恋の いきさつ
いずれこうなるのは判っていた。こうなることを望んでもいた。だけどまさか、こんなに早く?――胸を焦がしているのはサシーニャだ。
寝台に横になって目を閉じたところで心は騒ぐばかり、時どきミシミシ音を立てているのは壁だ。このままではいけない。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かしている。気が付けば寝台の上で膝を抱え、寝具をすっぽり被っていた。膝を抱えたほうが自分を抑えられる気がした。寝具を被ったほうが、目を閉じているだけより外界を遮断できると感じた。
コペンニアテツの手紙には婚約者の名はなかったが、相手は王太子妃の弟と書かれていた。ならばきっとハルヒムンドだ。ハルヒムンドは純粋にルリシアレヤを思っていた。王女ではなく一人の女性として慕っていた。
(しかも幼馴染……わたしよりずっとあの人を知っているはず)
ルリシアレヤは幸せな生涯を送るだろう。それこそが一番の願い……そう考えて深く息をすれば少しは落ち着いてくる。それなのに、同時に別の風景が脳裏に浮かんでくる。微笑む二人が抱き合い接吻を交わす。そして……
キリキリと胸が痛み、ミシミシと壁が揺れる。
(何をいまさら? 自ら手放したことなのに)
何度目かの深呼吸、膝を抱き締める腕に一層力を籠めれば壁の音は弱まる。
何も考えるなと自分に命じるが、そう思えば思うほどあれこれ考えてしまう。心は激流を漂う木の葉のように、ある時は流れに沿ってすんなりと進み、ある時は揉みくちゃにされて沈みそうになる。
(忘れてしまえ、あの人のことは何もかも)
手紙だけで心に風を吹かせた人。真直ぐに向かってくる優しさに戸惑いながら何度も文を送りあった人。心に溜まっていく泥のようなものを文字だけで洗い流してくれた。辛いこともいやなことも忘れさせてくれる人は、いったいどんな人なのだろう?
会いたいと思っていたのに、いざ対面することになると知った時、会うのが怖いと感じて、理由を付けて逃げ出した。だけど、一目見ただけで手紙を書いていたのはわたしだと、あの人は見抜いてしまった。
真直ぐに見あげてくる瞳に、思った通りの人だ、プリムジュの花のように明るく愛らしい人だと感じた。あなたねと問われて、心の中では『そうだよ。会いたかった』と答えていたのに口にすることはできず、人に知られるのを恐れ冷たい態度をとるしかなかった。
近づいてはいけない相手だ。それなのにどうしても気にかかる。わざと避けていることを周囲に知られ、その理由を追及されたらまずいからと自分に言い訳して、むしろ機会を見つけては傍に行った。向けられる微笑みがどれほど嬉しかったか。あの微笑みは〝特別なもの〟なんじゃないか、そう感じてそのたび否定した。自分なんかが、と思った。
マレアチナ妃の舞踏会で近寄ってきた女たちは遊び慣れているか、温和しいふりで誘われるのを待っているかのどちらかだった。でもルリシアレヤはそのどちらでもない。純真な少女のままだと思い込んでいた。だからあのバラ園の夜、突然の接吻に驚き、裏切られたような気分を味わった。そして思った。結局、王宮の女たちの多くと同じ、〝王孫の名〟に惹かれただけか……
サシーニャを思い通りに動かせれば、リオネンデが手に入れられなくてもグランデジア王宮への干渉が容易くなる。サシーニャならリオネンデを操ることも可能だと見込んでいるに違いない。
四阿に向かう後ろ姿には誘惑の匂いが漂う。舞踏会で誘ってきた女たちと同じ匂いだ。
初めての女は三つ年上の元魔術師だった。せっかく魔術師になったのに、程なく結婚すると言って魔術師を辞めた女、相談があると言われ既知の気安さも手伝ってついて行った。
物陰に入った途端に始まった肉の誘惑……あなたには夫が、と戸惑うサシーニャに『あの人は死んだわ』と女は言った。動揺と混乱の中、気が付けば女の手を誰にも触れさせたことのない場所に感じ、欲望が止められなくなる。
初めて味わう快楽に我を忘れた。夢中になって女を抱き締めた。終わった時には手放したくないと願い、よく考えもせず結婚して欲しいと言っていた。すると女が笑った。
『久々に見たら男になってたから、ちょっと興味を持っただけ。夫が死んだってのは嘘なのよ』
もちろんその女とは一度きりだ。暫くは忘れられずに悩んだが、その悩みが肉欲からくるものだと悟るのは早かった。
二人目の女は舞踏の途中、やたらと身体を押し付けてきた。柔らかく弾む感触に戸惑い、大きく広がった胸元に向いてしまう視線に困っていると『遊ぼうよ』と女がそっと囁いた。挑んでくる瞳と濡れて光る唇に急速に欲情し、黙って手を引いて庭に出た。
散々楽しんだあと女が言った。
『違うのは見た目だけ……どこか違うのかと思ったら、他の男と変わらないわ。悪くはなかったけどね』
その女とも一度きりだ。
最悪なのは三人目、この時は途中でサシーニャが萎えた。もうすぐ達するというとき、子どもができるのは困ると女が言った。そんなの判っているよと答えようとしたら『黄金の髪の子なんて絶対にイヤ』と聞こえた。途端に消え失せた色欲――何も言わず身体を離し、衣装の乱れを直した。役立たずとサシーニャを罵る女を置いて、振り向きもせずその場を去った。それ以降、王宮に集まる女を相手にするのはやめた。
ベルグで助けた女と深い仲になった時は、貴族の女よりもずっと心が休まると感じた。心から頼り慕ってくれている。だが正妻にするのは無理だ。周囲が許してくれないだろう。せいぜい妾として囲うくらいしかできない。それでもいいと言ってくれたなら妻は持たず、この女だけを愛して生きていくと決めた。
その女も、見た目が判らなかったから慕ってくれたと知った時、もう二度と女を求めるまいと決意した。禁欲を強いられる王家の守り人の役目に就いたのも好都合だ。きっと女が齎す喜びも忘れられる。それ以降、心も身体も女に揺らされることなどなかった。それなのに……
ルリシアレヤに心が揺れた。この人だけはほかの女とは違うと信じた。結ばれない運命に悩み苦しみ、それでもこの人なのだと感じ、この人の力になりたいと願った。
それなのに――あのバラ園の夜、自分から接吻し、男を誘う姿に心が凍った。裏切られたという思いが怒りを呼び、怒りが欲望を呼んだ。そっちがその気なら、こっちだって……果たして弄ばれるのはどちらになるか?
抱き締めたら抱き返してきた。唇を重ねたら、ぎこちなかったが応えてくる。やはりそうかと気持ちはますます冷めるのに欲望は高まって、さらに強い刺激を求めた。それをルリシアレヤが拒絶した。
罠だった?……王の婚約者へのこの振る舞いは咎められても仕方がない。恐怖に似たものを感じルリシアレヤを見ると、自分のしたことに動揺している。その顔がサシーニャに自分の思い違いを教えた。違う、この人に下心なんかない――
思わず顔を背け、考え直す。でも、本当に? この人だって自分の立場は判っているはず。わたしは自分の都合のいいように考えたがっているんじゃないか? だから聞いてみた、何が目的で誘惑してきた?
ルリシアレヤの答えは『サシーニャが好きなだけ』……心は喜びに震えるのに、立場が判っているのかと訊いた。それは自分にも言い聞かせたかったのかもしれない。そして――
やはりこの人は手紙で感じた通りの人、接吻は愛情表現、誘ったのは恋しているから……そうだ、 ゲッコーが言っていたじゃないか。 姫ぎみはサシーニャに恋している、と。
でもダメだ、思いを明かせない。明かせば歯止めが利かなくなる。この人はリオネンデの婚約者、恋仲になったりしたら自分にもこの人にも破滅が待っているだけだ。
拒むサシーニャ、縋るルリシアレヤ、焦れたルリシアレヤが怒りを見せ、思わず振り返ったサシーニャがルリシアレヤの涙を見る。
泣かないで……怯むサシーニャをルリシアレヤが捉えた。心が求めるままに抱き締め合い、接吻を交わした。そして約束した。
(あの約束が間違いの始まりだった……)
膝を抱えて蹲り、頭まで寝具をすっぽり被った闇の中で、サシーニャが思う。考えてみればルリシアレヤとの約束は間違ってばかりだ。
『婚約が解消できるまで、決して誰にも心を知られてはなりません』
『解消できるの?』
『判りません。でも尽力します』
『もしだめだったら?』
『運命を受け入れろとしか言えません』
『そんな――わたしにはサシーニャだけなのに……サシーニャの事しか考えられないのに』
『約束します。ルリシアレヤ以外と愛を語ることはありません』
『サシーニャもわたしが好き? わたしの事だけを考えてくれる?』
『やらなくてはならないことがあります。それが終わったら、あなたの幸せだけを考え、あなたのために生きていきます』
言葉の合間合間に交わされる接吻、その甘さに酔わされていたのに、愛の言葉は言えなかった。自分でもどうしようもないほど好きだ。だけどそれが愛かと訊かれたら素直にそうだと言えなかった。
愛したいと言うよりも愛されることを願っている気がする。婚約解消は難しい、結ばれることはないと、どこかで確信していた。この人は王の婚約者、愛していい相手ではない。この夜きりで忘れなくてはならない。だったら愛しているなどと言わないほうがいい。心に残ってしまうだけだ。
『判った、サシーニャを信じる。愛しているのはサシーニャだと誰にも知られないようにする』
『態度に出すのもダメですよ。今夜のことは忘れなさい。覚えていれば、つい態度や表情に出てしまうからね。出来ますか?』
『うん、頑張る』
夢を見ただけだと、時の流れの中でいつの間にか忘れるだろう。忘れることがこの人のため、そして自分のため――素直に頷くルリシアレヤに、後ろめたさを感じながら忘れるという言葉に安堵していた。
けれど……自分でも気づいていないが、サシーニャも思い切れていない。だから
『恋しくて切なくて、どうしても会いたくなったら泣いてしまうかもしれない』
涙ぐむルリシアレヤに動揺して、いけないと思いつつ、
『そんな時はバラを見にいらっしゃい。都合が合えばわたしもここに来ます。ただしバラ園に入ったことを護衛以外に知られず、ここに他の人がいない時だけ――護衛には口が堅い者を付けるので他言することはありません』
と、密会の約束をしてしまった。




