目指すところ
馬車の中でサシーニャが珍しくウトウトする。ダンガシクからベルグへ向かう途中だ。それでもチャキナムの山村など、民人の姿のある場所ではシャキッとするものだからリューデントを感服させている。
サシーニャがダンガシクに戻ったのは時間ギリギリ、すでにリューデントは出立の支度を終えて馬車で待っていた。ジッチモンデから乗ってきた馬車を降りたサシーニャがリューデントの待つ馬車に乗り込むと、すぐさま軍本部を出発した。
リューデントはジッチモンデでの様子を聞きたがったが、軍本部を出ればダンガシクの街中、沿道には見送りの民人が繰り出している。話す余裕はなかった。チャキナムの山中に入るとサシーニャが、『フェニカリデに帰るまで待ってください』と目を閉じ、ウトウトし始めた。バチルデアに行った目的が目的だけに、さして報告することもないだろうとリューデントも催促しなかった。
ベルグ、モリジナルと街道を上り、その夜はリッチエンジェ泊、宿舎に選んだのはワダ所有の高級宿、サシーニャは着くなり食事も摂らず部屋で休むと引っ込んでしまう。リューデントが話し相手にワダを呼ぶよう宿に頼むが、所用でフェニカリデに行っていると言われてしまった。
(何かあったんだろうか?)
ワダには宿で会いたいと連絡しておいた。なのに来ていないのはなぜだろう?
(巧く行かなかったのか?)
考えるのはルリシアレヤの件だ。
ワダだけでなくチュジャンエラたちも含め、視察先にルリシアレヤのことは報告しなくていいと言っておいた。サシーニャが一緒なのだ、下手に連絡を取り合えば気取られてしまうだろう。二人を会わせるまでは、サシーニャにルリシアレヤのバチルデア出国を知られたくない。だから宿にワダを呼んだ。サシーニャの目を盗んで、例えば経過を書いた紙片をこっそり渡すなどで途中経過を知らせてくれると思っていた。
(まぁ……明日はフェニカリデ、黙っていてもスイテアが詳しく話してくれる。黙れと言っても話すはずだ。話したくてうずうずしているさ)
俺がいないと寂しいか?――拗ねたスイテアの顔が脳裏に浮かぶ。
(おまえが傍にいなけりゃ、俺だって寂しいんだぞ?)
夜の静けさにリューデントがフッと笑った。
いっぽう、休むと言って部屋に引き上げたサシーニャは、ジッチモンデの神官に貰った本に目を通していた。
伝言が仕込まれた本は、表紙を開けばイニャが姿を現し、語りかけてくる。幻でもいいからイニャを見、声を聞きたいと始祖の王は本を持ち去ったのでしょう――神官の言葉に驚愕したサシーニャだ。魔術師の塔でサシーニャを動揺させた、あの本に間違いない。
『その本なら魔術師の塔に有ります。 表紙を開いたら光の粒が現れ、それが女性が姿に変わって語り始めました』
現れた女性は黄金の髪に色の薄い肌、夜明け前の空のような色の瞳、我らが使っているのとは違う言葉で語っていた。
『イニャさまは、なんと言っていたのです?』
色めき立つ神官たちにサシーニャが口籠る。
『それが……判らないのです。子どもの頃は父に言葉を教わり、それなりに理解できていたのですが。すっかり忘れてしまっていて――イニャの姿が消えた後、言葉を解せぬのに無意味と、始祖の王の声が頭の中で聞こえました』
『我ら神官は神殿から出ることを許されておりません。お願いです、その本を貸してはいただけませんか? イニャさまの伝言の内容を知りたいのです』
『できないし無駄です。イニャは伝言の相手の前にしか現れません』
『ならばサシーニャさまもいらして、我らの目の前で開いてください』
『それは無理です』
『なぜ? イニャさまがなんと仰っているか、サシーニャさまは知りたくはないのですか?』
『もちろん知りたいと思っています。でも、イニャの伝言書と考えられる本は蔵書庫の禁書なのです。始祖の王の魔法で蔵書庫から持ち出せません――気の遠くなる話ですが、父が遺したイニャの国の言葉で書かれた蔵書を利用して、なんとか読み解こうと考えています』
蒼褪める神官たちに、サシーニャが尋ねた。
『頭の中に響いた始祖の王の声は、イニャを本に封じたのは自分だとも言っていました。イニャに頼まれて閉じ込めたのだと……先ほどのお話と違うように感じるのですが?』
『イニャさまの伝言書には謎も多いのです。なぜイニャさまは始祖の王に見せるのを拒んだのかが最大の謎です。ですが、お尋ねの件ならこう推測できます。本は開けば誰の前でもイニャが姿を現すと考えられていました。それなのにサシーニャさまは伝言の相手の前にしか現れないと仰る……その原因は、おそらく始祖の王の嫉妬でしょう。イニャさまを他の誰にも見せたくなかったのです。だから出現の魔法が発動される相手を伝言の受け手に限定した。それを〝封じた〟と表現したのではないでしょうか?』
『なるほど……』
少し考えてからサシーニャが再度神官に尋ねた。
『神官さまたちはイニャの言葉を聞き取れもするし読めもするのですね?』
『はい、神官に任じられれば、彼の地の言葉を学ぶのは必須事項でございます』
『習得にはどれほど時間がかかるのでしょう?』
『その者の適正もあるので一概には言えませんが、一年もあればそれなりのところまで達せます』
『その……それは神官でなくては学べないのですか?』
すると神官たちが顔を見交わした。
『もしやサシーニャさま、彼の地の言葉を我らに教えよと?』
『ダメでしょうか?』
『彼の地の言葉の伝授は神官職のみに許されるもの、しかも……先ほど申し上げた保護術もその一つですが、この神殿には不思議な力が働いているのです。実は神官を辞すると数日後には、神官としての体験や知識が消え失せてしまうのです』
忘却術か、とサシーニャが思う。自分がジョジシアスに使った術――同じ術に己の願いが阻まれる皮肉を感じた。
なんとかならないのか、と詰め寄るジロチーノモを『無理を言って困らせてはいけませんよ』とテスクンカが窘める横で、一人の神官がオズオズと言った。
『ならば、わたしの手書きの物でよろしければ本を差し上げましょう』
聞けば神官になって以来十余年、こつこつと書き溜めた彼の地の言葉とこの大地の言葉の対比表だという。
『神殿から持ち出せば、あるいは書かれた文字が消えるやもしれません。それでもよろしければお持ちください』
そんな経緯で譲られた本を、宿で読み始めたサシーニャだ。今のことろ文字が消え失せる気配はない。
(フェニカリデに戻ったら、すぐ蔵書庫に行こう)
せめてイニャの伝言を解読するまでは消えないでいて欲しい。解読できたら報せると本をくれた神官と約束している。
十年以上かけた貴重なものをおいそれといただけません、と遠慮するサシーニャに『礼としてイニャさまの伝言をお教えいただければ本望でございます』と神官は言った。その約束を果たしたい。
(明日はフェニカリデだ)
フェニカリデで何が待ち受けているかも知らずに、サシーニャは本を仕舞い寝室に向かった。
グランデジア魔術師の塔――王家の守り人ジャルスジャズナの執務室でチュジャンエラが溜息を吐いた。
「だってさ、ジャジャ。ハルヒムンドは嫉妬から僕を襲おうとして、挙句サシーニャさまに怪我をさせたんだよ? そんなヤツをサシーニャさまの街館に置いとけるわけないよ」
「本人だって充分反省してるし、アイツの助力もあったからルリシアレヤはフェニカリデに来れた。許してやったら?」
「僕はいやだね……まぁいいじゃん。ワダが引き受けてくれたんだし、サシーニャさまが帰ってきてから相談すれば。それよりジャジャはどうするのさ?」
「どうするって?」
判っていながらジャルスジャズナがしらばっくれる。チュジャンエラも『なんだっけかなぁ』と、自分が訊いたくせに惚けた。
ルリシアレヤがフェニカリデに到着した日、スイテアとの商談を終えたワダもハルヒムンドとともにサシーニャの街館を訪れている。ワダからサシーニャが帰るまでハルヒムンドの面倒を見てやると言われたのはその時だ。
『それじゃ、塔に戻るから』
ワダに目配せし部屋を出たチュジャンエラ、塔に戻るとジャルスジャズナの部屋に行っている。
『無事についたよ――ルリシアレヤが会いたがってる。忙しくなかったらサシーニャさまの街館に行っておいでよ』
どうしてもジャルスジャズナに会いたいというワダの頼みで、ジャルスジャズナにだまし討ちを掛けた。何も知らないジャルスジャズナはサシーニャの街館に出向いて行った。そのあとのことはエリザマリから聞いた。
ワダを見た途端、凍り付いたように動かなくなったジャルスジャズナ、『ずっと待ってるつもりだったが待ちきれなくて迎えに来た。一緒になってくれ』と言うワダに、『わたしじゃあんたに子どもを産んでやれない』とジャルスジャズナが言えば、『子が欲しくて、女房を貰うわけじゃねぇ』とワダが笑う。
それでも
『あんたには、ほかにもっといい女がいるさ』
ワダを拒むジャルスジャズナ、
『そうさなぁ……でもさ、ジャジャさんよ、おまえと一緒になれる男は俺くらいしかいないだろう?』
そう言って、ワダはそっとジャルスジャズナを抱き寄せた。それきりジャルスジャズナは何も言わず、暫く二人はそうしていたらしい。
ようやくエリザマリとルリシアレヤの存在を思い出したジャルスジャズナが顔を赤くし、『今日は帰る』と部屋を出た。エリザマリがジャルスジャズナを追うようワダに言ったが、『焦らなくてもジャジャは俺のモンさ』とワダは笑ったという。
チュジャンエラがジャルスジャズナに『どうするのさ』と訊いたのはワダとのことだ。自信満々のワダだが、その自信はどこからくるのだろう? ジャルスジャズナに訊けば判りそうだが、それも無神経だと訊かずにいるチュジャンエラだ。
フェニカリデ、ワダ所有の高級宿の一室――ワダがハルヒムンドを相手にニヤニヤしていた。
「どうだい、給仕の仕事も楽じゃないだろう?」
「最初から、楽な仕事とは思っていません。代価を払わず世話になることに、気が引けただけです――もっとも俺の働きじゃ宿賃には程遠いのでしょうね」
自分の肩を揉みながらハルヒムンドが苦笑する。
「そりゃあさ、この宿は貴族相手の高級宿だ。給仕係の給金じゃ、一生無理だ。でもな、給仕係だろうと真面目に働けばそれなりの暮らしはできるようになる――だが、あんた、庶民の職に就く気はないんだろう?」
「そりゃあ、まぁ、できれば……」
「できれば?」
ワダの質問に答えられないハルヒムンドだ。今さらながら自分の甘い考えに嫌気がさしていた。




