甘い香りの部屋
震える声でルリシアレヤが尋ねる。
「それで、サシーニャは幸せなの?」
するとサシーニャがフッと笑った。
「わたしの幸せは、どこかの王女さまが幸せに暮らしていくことだ」
そして立ち上がる。
「国に帰れ、ルリシアレヤ。決心がついたらカルゲリアに言え。馬車を用意してくれる。急に思い立ってグランデジア旅行がしたくなったとでも言えば、叱られるかもしれないがエネシクルも追い出しはしないだろう」
部屋を出て行こうとするサシーニャ、
「待って!」
ルリシアレヤが呼び止める。
「さっき、わたしを妾だって言ってたよね。妾にするためにここに連れて来たんじゃないの?」
「だから馬鹿だって言うんだ。ここに置く口実だって判らないのか?」
「わたしは妾だっていいって思った」
「妾の勤めが判っているのか? 性欲の捌け口だ。つまり道具、どうせ道具を持つなら、なんだ、そうだな……もっと豊かな胸の女にする」
「な、な、なっ!」
屈辱で真っ赤になるルリシアレヤ、気にも掛けないサシーニャ、
「判ったらさっさとバチルデアに帰れ。グランデジアに居ることすら大問題だ」
居間に通じる扉に触れる。
「待って!」
「まだ何か?」
ルリシアレヤの叫びに、サシーニャは振り向きもしない。
「わたしの幸せはサシーニャの傍にいることなのよ? わたしに幸せになれって言ったじゃない。わたしはサシーニャが居なきゃ幸せになれない」
サシーニャはすぐには答えなかった。だが、
「だったら他の幸せを探せ。おまえならきっと見付けられる――わたしは居間で仮眠を取ったらフェニカリデに戻る。おまえはそこの寝台で休め。いつでも食事が摂れるよう用意させておくから、眠りたいだけ眠るといい」
と、居間に消えた。
サシーニャがフェニカリデの街館に帰ってきたのは、馬を駆って出て行った翌日の夜半だ。今度は気配を消していない。すぐに気が付いたチュジャンエラが厩に向かった。
「サシーニャさま!」
チュジャンエラの呼びかけに、馬を繋ぎ終えたサシーニャがゆっくりと振り返る。が、何も言わずに建屋に入ってしまう。
ルリシアレヤの姿がないことに蒼褪めたチュジャンエラが後を追う。ルリシアレヤはどこかと訊こうとして結界を張ろうとする。が、サシーニャが邪魔ををしているのか巧く行かない。館に入ってから外聞防止術が有効なのを確認すると、叫ぶように尋ねた。
「ルリシアレヤは!?」
立ち止まったサシーニャが溜息を吐く。
「バチルデアに帰しました――自分が何に手を貸したのか判っていますね?」
「いや、その……」
「あの人は、自分がグランデジアに居ることを知っているのはチュジャンとエリザだけだと言っていました。本当ですか?」
「あ、はい、突然ここに来て……」
「どうやってここまで来たか訊きましたか?」
「いえ、聞いていません」
リューデントが知っていると言おうかと、チュジャンエラが一瞬迷う。国王が知っているのだ、文句はあるまい?
だがサシーニャの様子から、ルリシアレヤは失敗したのだと判る。だったらここは奥の手として、リューデントの存在は隠したほうがいいと思った。
「ヘンですね、なぜ訊かなかったのですか? バチルデアからフェニカリデまで、馬を飛ばしても三日はかかる。あの人が一人で来られるとは思えないのに?――でも、まあ、いいでしょう。尋問の魔法を使うか迷ったけれど、やめておきます。聞いたところで、今さらなかったことにはできません。が、あの人がこの館に居たことも、フェニカリデに来ていたことも、一切忘れて口外しないように。協力者がいるなら、その人にもしっかり伝えることです。グランデジアを潰す気か、と」
言い捨てると自分の居室にサシーニャは籠ってしまった。
いったんチュジャンエラも自分の居室に戻ったが、すぐに出かけている。サシーニャに気付かれただろうが、構っていられないと思った。向かったのは王宮・魔術師の塔、ジャルスジャズナの部屋だ。
お誂え向きにジャルスジャズナの部屋にはバーストラテとワダ、そしてハルヒムンドが来ていた。サシーニャがルリシアレヤを連れてどこかに行ってしまったことは昼間のうちに伝えてある。
チュジャンエラの話を聞いてワダが唸る。
「口説き切れなかったか……しかし、たった一日でバチルデアまで行って帰ってくるのは無理だ。それともそんな魔法があるのか?」
「いいや、そんな魔法は聞いたことがないし、多分サシーニャさまでもできないと思う」
チュジャンエラが答えると、
「だとしたら、誰か信用できる相手に預けたとか?」
と、訊いたのはハルヒムンドだ。
「もし預けるとしたら、サシーニャが真っ先に思い浮かべるのは俺だ。が、俺にそんな話は来ていない」
「でもワダ、ルリシアレヤを手引きしたのはワダだと思っていたら、他の人にするんじゃ?」
「あぁ、その可能性はあるな。俺が水路建設の件でバチルデアに行ったこと、サシーニャだって知ってるんだ。真っ先に疑われるのは俺だな」
ハルヒムンドの指摘に、ワダが苦笑する。
ジャルスジャズナが、
「もし、サシーニャが誰かにルリシアレヤを預けるとしたら女だと思う」
と言った。
「いくらなんでも、王女さまを男に預けるなんて考えられない――ルリシアレヤに街人の衣装を着せて、その女と二人で街の馬車屋に出向く。で、バチルデアまで送るように依頼する。女が同行するのはダンガシク・ワースルーまで。馬車が行くのはザザンチャカ門まで。バチルデア国の門衛にルリシアレヤを引き渡せば馬車の役目は終わる……馬車屋が依頼した女の素性を知らなければ、グランデジアで誰に会っていたかをバチルデア側に知られずに済む。どんなに問い詰めようが、知らないことは言えないからね。ルリシアレヤが言わなければだけど」
「でもさ、ジャジャ。男だろうが女だろうが、サシーニャさまにそんな知り合いがいるかな?」
そこなんだよねぇ、とジャルスジャズナもチュジャンエラに頷いた。
どちらにしても、と言ったのはバーストラテだ。
「サシーニャさまがルリシアレヤさまを粗末に扱うとは思えません。必ずご無事でいらっしゃいます」
これには居合わせた全員が頷いた。
ルリシアレヤの所在が判らない以上、様子を見るしかないと結論が出る。次の手を打つにしてもそれからだ。
「サシーニャさまとの間に何があったのか、ルリシアレヤに聞いてみてからだね。バチルデアに本当に帰されたんだとしたら、今回以上にフェニカリデに連れてくるのは難しくなる。その時はララミリュースさまに頼るしかない――さて、僕はリューデントさまに報告してから帰るよ」
立ち上がったチュジャンエラ、
「明日の朝にはまた国内視察に出立だ……もう寝ちゃってるかな?」
寝てても用件を察してすぐ起きるよ、ジャルスジャズナの安請け合いに苦笑して部屋を出た。
「それじゃあ、わたしも――」
チュジャンエラに続いて退出しようとしたバーストラテを引き留めたのはワダだ。そしてバーストラテに
「悪いが、ハルヒムンドの相手を暫くしててくれないか? ちょいとジャジャと話があるんだ」
と、目配せすると、
「わたしでお相手が勤まるか……でもお引き受けします。居室でお茶でも差し上げましょう」
ハルヒムンドを伴って、バーストラテが出て行った。
バーストラテに苦手意識のあるハルヒムンドだ。それでもワダの邪魔はできないと、バーストラテについてきた。きっとワダは、ジャルスジャズナに愛を語りたいのだと思った。
やたらと言葉遣いは丁寧だが不愛想でぶっきら棒、話していても相手を見ようともしない。美人は美人、が女らしさの欠片もない。女性と認識しているが、異性として意識したことはなかった。だから二人きりになるのに躊躇いは感じなかった。その印象が一歩部屋に足を踏み入れた途端、一変される。
白を基調にした部屋だった。よく見ると白い壁紙には淡い色の小花模様が散らされている。角を丸くした長方形のテーブルは明るい色調の木目だが、四隅に控えめに蔦模様が彫刻されていた。長椅子と二脚の椅子の分厚い詰めものは乳白色、肘置きはやはり木目でテーブルと同じ蔦模様の彫刻がある。
部屋の隅には小型のチェスト、これもやはりテーブルと同じ色調の木製、引き出しにも蔦模様の彫刻、上に置かれた花瓶は亜麻色、生けられた花は濃青色でキリリと部屋を引き締めている。そして微かに甘い香りが漂っていた。
「お茶を淹れてきますので、お掛けになってお待ちください」
バーストラテは気にする様子もなく、部屋の奥、半分ほど壁に仕切られた向こうへと消えた。水屋になっているのだろう。
バーストラテはすぐ、盆を持って戻ってきた。丸くコロンとした乳白色の茶差しに、揃いの椀も厚手でコロッとしている。茶差しの蓋と椀の持ち手だけは朱色だ。
(女の子の部屋だ……いや、そりゃそうなんだけど)
男の自分が入ってよかったのか? 急に戸惑いを感じるが、今さらどこにも行けやしない――椀を目の前に置いてくれたバーストラテの細い指を見て、なぜか瞬きしてしまった。
「生の茶葉で淹れたものです。少し渋みがありますが、その分すっきりした味わいです。茶菓子が甘いのであうと思います……どうぞ」
「あ、ありがとう……」
それきりいつも通り黙ってしまったバーストラテ、このままじゃ気まずいと、慌ててハルヒムンドが話題を探す。
「えっと……この茶菓子はなんですか?」
「鳳梨を砂糖漬けにして干したものです」
「そうなんだ? バーストラテの好物?」
「生のほうが好きです」
「そっか……うん? 甘いけど、少し酸味がある?」
「そうです、甘酸っぱい果物です」
「他に好きな食べ物って?」
「探しています」
「探す?」
「食べ物は空腹を満たすだけのもの、味を考えて食べたことがありませんでした。よく噛んで味わって食べなさいと、教えてくれたのはサシーニャさまです。そして好きな食べ物を探すよう言われました」
「それで鳳梨だけは好みに合った? 他は美味しいと思えない?」
「美味しい物はたくさんあります。でも好きだと思えるのは鳳梨なんです」
「そっか……」
なんだか会話が巧く嚙み合ってない気がして、他の話題をハルヒムンドが探す。
「綺麗な花だね。なんて言う花?」
花瓶の青い花が目について、何も考えずにそう尋ねた。
「八仙花です」
「そうなんだ……随分濃い青だね」
「本来の色ではありません」
「魔法で青くしたの?」
「いえ、吸わせる水を染めています」
「花瓶に青い水が入ってるんだ?」
「そうです。でも、思い通りの色にはなりませんでした」
「どんな色にしたかった?」
「夜明け前の空の色」
「うーーん、近い色ではあるよね?」
「でも違います」
この話題も限界だ。ハルヒムンドが次の話題を探す。
「素敵な部屋だね。道具類は親御さんが揃えてくれたの?」
「魔術師のお給金で買い入れました」
「そっか……実家の部屋もこんな感じ?」
「生家には、わたしの部屋はありません。召使部屋に寝台があるだけです」
「えっ? バーストラテって上流貴族のお嬢さんだって聞いているけど?」
「はい、グランデジアで自領持ちは一応、上流貴族に数えられています」
「俺の国でもそうだよ。なのになんで召使部屋?」
「母が召使でした」
「あ……」
この話題も失敗だ……次はどうしよう?




