穢されざる存在
早朝、フェニカリデ西門を二輌の馬車が出て行った。通常、どこかで一泊するベルグへの道程を今日中に着きたいというのだから強行軍だ。それでも、昨日のうちにサシーニャが掛けた魔法で籠の中はそれほど揺れないし、音も響かない。苦労をするのは御者と護衛に就いた騎乗の兵たちだが、彼らと馬にはジャルスジャズナが無疲労術を使っている。
前方を行く馬車の籠には監視役の魔術師ククルデュネとバチルデア国王太子アイケンクスが乗っている。ククルデュネはベルグでコペンニアテツと交代し、サシーニャから預かったバチルデア王宮にあてた書簡とアイケンクスを託す予定だ。コペンニアテツは既に、バチルデア国でやるべきことを、伝令鳥でサシーニャから指示されている。
二輌目の籠に乗っているのは警護の魔術師バーストラテとバチルデア王女ルリシアレヤ、物思いに耽るルリシアレヤをチラチラとバーストラテが盗み見している。
いつでも明るくて、元気なルリシアレヤが今日も沈んだままだ。出立前の空き時間に、バーストラテが『お出かけになりますか?』と水を向けたが、『すぐに発つ時刻になります』と俯いた。昨日、貸与館に戻ってからは一歩も外に出ていない。寝室に入ると鍵を掛けてしまった。サシーニャは気にするなと言ったけれど、どう考えても自分の責任だと思ってしまうバーストラテだ。
バラ園で、サシーニャとルリシアレヤが何を話したのかはバーストラテには判らない。けれど、エリザマリの相手がサシーニャだと誤解しているのは判る。原因を作ったのは自分だ。そしてルリシアレヤが酷く沈んでいるのも判る……とにかく誤解を解かなくてはと思うものの、ルリシアレヤは寝室に籠ってしまい近寄らせてくれない。
それが夕食の時、給仕係がルリシアレヤに
『エリザマリさまのご婚約、おめでとうございます』
と言ってきた。バーストラテは慌てるが、給仕係の口を塞ぐ余裕はなかった。
『てっきりサシーニャさまだと思っていたのに、お相手はチュジャンエラさまだったそうですね。お似合いのお二人ですこと』
見る見る蒼褪めるルリシアレヤ、何も言わずに立ち上がると寝室に戻ってしまう。驚く給仕係をそのままに、追いかけるバーストラテ、この時は部屋に鍵は掛かっていなかった。
寝台に打ち臥せて泣くルリシアレヤ、バーストラテが
「サシーニャさまに会いに行きしょう」
と勧めるが、ルリシアレヤは首を横に振る。
「ダメよ、もうダメ――嫌いって言っちゃったもの。二度と言わないって約束したのに。今度言ったら許さないって言われてたのに」
「そんな……サシーニャさまはそれほど狭量ではありませんよ」
「いいえ、サシーニャは許さない。あなたには判らないでしょうけど、わたしには判るわ。サシーニャはね、繊細で傷つきやすいの。それが判ってて、サシーニャが一番傷つく言葉をわたし、わざわざ選んでしまったんだわ」
泣きじゃくり始めたルリシアレヤ、あなたには判らないと言われ、再び嫉妬を覚えたバーストラテだ。だが、妬みを口にする気にはならず、宥める言葉も無駄だと諦めて、何も言えなかった。それでも朝、再び誘ってみたが、やはりルリシアレヤは聞いてくれなかった。
馬車は容赦なくフェニカリデから遠ざかる。
ルリシアレヤの溜息は何度目だろう? 堪り兼ねたバーストラテが、
「バチルデアからお手紙を差し上げたらいかがでしょう?」
と声を掛ける。
「出しても読んでは貰えないわ」
泣き出しそうなルリシアレヤ、そして
「いつも何も言わないのに、今日はいろいろ言ってくれるのね。気を遣わせてしまってごめんなさい」
悲しげな笑顔をバーストラテに向ける。後ろめたさにバーストラテは俯いてしまった。ルリシアレヤはそれきり黙り、物思いに戻っていった。
俯いたままのバーストラテは昨日のサシーニャを、そして出会った頃のサシーニャを思い出していた。
厄介払いのように生家を出され、魔術師の塔に来た。
魔力はあったようだけど異母兄のように強力なものではなく、せいぜい下働きの魔術師になれる程度だと思っていた。指導係の魔術師も大して期待していなかったようで、魔法の指導よりも『笑顔』でいることをバーストラテに求めた。
笑った事なんかなかった。いや、幼い頃、なぜ笑ったのかまで覚えてないが『醜い顔で笑うんじゃない! わたしを馬鹿にするのも大概におし!』と言って頬を打った人がいる。奥さまと呼ばれていたその人は異母兄姉たちの母親だった。その人はバーストラテの存在自体が醜悪だと言った。
産んでくれた母親は物心つくころには居なかった。生家の使用人の中には同情して優しくしてくれる人もいて、こっそり『あんたの母ちゃんは、奥さまにいびり殺されたんだよ』と教えてくれた。それが真実かどうかは判らない。
その使用人もいつの間にかいなくなった。満足な食事を与えられていなかったバーストラテに、夜中に余り物をくれたのが家人に知られたのだとあとで知った。それからは『関わると首が飛ぶ』と言って、すべての使用人が遠ざかっていった。
十一を目前にして魔術師の塔に行かされると知った時、とうとう追い出されるのだと思った。 同時に、無暗に罵られる生活は終わったと思った。でもそれは間違いで、魔術師になっていた母の違う長兄に見付かれば、わけもなく罵倒された。それでも生家と比べれば、信じられないほど優遇されていると感じた。温かく柔らかな寝具で眠ることができたし、なにしろ満腹を知った。
あれは魔術師の塔に入って三日目のことだ。指導係ではない魔術師が言った。
『そんなに慌てて食べなくてもいいんだよ。ゆっくりよく噛んで。食べることを楽しんでごらん』
食堂の前の廊下で異母兄と話していた魔術師だ。バーストラテに気付いた異母兄が『どうせ味なんか判んないんだから残飯で充分なのに』と厭味を言い、それを悲しげに見た魔術師だ。
話しをしたことどころか紹介すらされていない。だけど知っている。確か筆頭魔術師直属の上級魔術師、名前は……サシーニャ、〝黄金の髪のサシーニャ〟――見習い魔術師からしたら雲の上の存在、それがなんで見習い魔術師の食堂にいる?
理由はすぐ判った。バーストラテの前、つまりサシーニャの隣に座っていた見習い魔術師に用があったのだ。あれこれ話しかけ、優しく微笑んでいる。見惚れているのに気付くと微笑んでくれた。〝だから〟慌てて目を逸らした……数日後、隣に座っていた見習い魔術師と、サシーニャは師弟契約していると知った。それがチュジャンエラだ。
サシーニャの姿をよく見かけるのは、チュジャンエラの様子を見に来ているからだと思っていたが、そうではなかった。当時、塔に入った見習いには問題を抱えた子が多く、サシーニャは指導係に助言と助力をするために、見習いたちを観察していたらしい。そしてサシーニャは一番手のかかるチュジャンエラを弟子とし、二番目に手のかかるバーストラテを直接指導対象と決めた。
『笑いたくもないのに、笑えるはずもないよね』
とにかく笑えと言った指導係とは違うことをサシーニャは言った。指導係の言うことも間違いではない。だけど笑顔が何かを知らないのだから、まずはそこから学ぼう。
『自分の心の動きを知ることから始めましょう。食事が判り易いかな? バーストラテが好きな食べ物はなんだろう? 料理でも菓子でも、バーストラテを和ませてくれる食べ物を見付けてごらんなさい』
何を言われても反応を示さず俯いているだけのバーストラテに、
『話し相手からは目を逸らすのはやめようね。出来るだけ顔を見て話すこと。気恥ずかしいなら最初は相手の口元を見るだけでもいいんだよ』
と、教えてくれたのもサシーニャだった。
空腹を満たすためだった食事が別の目的を持った。ゆっくり噛み締めていけば、調味された味だけでなく食材の味も判るようになっていく。肉なら肉、野菜なら野菜とだけ認識していたものが、なんの肉なのか、なんという野菜なのかが判るようになっていった。
他人の目を見るのは無理だった。どう思われているのかと思うと居た堪れなくなってしまう。それでもやっとのことで口元を見ることは出来るようになった。すると相手の話していることが以前よりもずっと理解できるようになった。
弟子にしてください――初めてそう言ったのはいつだっただろう。
『弟子にしてくれないのは魔力が足りないからですか?』
資質的に魔術師に向かないチュジャンエラ、だけどそのずば抜けた魔力を惜しんだサシーニャが自分で育てるために弟子にしたと聞いた。
サシーニャはいつものように優しく微笑んだ。
『あなたの魔力に不足は感じません。精進次第で上級魔術師になれます』
だったら弟子にしてくれてもいいのではないですか? そう言いたいが言えない。やっと質問を口に出来るようになったのだ。自分から何かを望むなんて、とてもじゃないが無理だと感じていた。
魔術師が異性を弟子にするのは将来の配偶者と考えてのことだと知ったのは、それから暫くしてのことだ。とんでもないことを言ったのだと、恥ずかしくてサシーニャの顔をまともに見られなくなった。
それを訝ったサシーニャに追及され、とうとう白状した言葉は『こんな醜いわたしが身の程知らずな……お許しください』だった。
『誰が醜いのですか?』
サシーニャの声には同情も嘘も感じない。チラリと顔を見ると不思議そうにバーストラテを見ている。
『わ……わたしです。わたしほど醜い者はほかにおりません』
視線を感じたが俯いたままでいると、顔を見せなさい、と言われる。それでもサシーニャを見られずにいると、
『あなたのどこが醜いのです?』
と訊かれた。そして
『心でしょうか? あなたの容姿は人並み以上だとわたしは思いますよ』
と続いた。驚いてサシーニャを見ると真面目な顔でこちらを見ている。
『気分を害するかもしれないけれど、魔術師の塔に引き取る子どもたちはみな、生育環境や家族の状況を調べます。もちろんあなたも調べました――家族から醜いと言われたのを、あなたは鵜呑みにしているのではありませんか? あなたの家族は随分とあなたに冷たかったようですね』
『でも……』
初めて誰かに反論しようとした。が、そこで言葉が止まってしまう。止まってしまった言葉をサシーニャが催促する。
『でも?』
途切れ途切れにやっとのことでこう答えた。
『でも、それは……家族が冷たいのは、それはわたしが醜くて、その……愚かで、そう、生まれてくるべきではなかったからです』
――目頭が熱くなるのを感じた。




