イニャの物語
夜も白み始める頃、再び始祖の王の気配を感じた。すでにイニャの伝言書の翻訳を終えていたサシーニャだったが、思った通り扉は開かず蔵書庫から出ることは叶わなかった。始祖の王でなければ扉は開かない……仕方なく、例の絵本を眺めながら待っていたサシーニャだ。
『どうやら終わったようだな。それで絵本を見ているのか?』
うっすら笑う始祖の王、だがその笑いにサシーニャを嘲る様子はない。なぜサシーニャが絵本を見ていたのか、その理由を始祖の王は知っているのか?
『そろそろ日の出だ。イニャの本はわたしが持っていく。神官が書いた本の文字も消させて貰う。用済みのものだ、文句は言わせない』
どうせ何を言おうがサシーニャの言葉に耳を貸しはしないだろう。そして始祖の王に太刀打ちできるとも思わない。だけど、訊いておきたいことはある。
サシーニャが始祖の王に問いかけた。
「イニャから本を取り上げたことを後悔していますか?」
イニャを海に追い詰め、結果的に命を奪ってしまったことを訊いている。
始祖の王は本心を明かさない。
『後悔の伴わない人生を送れる者はいないだろう。そして、後悔を恐れていては前に進めないのも事実だ――いくら後悔したとしても、生きていれば修正する機会もある。サシーニャ、これをおまえへの最後の言葉としよう』
「最後の言葉?」
『わたしの、未来永劫続く魔法はこれからもグランデジア国とこの大地を守っていく。わたしは役目を終え、王廟の下で静かな眠りにつくことにした』
「新たな魔法を使うことはないと?」
『もう声を聞かせることもない。この先は生きている者たちが知恵を働かせ、力を合わせて切り開いていけ。イニャの伝言だけがわたしの心残りだった。おまえに託した今、わたしの存在は無用となった』
「イニャさまも王廟の下におられるのですか?」
この問いにも始祖の王は答えなかった。ただ、擽ったそうに笑った。それは充分な応えだ。
『数えきれないほどの昼と夜が巡り、幾つも季節が去っていった。それはこれからも続くだろう』
サシーニャの手元からイニャの本が突然消え失せ、始祖の王の声と気配がだんだんと遠ざかっていく。
『グランデジアよ、我が大地よ。命輝くところであれ』
窓から眩しい光が差し込んだ。太陽が顔を見せたのだろう。同時に蔵書庫の扉がギギギッと音を立てて開いた。
サシーニャが立ちあがり、絵本を書架に戻す。バチルデアの神官から貰った本を開くと何も書かれていない頁があるだけだった。サシーニャがイニャの伝言書を翻訳したものを書きとった紙片には何の変化もない。
一つ溜息を吐いて、神官から貰った本と自分が書いた紙片を持ってサシーニャが蔵書庫を出た。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
あなたがこの文章を読んでくれることをわたしがどれほど嬉しく思っているか、判るでしょうか? きっとあなたはわたしのことなど知らないと思います。わたしもあなたのことは、名前がわたしと似ている事しか判りません。それでもわたしはあなたを待っていました。
わたしが生まれ十歳まで育った懐かしいあの大地、あなたはそこについ最近までいたのですね。なぜあなたが生まれ故郷から追われることになるのか、どうしてこの大地に流れつかねばならなかったのか……それを教えてあげられたらと、どれほど悩んだことでしょう。ですが運命は残酷で、決してわたしにそれを許してはくれないようです。
わたしはあなたの遠い祖先にあたるものです。正確に言うならば、あなたの祖先の妹か姉、きっと妹。わたしは王女でした。言い伝えが残されていませんか? 白き力を持った王女が荒れ狂う海を鎮めるため、小舟に乗せられ捧げられたと。その王女がわたしです。
人身御供は王女でなくても良かった。だけどわたしであれば海も納得しざる得ないと主張し、兄たちは両親の反対を押し切ってわたしを小舟に乗せました。わたしを亡き者にしたかったのです。
でもね、誤解しないでください。わたしは兄たちを恨んでなどいない。兄たちには兄たちの事情があったのだと知っています。話したのは、わたしの立場をあなたに知って欲しいからです。
なぜ兄たちはわたしを消したかったのか? ここグランデジアに漂着した時、わたしはその秘密を隠すことにしました。夫であるあのかた……始祖の王にさえ明かしていません。わたしの持つ力は世に混乱を招くと兄たちに言われたからです。そしてそれは間違いと言い切れないと思いました。
わたしが持つ力は癒しと命の能力と言われています。でも、実はもう一つあるのです。それは未来を見通す力……ただその力はなんでも見通せるというものではありませんでした。ふとした時に目の前に幻が現れる、その程度のものなのです。
けれど他人はそうは思いません。『そんなことは判らない』と言っても、隠しているのだろうと疑う。どうにか聞き出そうとしてわたしと懇意になりたがり、争う人々まで出てくれば、兄たちが国を憂うるのももっともだったのです。
あなたも知っているでしょうが、予知の力はわたしの国では何百年かに一人現れるものでした。が、グランデジアで暮らし始めて、この地では魔法によっても予知は不可能と言われていると知り、わたしは力を隠してよかったとホッとしました。このままずっと隠していこうと思っていたのです。
しかし……ある日見た予知は、どうしても知らせたいものでした。それはわたしの子どもたちの、そのまた子どもたちの、そしてその先の……ずっと先の子孫に起きる出来事――遠い未来の出来事、何代先だとしても、わたしにとっては可愛い子どもたちの身の上に起きることだったのです。
一計を案じたわたしは自分の見た予知を絵本にすることにしました。絵だけの文字のない絵本。絵本に文字を書くことはできませんでした。文字にすれば始祖の王にわたしの予知能力が知られてしまうかもしれない。予知の内容はとても恐ろしいもので、絵本に書くには似つかわしくない。そこに文章が入れば、始祖の王が気付かないはずはないと思いました。
絵本に合わせてわたしは子どもたちに楽しい話を作って聞かせました。始祖の王はそんなわたしと子どもたちを微笑んで見ていました。わたしの予知能力は知られることはありませんでした。
けれどそうなると、絵本を見ただけでは、わたしが報せようとしている危機は肝心の王子たちに伝わらないのではないか? そこに焦りを感じていました。
その問題を解消するいい案は浮かばず、やがてわたしは自分の死を予知します。海に命を捧げるのが、どうやらわたしの運命のようです。
そこで意を決し、この手紙を認めることにしました。始祖の王はわたしの生まれ故郷の言葉を解しません。だけどきっとわたしがこの手紙に掛けた魔法には気が付き、隠してしまうでしょう。わたしが秘密を持つことを始祖の王は許しませんでした。わたしに愛されているという自信を、いつまでもあの人は持てないでいたのです。あの人は自分が育てたわたしを妻にすることを躊躇い、育てて貰った恩を返すため、わたしは妻になったのではないかと、いつまでも思い悩んでいました。そんな小心さもあの人には有ったのです。あなたのそんなところも好きなのだと、わたしが言っても慰めにしか聞こえないようでした。
だけど、わたしには判っていました。あのかたは必ずわたしの意思を尊重してくれる。そしてこの手紙は黄金の髪の青年が読む。予知の力を持つわたしにはそれが判るのです。ただ、先ほども言ったように、わたしの予知は欠落が多く、特に時の流れはさっぱり掴めないものでした。あなたがこの手紙を読んでいるのがどれほど先のことなのか判っていません。
さて、この手紙を読んでいる青年よ。どうかグランデジアの王子を守るため力を貸してください。わたしが見た予知をお話ししましょう――
【その王子は双子、そして一人には青き鳳凰の印が現れる。双子の王子は瓜二つ、見分けられるのは白き鳳凰のみ……善意と悪意を持って二人の王子に近付く気配は二人の王子の命を奪う。だが鳳凰の力で、一人は蘇る。一人は二人であり、二人は一人である。そして二人は二人でもある。蘇った王子は王となり、グランデジアを未来に続く繁栄へと導く。だが蘇りが起きなければ、グランデジアは滅ぶだろう】
きっと、わけが判らないとあなたは思っているでしょう。わたしの予知はこの程度なのです。だけどその時がくれば判らなかったことも知れるでしょう。
〝その時〟がどれほど先のことなのか……それすら判らないわたしには、この手紙が手遅れになる前に、あなたのもとに届くことを祈るしかありません。
黄金の髪の青年よ。最後にあなたに謝りたいことがあります。
この地に漂着したばかりの頃、国に帰りたいと泣くわたしに始祖の王は〝この大地からは誰も離れられない〟と言いました。だから諦めて、この地で幸せに暮らすことを考えろと言ったのです。
でもそれは、海上では魔法を使えないわたしのための魔法、どうにか帰ろうとして海に出てしまうことを防ぐため、どんな船も沈まぬ、そしてある距離まで行くと自然に陸に戻ってしまう魔法、そんな魔法を始祖の王は未来永劫の魔術で掛けてしまったのです。
このことについてはあなたに謝るほかありません。あなたもこの大地からは離れられない。いくら故郷を夢見ても、二度とその地に立つことはない。どうか許してください。
わたしはこの大地に辿り着き、始祖の王と巡り合い、幸せを掴みました。あなたの国は既にほかの大地からの侵略で滅亡しています。だからあなたは海に身を投げたのだとわたしは予知で知っています。死んだつもりで辿り着いたこの大地、どうせなら幸せに暮らすことを考えて欲しい。生きていれば幸せは、すぐ隣にあるものだとわたしは信じています。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
蔵書庫を出たサシーニャは執務室に戻っている。バチルデアの神官が書いた本は既に白紙、イニャの本も消失した。翻訳の正しさを確かめる術は失われている。それでも書きとめた紙片を何度も読み返す。
イニャが予知した読み手の名はイニャに似た名前、サシーニャに違いない。だが侵略により海に身を投げたのはサシーニャの祖父だ。それに……
一番イニャが恐れていたこと、イニャが後世に伝え、防ぎたかったこと、それはすでに終わっている。伝言は間に合わなかったが、結果はきっとイニャの望みにかなうものだ。
蘇った王子は王となり、グランデジアを未来に続く繁栄へと導く――この言葉をリューデントに伝えるべきかサシーニャが迷う。暫く考え込んでいたが小さな溜息を吐くと、翻訳を書いた紙片と神官に貰った本を宙に浮かべて火を点けた。ジッチモンデの神官には『貰った本は消えてしまった』と、伝えようと思っていた。




