んで歩いた。この瓜は水っぽいだけ、こちらは甘い。それはだめだよ、若すぎる。苦くて食べられない……
「うっ……」
うめき声に驚いてスイテアがリオネンデを見ると、リオネンデは顔を顰めて左腕を右の手で掴んでいる。左を下に寝返りを打ったようだ。掴んでいるのは火傷の痕、二の腕のあたりだ。四年も前の傷跡が、今も痛むのだろうか?
見るともなく見ていると、リオネンデが目を開けた。そして再び目を閉じると仰向けになる。そして、
「なにを見ている? 俺の隙を窺っていたか?」
と、どうでもよさそうに言う。
「……火傷の痕が痛むのですか?」
「いつでも痛むわけではない。だが、どうしても引き攣るし、何かがべったり貼りついているように感じる。普段から思い通りには動かないしな。それに明日は雨が降るんだろうね。先ほどからシクシク痛む」
「雨が降ると痛むのですか?」
「うん、覚えておけ。どうせ俺を襲うなら雨の日がおまえには有利だ。執拗く左を狙って来い。おまえが右利きなら狙いやすい――俺の利き手は右だ」
「薬はないのですか?」
「火傷のあとを消すような薬はない。これ以上は良くならないということだ。あまりに酷いときは、サシーニャがくれた痛み止めの軟膏を使う――もう、話は終わりだ。俺は眠い。それと、食べ終わったらレムナムを呼べ。自分で片付けたりするなよ。おまえは『身分』を持った」
リオネンデは右の掌を自分の目のあたりに乗せて、動かなくなった。しばらく見ていると、その右手もズルリと落ちて、どうやら本当に眠ってしまったようだ。
レナリムに片づけを頼むと、すぐに数人の女が後宮から出てきて皿を下げる。そして次には、何人かで衝立を運んでくる。さらに、薄い絹織物やゆったりとした座り心地のよさそうな長椅子、その長椅子に合いそうなテーブルが運び込まれる。梯子まである。
「なにが始まるの?」
スイテアの問いに
「後宮に、リオネンデさまの寝所を新たに設けるまでの一時しのぎですよ」
レムナムが答える。
「本来ここは王の執務室なのです。ジャッシフさまやサシーニャさまが断りもなく入ってくるのはそのため。本来、王の寝所は後宮の内部にあるのですが、リオネンデさまが面倒がって、ここに寝台を入れてしまったのです」
最初の日、ジャッシフが座っていた椅子やテーブル、リオネンデが地図を見ていた大きなテーブル、衝立がそんなものと寝台を隔てる。そして衝立と寝台の間に、長椅子と合わせのテーブルが置かれた。
模様替えの気配に気付いたリオネンデは寝台に横たわったまま、肘を立てた上に頭を乗せて眺めている。
立て掛けられた梯子に、女が上って行こうとしたとき、
「待て」
とリオネンデが体を起こした。
「レナリム、この梯子はなんのために?」
「寝台に天蓋を付けるために用意いたしました」
「うーーん、それはどうしても必要か?」
「寝台の中の様子が丸見えなのは困りものです」
「では俺が取り付けよう。女が梯子を上るのは危なっかしい」
するとレナリムがクスリと笑う。
「奥ではいつもしている作業です。むしろリオネンデさまこそ、梯子に上っての作業などされたことがないでしょう?」
「いや、それはそうだが……後宮では梯子を上るようなことが度々あるのか?」
「えぇ、毎日のように。お任せください。早くしないとジャッシフさまがおいでになります」
リオネンデは寝台に腰かけて、梯子を上る女を眺めていたが急に目を逸らせた。下から見ていて、女の足が見えたようだ。そして長椅子に座るスイテアに気付いて移動してきた。
「おまえも梯子に上ったりしたか?」
スイテアの隣に腰かけてリオネンデが問う。
「木の上のほうに実った林檎や梨を取る時には――」
「なるほど。存外、女とは逞しいものだな」
作業が終わると梯子が片付けられ、レムナムを残して女たちが退出する。
「王の新たな寝所は三日ほどで用意できます。それまでは暴れて天蓋を引き落とすことなどなきようお気をつけくださいませ」
ニッコリ笑んでレムナムも後宮に退いた。
「暴れて?」
ついスイテアが口にする。立ち上がったリオネンデが寝台に近づいて天蓋を大きく広げ、止め帯で括りつけて開いたままにする。
「レムナムが言うには、俺は寝相が悪いらしい。いつだか、寝台に姿がないと騒いで探したそうだが、その時は寝台の足元に丸まって寝ていたそうだ。寝具に埋もれて判らなかったらしい」
「ご自分では寝相が悪いと自覚がなかった?」
「母の寝所に隣接する部屋に住まわされていた、子どもの頃の話だ。うん、『寝ていたそうだ』は可笑しいな、他人事になっている。寝ていた、だ」
リオネンデが何かいい訳をしたようにスイテアは感じていた。




