別離の溜息
ジャッシフが悔しげな顔でリオネンデを睨みつける。見返すリオネンデは涼しい顔だ。王宮・王の執務室、リオネンデとともにジャッシフに向き合っているのはサシーニャ、そしてチュジャンエラ。スイテアは部屋の片隅で心配そうに様子を窺っている。
「落ち着くまでって言ったじゃないか……」
リオネンデの命にジャッシフが、珍しく不服を申し立てた。
サシーニャの見立て通り陳情流行も下火となり、政務官を増員したこともあって王宮内も落ち着きを取り戻した。そろそろワズナリテも副大臣の執務に慣れてきたことだし、リオネンデ王の側に戻りたいと言うジャッシフに、リオネンデは
「ワズナリテがいやならマジェルダーナのところへ行け」
と言い放った。
「俺はずっとおまえに仕えてきた。十の時から、もう二十年だ。その俺をリオネンデは遠ざけようって言うのか!?」
「今までよく仕えてくれた。感謝している」
「リオネンデ!」
「それで、ワズナリテとマジェルダーナ、どっちにするんだ?」
「あ……」
リオネンデの冷たさに、力が抜けてしまうジャッシフ、それを気にせずリオネンデが、
「やはりここはマジェルダーナのほうがいいのかな? ワズナリテは副大臣、マジェルダーナは押しも押されもしない一の大臣だ」
と隣に控えているサシーニャに話を振る。
「いっそ、クッシャラデンジではいかがですか? マジェルダーナはジャッシフの伯父、縁故を気にする輩もおりましょう。ケーネハスルはダメです、ジャッシフとの相性が悪そうです」
サシーニャにもジャッシフの気持ちを汲む気配は微塵もない。
ジャッシフにしてみれば、リオネンデとサシーニャは子どものころからの付き合いで、主従関係はあれど友人と思っていた。しかもサシーニャは年下とは言え義兄だ。そんな二人に見放された。ジャッシフの嘆きが深まっていく。
「判りました……」
ジャッシフが掠れた声で答える。
「王の良かれと思うように。元よりジャッシフは命を王に捧げております」
サシーニャの父シャルレニ殺害事件の時、ジャッシフの父親はその警護責任者としてシャルレニと同行しており、共に命を落としている。ジャッシフはその時九歳だった。
翌年、双子の王子の守役に抜擢されたジャッシフは、警護の責を果たせなかった父の汚名を返上する気概に燃えた。自分はなんとしても王子たちを守り抜くと心に誓ったのだ。
後宮の火事でリューデントを失った時の絶望と喪失感、後を追うかと考えた。それを救ってくれたのは、励ましてくれたのはサシーニャだった。ともにリオネンデを守って欲しい、そう言ってくれたのはサシーニャだった。
その二人が、おまえはもう要らないと言っている。なぜだ? 俺のどこがいけなかったんだ? リオネンデに従うと言いながら、胸が詰まり、涙腺が緩む。両手で顔を覆い、声もなく泣き荒ぶ。
そんなジャッシフをリオネンデとサシーニャが冷ややかに眺めている。泣くなとジャッシフを叱るわけでもなく、誰にするんだと答えを催促するわけでもない。表情を変えずに黙って眺めているだけだ。
やがて涙を擦りながらジャッシフが答えた。
「クッシャラデンジさまにいたします」
泣きながら思った。ひょっとしたらリオネンデは俺にその三人のうちの誰かを探らせたいのかもしれない。だとしたらクッシャラデンジ、安易に本音を見せない二の大臣を一番探りたいはずだ。
「必ずリオネンデ王のお役に立ってみせます」
ジャッシフの言葉にリオネンデがサシーニャと見交わす。
「ヤツがいいならそうしよう。が、ジャッシフ。これからは俺の役に立つことよりクッシャラデンジの役に立つよう心掛けよ。そしてヤツから学べ。俺の近くにいるよりも、多くのことを学べるはずだ」
「リオネンデ……」
泣き腫らした目でジャッシフがリオネンデを見る。おまえとの縁はぷっつり切るぞと言ったのか? リオネンデではなく、クッシャラデンジに仕えろと?
わなわなと震える唇、怒りが込み上げてくる。あとになって戻って来いって言われたって、もう戻るもんか! そう叫びたい。けれど叫べない。リオネンデは完全に俺を切り捨てた。言えば自分が惨めになる。リオネンデが呼び戻してくれることはもはやない。
恨み、怒り、嘆き、そしてその根底に敬愛を残すジャッシフの複雑な眼差し、それを受け止めてリオネンデが命じる。
「ジャッシフに二の大臣クッシャラデンジの副官となることを命じる――判ったらここに来るようクッシャラデンジに伝えろ」
ジャッシフは目を閉じると深く息を吸った――
スイテアが何も言わずにハチミツを溶かした熱い茶をリオネンデの前に置く。添えたのは鷹の爪でピリリと辛くした塩漬けの茄子だ。憔悴しきったジャッシフは既に退出している。
「良かったのですか?」
重く沈むリオネンデとサシーニャに、チュジャンエラが静かに訊いた。
フン、とリオネンデは鼻を鳴らしただけ、代わりにサシーニャがハチミツ茶を啜りながら答えた。
「本当の目的を話したら、ジャッシフは断固として拒絶したと思います」
バイガスラとの戦を終えてからの事を考えたリオネンデとサシーニャだ。それには最悪の場合、つまりリオネンデとサシーニャ、二人しての落命も想定しないわけに行かない。
勝算はある。グランデジアの敗北はないと見ている。だが、リオネンデとサシーニャの目的は戦勝以上にジョジシアスとモフマルドへの制裁、そのために軍を離れ二人でバイガスラ王宮の奥深くまで潜入することを考えている。実行すれば二人が生きて帰る見込みはぐっと減少するだろう。
勝ち戦ならば仇敵を捕らえて断罪することも可能だ。だがそれはできない。それではジョジシアスたちがしたことを白日のもと、明らかにすることになる。そうならないためには、やはり戦場のどさくさに紛れさせるのが最善だ。
リオネンデもサシーニャも討死するつもりなどない。だが、こればかりは絶対と言い切れない。いつかサシーニャが『刺し違えてでも』と口にしたが、思いはリオネンデも同じだ。生きて帰って来られないこともあると覚悟した。ならばその備えが必要だ。
国王と王子を亡くせば、たとえ戦勝国でもグランデジアは大きく揺れる。ジッチモンデとプリラエダはともかく、コッギエサはニャーシスを通じて内政干渉を企ててくるかもしれない。
一番の不確定要素はバチルデア、兵を起こし、バイガスラ、もしくはニュダンガに攻め込んでくるかもしれない。あるいは亡き国王の婚約者を理由に、ルリシアレヤ王女にグランデジア王位を継承させよと無理難題を吹っかけてこないとも限らない。
そんな諸外国を退けるには『国王の存在』が不可欠となる。他国の動きを置いておくとしても、国家は『王の名において』動くものだ。グランデジアが早急に必要とするのは新国王だ。
ジャニアチナを国王とし摂政を据える――リオネンデとサシーニャの考えは一致している。実際問題として残された王族はレナリムとレナリムの子二人のみとなるのだから、その三人から選ぶのが順当だ。
そしてレナリムは後宮に長くいたとはいえ政治向きにはとんと疎い。それは子どもたち、マドリアーレアとジャニアチナとて同じだが、とうに成人しているレナリムに摂政を置くことはできない。そして女児のマドリアーレアよりも男児のジャニアチナのほうが周囲の理解を得やすい。問題は誰を摂政にするか、だ。
これについてもリオネンデとサシーニャの意見は一致している。ジャニアチナの父親にしてリオネンデの側近ジャッシフ――
チュジャンエラがサシーニャに問う。
「ジャッシフさまとて真意をお伝えすれば納得したのではないですか?」
するとリオネンデが肩で笑った。
「チュジャンはジャッシフを良く知らないからそんな事が言えるんだよ」
サシーニャもリオネンデに賛同する。
「ジャッシフは何を置いてもリオネンデ、なんです――そんなジャッシフがリオネンデにもしもの事があったら、なんて冷静には考えられないし、そのあとの事なんかもっと無理な話。しかも今のおまえでは摂政を任せられないなんて言ったら、どうなる事か」
「でもサシーニャさま。リオネンデさまもサシーニャさまも、ジャッシフさまに摂政をとお考えなんでしょう?」
「そうさ、その通りさ。でもな、チュジャン、ジャッシフは俺の傍にずっといて、政治についての知識は豊富だが、実践はないも同然。そして自分で判断する機会にも恵まれてこなかった」
「クッシャラデンジのもとでそのあたりを学んで欲しいとリオネンデもわたしも考えているんです。それと同時に大臣たちとの渡りもこれでつく……王の側近ではなく、政治家の一人と周知することにもなります」
リオネンデとサシーニャの説明に
「でもジャッシフさま本人は、そのあたり、ぜんぜん判ってないようでしたよ?」
とチュジャンエラは納得しない。
「なぁに、ジャッシフの事だ、ちゃんとそのうち気付く」
「少なくとも、万が一のことが起こり、摂政になった時には思い至ります」
「ジャッシフさまが摂政に選ばれないなんてことはないの? マジェルダーナさまとかクッシャラデンジさまが就任されたりは?」
「ジャジャが承知しているのです。他の人になんかさせませんよ」
「それになんでジャッシフさまが副官になる相手をクッシャラデンジさまにしたんですか?」
「ヤツは俺から遠いからだ。考え方が俺とは違う。それがジャッシフにはいい刺激になるだろう。マジェルダーナでもよかったが、伯父ではジャッシフを甘やかしてしまわないとも限らない」
「摂政は自分ではなくマジェルダーナにと言いそうな気もします。クッシャラデンジの副官にしておけば、マジェルダーナを摂政にとは言い出せないでしょう」
「ケーネハスルさまは候補にもなっていませんでしたね」
チュジャンエラの苦笑に、
「彼の良いところは、貴族だと威張り腐っている割に、感覚が人間臭いというか、庶民寄りなところです。父親の愛人だった女を自分の屋敷から追い出せなかったり、自分も愛人を囲っているけれど、それが奥方に露見するのを恐れていたり、ね」
サシーニャがうっすらと笑む。
「あれ? サシーニャさま、こっそりケーネハスルさまを調べましたね?」
チュジャンエラの指摘に、どうでしょうね、とサシーニャは惚けるだけだ。
その夜、王の寝室――何度も溜息を繰り返すリオネンデに優しく寄り添うのはスイテアだ……
『大丈夫、リオネンデさまの隣にはわたしがいつでもおりますよ。それに……ジャッシフさまはきっと判ってくださいます』




