サシーニャの謀略
噂とはこうも真しやかに、染みていく水のように流布されるものなのか?――明日にはバイガスラ国の使者が到着しようかという頃にはグランデジア王宮のみならず王都フェニカリデ・グランデジアでも、リオネンデ王と筆頭魔術師サシーニャはただならぬ仲だという話が、あちらこちらで囁かれるほど広まっていてジャッシフを驚かせた。特にフェニカリデの街においてそれは噂ではなく、すでに真実に豹変していた。街人にとって王宮での出来事は別世界のこと、聞いた話を信じてしまうのも無理はない。
街中に噂が広まったのは、サシーニャに命じられたワダの働きによるものだ。むろんジャッシフは、サシーニャがワダに命じたなんて知らない。
ワダを使っていなければ噂は王宮にとどまり、庶民の口に上ることはなかっただろう。どうせ街中にはバイガスラの間者が忍び込んでいるはずと、それを利用しようというサシーニャの判断だ。
そのサシーニャを呼んで来いと一の大臣マジェルダーナに依頼されたジャッシフが魔術師の塔に赴けば、サシーニャの部下から足止めされる。
「王がお見えになっています――その……しばらく誰も通すなとのご命令で」
サシーニャの部下が困惑した表情を見せる。
『芝居』と判っていても、ここでそれを言うわけにいかないジャッシフだ。きっと部屋の中ではサシーニャがジャッシフの気配を感じ取り、『少し困らせてやりましょう』とでも言ってリオネンデと笑っているだろう。
程よい時間ののち、執務室の中からサシーニャの声がする。ジャッシフの訪れと聞けば、またしばしの時の後、扉が開かれジャッシフが招き入れられる。
「巧く行きましたか?」
サシーニャの問いは、ジャッシフに向けたものだ。マジェルダーナに泣きついて、動かすことに成功したか、サシーニャはそう訊いている。
「巧くいくも何も……俺が泣きつく前に、伯父のほうから呼び出してきた。噂は本当か、とね」
「そうでしたか――少しやり過ぎたかもしれませんね。このわたしでさえ、噂の広まりに驚いています」
クスリと笑うサシーニャだ。
「それで、何と答えたのです?」
「もちろん『判らない』と――片割れさまに夢中だったから、少し監視を緩めてしまったと言ったさ。多分ただの噂だとも言った。もともとあの二人は従兄弟で仲がいいから、それが誤解されているのかもと付け加えた」
「打ち合わせ通りだな」
ポツンと言ったのは黙って聞いていたリオネンデだ。
「それでサシーニャ、どうするんだ?」
「そうですね――ま、わたしはマジェルダーナに会いに行きましょう。一の大臣の呼び出しに筆頭魔術師と言えど、応じないのは無礼です。もとよりこれが目的。だが、ジャッシフが同席するのは巧くない。ジャッシフはわたしに頼まれて、王を後宮にお送りしたという事に」
サシーニャが扉の前に立ち、部屋の外で控えている配下に何か言った。
「お二人を後宮までお送りするよう手の者に命じました。あとはわたしにお任せください――」
リオネンデとジャッシフを後宮へ送った配下が戻ると、その配下を連れてサシーニャはマジェルダーナの王宮内の屋敷へ向かっている。衣装は魔術師の正装、魔術師の杖は簡易なものを携帯し、懐には守り刀も忍ばせた。さらに香水を使った。煽惑と秘匿の魔力を秘めた香水だが、能力の高い魔術師でなければ気付けない。
「サシーニャさま、何かあったのですか?」
サシーニャを案じて部下が尋ねる。連れてきた魔術師は二人、いずれもサシーニャが特別に目を掛けているが、ひとりは積極的な性格、陽気でお喋り、もうひとりは引っ込み思案、滅多なことで自分から声を発したりしない。質問してきたのはもちろん前者だ。
「香水の事か? 今日はこの香りを身に着けたい気分だっただけだよ」
ニッコリ笑って答えるサシーニャに、『そうでしたか』と配下の魔術師も微笑んで安堵するだけだ。
なんとしても目的を果たしたい。果たせなかったことによる損害よりもサシーニャは、一の大臣を謀る考えがリオネンデにあるという事実をマジェルダーナに知られることを恐れていた。
マジェルダーナが敵か味方か、まだ見極めもついていない。下手をすれば味方を敵に回しかねない。言うことを聞かない王であるうちはリオネンデはまだ安全だ。それが己を騙す王、敵対する王と変われば、暗殺の危険が数段高まる。
リオネンデを護り、大願を成就するためには何一つ抜かることなく事を進める。だから常にできる限りの手を打つサシーニャだ。魔術師の正装も杖も香水もそのために他ならない。
マジェルダーナの屋敷では予測通り、配下の者は控えの間に置かれ、サシーニャのみがマジェルダーナとの面会を許される。
「ご足労願ったのはほかでもない――」
マジェルダーナが話し始めようとするのをサシーニャが遮る。
「マジェルダーナさま、お人払いをお願いできませんか?」
普段は傲慢なサシーニャが弱気な顔を見せて願い出れば、寛大と言われるマジェルダーナだ、自尊心をくすぐられ拒むことはない。
「なにがあったのだ、サシーニャ?」
二人きりの部屋でマジェルダーナがサシーニャに問いかける。サシーニャの雰囲気に気をとられ、自分が呼び出したことをマジェルダーナは忘れてしまったか?
「マジェルダーナさま……」
消え入りそうな声で答えるサシーニャにマジェルダーナはますます声音を和らげる。頼られるのを好むマジェルダーナの性質を利用する心づもりのサシーニャだ。
「どうした、サシーニャ、あなたらしくもない。何をそんなにお困りか?」
フン、困っているなどと一言も言っていないぞ、とサシーニャが思う。
「サシーニャは幼き頃に両親を失い、魔術師の塔に預けられました」
「うぬ……そうであったな――まさか、魔術師をやめたくなったか?」
話しがずれている、心の中でサシーニャが舌打ちをする。どうやって本題に持ち込もうか、とサシーニャが頭を巡らせる。
「そうではございません。サシーニャは大恩ある王家のため、グランデジア国のため、この身を捧げる覚悟をとうの昔にしております」
「そうだな、おまえの忠義は疑いようがないな」
「それでも、不安に苛まれることもあるのです――覚悟が足りないのだと、いつも自分を諫めております」
「サシーニャ、おまえはまだ若い。そうも自分を追い詰めるな。だいたい、何をそんなに不安に感じる?」
心内でサシーニャが『よし』と呟く。そろそろ本題に戻らせて貰おう。
「わたしは王に必要と思われているのでしょうか?」
「えっ?」
「リオネンデさまはサシーニャなど必要ないと考えている、そう思えて仕方ありません」
盤石のつながりと思っていたリオネンデとサシーニャの亀裂、思いもよらないサシーニャの言葉に目を丸くするマジェルダーナ、さらにサシーニャが続ける。
「たとえリオネンデさまがわたしを必要となさらなくても、このサシーニャにとってリオネンデさまこそが生きる支え――」
心の中で舌を出しているサシーニャ、マジェルダーナは困惑するばかりだ。




