魔法解除の副作用
フェニカリデ・グランデジア、筆頭魔術師サシーニャの街館、身体を丸めるように縮こまり、頭まで寝具に潜り込んでいたサシーニャがおもむろに頭を出した。そしてウンザリと溜息を吐く。窓にはしっかり厚帳を降ろして、外はとっくに明るくなっているのに寝室とはいえ薄暗い。
誰かが館に入ってきた。まだ朝は早い。誰がなんの用で来たんだろう? 少し気になったが確認するのに魔法を使えば症状が悪化する。来客の対応はチュジャンエラがするだろう。来客が誰で、なんの要件かは、あとで訊けばいいことだ。チュジャンエラは出かけるだろうが、それにはまだ少し時間がある。再び寝具に潜り込んで目を閉じた。
帰都して今日で三日目、リオネンデには戻ってすぐに報告に行き、翌日から三日ほど休むと伝えてある。つまり明日まで休暇を取ったという事だ。
リオネンデに報告したあと、街館に戻ってすぐに酔い止めの魔法を解いた。その反動で強烈な吐き気と頭痛に悩まされ、苦しみ続けている。こうなることを見越しての休暇だ。魔法の副作用は魔法も薬も効かない。眠るのが一番だが、苦痛が眠りを浅くする。じっと耐えて症状が消えるのを待つしかない。
頭痛はすでに治まったが、胃の中が空にも拘わらず吐き気は消えない。チュジャンエラは昼間、魔術師の塔に行ってしまうが、館に戻ればあれこれ世話を焼いてくれる。さっきも部屋に来て汚物の始末をしてくれた。
ボロボロ状態のサシーニャが、またも寝具の中から頭を出した。さっきの来客をチュジャンエラは追い返せなかったようだ。制止を振り切って、サシーニャの居室に近付いてくる気配がある。あの様子では強引に部屋に入ってきそうだ。魔法で施錠してしまおうか?
「だから! 明後日にはサシーニャさまも出仕しますから! 会うのはそれからでいいでしょう?」
「すぐに会いたいの。具合が悪いって聞いたら、気になって当然でしょ?」
来客がサシーニャの居室の扉に手を伸ばす。
「どうせ魔法で施錠してます、開きま……」
呆気なく開いた扉にチュジャンエラが言葉を失い、ニンマリと笑った来客が居室に入る。
「寝室はあそこね?」
「いや、ちょっと……」
どんなに具合が悪くても、サシーニャなら気配を察して施錠すると思っていた。事実、帰宅した夜はチュジャンエラでさえ部屋に入れて貰えなかった。翌朝、様子を見に行くと扉が開き、こんもりとした寝具の中からサシーニャの泣きそうな声が聞こえた。『ごめん、片付けて……』
そんなサシーニャは初めてだった。自分でもどうしようもないほど辛くって、僕に頼るしかないんだ……すぐに魔法を使って部屋を掃除し空気を入れ替え、水分補給ができるよう水差しの用意した。それが昨日だ。
リオネンデへの報告には一緒に行った。そして一緒に館に戻った。
『これから自分に掛けた魔法の解術をします』
居室に籠る前、サシーニャはチュジャンエラに『どんなに苦しんでいても耐えていれば三日で症状は消えるから心配することはない』と笑った。わたしのことは放っておけばいい、いつも通り出仕するように、そう言ったのにチュジャンエラを頼ってきた。きっと、全部自分で出来ると見込んでいたのだろう。サシーニャが思っていたよりも反動は大きかったのだ。だから施錠みたいな簡単な魔法も使えないでいる。そしてサシーニャは、苦しむ自分を誰にも見せたくないはずだ。
そう思ったチュジャンエラが、
「だから! ちょっと待って。だめだってば!」
来客の前に立ちはだかって寝室の扉を開けるのを阻止しようとする。
「でもチュジャン、扉、勝手に開いたわよ?」
「えっ?」
驚いて振り返ると、確かに内開きの扉がうっすらと開いている。
恐る恐る中に入ると、明らかに血色の悪いサシーニャが寝台で上体を起こしてこちらを見ている。枕元に用意しておいた吐瀉物用の器がない。閉めてあった厚帳も払われ、薄帳越しの柔らかな光が差し込んでいる――ふぅん、無理をしてでも会いたかったんだ? 馬鹿馬鹿しくなって、チュジャンエラは何も言わずに寝室から出て扉を閉めた。
出ていくチュジャンエラに目もくれず、来客はサシーニャにゆっくりと近づいていく。
「帰都したって聞いて、昨日、魔術師の塔に行ったの。お休みなのは旅で疲れたからだと思ってたのに――さっき、サシーニャさまは体調不良で暫く休むらしいよって召使たちが噂してるのを聞いて、慌てて来たのよ」
「うん」
自分を見詰めるサシーニャに、触れそうなほど近付いて来客が覗き込む。
「酷い顔だわ。辛いのね……」
「うん」
「あとでチュジャンには謝るわ。これじゃあ、止めたくなるよね」
「うん」
「何か食べたい物はない? それとも飲み物がいい? 用意するわ」
「ううん」
「熱があるの? 目の端が赤いわよ?」
「ううん」
「なんの病気かしら? 魔法で何とかならないの?」
「うん」
「……さっきから何を訊いても『うん』か『ううん』ね」
「……」
「寂しくて会いたくて、やっと会えたのに冷たいのね。わたしに会いたくなかったの?」
首を微かに横に振ったサシーニャが、来客から目を離して俯いてしまう。
「あ……責めてるんじゃないの。ごめんね、具合が悪くて辛いのよね」
来客が手を伸ばし、俯いたサシーニャの肩を抱こうとする。
「!」
その手をいきなり振り払い、来客を突き飛ばしたサシーニャが、寝台の反対の端に落ちそうなほど身を投げ出す。
「そんな……」
サシーニャに拒絶されたと感じた来客が蒼褪める。
実のところ、来客を迎え入れるのに厚帳を開けるなど部屋に使った魔法が症状を悪化させていた。治っていた頭痛が再発し、さらに吐き気が強まっている。耐えるのに必死でロクに返事もできなかった。会いたくなかったのかと聞かれ、違うと言う替わりに首を振ったら、ガンガンと頭を打ち付けるような痛みを感じ俯いてしまった。
急な接触に動揺したことで猛烈な悪心に襲われ、つい来客を突き飛ばした。慌てて寝台の向こう側に退避して、消しておいた器を魔法で出現させた。でも胃の中は空っぽ、苦しいだけで何も出てこない。
死角になっている寝台の向こう側でそんなことになっているとは知らない来客、拒絶で飽き足らず、できるだけ遠ざかろうとしているのだと受け取った。しかも肩の震えから笑っていると誤解した。
「そう……そうなのね? わたしの気持ちを笑うのね?」
驚きが怒りに変わる。
「帰ります!」
サッと身を翻す気配、サシーニャが必死に声を絞り出す。
「行かないで……」
「えっ?」
戸惑う来客の耳に、扉の向こうからため息が聞こえた。
部屋を出たものの、やはり気になって様子を窺っていたチュジャンエラだ。とうとう見かねて扉の向こうから声を掛ける。
「サシーニャさまはね、魔法の後遺症。自分でかけた魔法の副作用だよ。だから魔法でも薬でも治せない。耐えるしかないんだ。しかも魔法を使うと悪化するのに、あなたを部屋に入れるのに使ったし、寝てりゃあいいのに起きてるし、返事はしないんじゃなく、できなかったんだよ」
「そうだったの?」
来客が扉の向こうに訊きながらサシーニャにも訊いている。それに答えずチュジャンエラが続ける。
「症状は頭痛と吐き気。居たいなら黙って座ってるんだね。サシーニャさまは返事できる状態じゃないんだ。それと、サシーニャさま! 強がってないでちゃんと横になっててください。眠らなきゃ、症状が長引きますよ――それじゃごゆっくり。僕は魔術師の塔に行く時刻だ」
遠ざかるチュジャンエラの気配、来客がサシーニャに近付いて
「馬鹿……」
と呟いた。
ようやく少し吐き気が治まり、寝台から落ちそうだった身体をサシーニャが元に戻すと、来客は椅子を持ち出して腰かけていた。
「チュジャンの言いつけを守らなきゃ。眠ったほうがいいんでしょう? 自分で横になれる?」
頷いて横たわったものの、サシーニャは来客から目を離さない。
「眠らなきゃダメって言われたでしょう?」
言われれば目を閉じるもののサシーニャは、すぐにはっと目を開けて来客の姿を探す。何度目かに、躊躇いがちに寝具から手を出してきた。察した来客がその手を握る。
(会いたかったよ――愛してるって凄く言いたいのに、声を出したらまた吐き気がしそうで言えない)
来客を見詰めながらサシーニャが思う。尤も、こんな状態で言われたら向こうもきっと迷惑だろう。
(不思議だ。いてくれるだけで心が落ち着いて熱くなる。安心できる。辛さも薄まってる。なんだか眠れそうだ……)
静かにサシーニャが目を閉じた。どんな治癒魔法より、恋心は強力な魔力を秘めているらしい――
サシーニャのバラ園で白バラの群生を眺めていたルリシアレヤにエリザマリが声を掛けた。
「こちらにいらしたのですね? 貸与館にいないからどちらに行かれたかと心配してたんです」
ゆっくりとルリシアレヤが振り返る。
「急にバラが見たくなったの。館には入れないけれど、サシーニャさまが庭になら入れるようにしてくださって。いつでもバラを見に来ていいって」
「えぇ、ご外遊にお出かけになる前でしょう? それを思い出してここかなって来てみたんです。バラを荒らさないように言われたわ、って怒ってらした」
「そうなのよ、わたしがお庭を荒らすわけないのに――ねぇ、このバラ、魔術師の塔の裏に咲いてるバラと同じじゃない?」
「あら……そうね、同じに見えますね。なんていうバラなのかしら?」
「札が立ってるわ。〝秘めた想い〟って書いてあるわね。エリザマリの恋みたい」
「わたしは思いを秘めたりしてませんよ。秘密にしているのは相手が誰かって事だけです」
「それで秘密の恋人には会えたの?」
「えっ? どうして彼に会いに行ったって判ったんですか?」
「だって、エリザったらすごく嬉しそうなんだもの――まぁいいわ。そろそろ帰りましょうか?」
門に向かうルリシアレヤ、従うエリザマリ、ふいにエリザマリが
「綺麗……」
と呟き、ルリシアレヤが足を止める。
「ルリシアレヤさま、そんな髪飾り、お持ちでした?」
ルリシアレヤは芯が黄色で薄紅色の花弁の花が、三つ並んだ髪飾りを着けていた。
「あぁ……普段使いにいいでしょう?」
「はい、控えめなのにとっても綺麗で可愛い……花弁は薔薇石英でしょうか? 黄色は黄玉石かしら?」
うっすら微笑んでルリシアレヤが呟いた。
「プリムジュを模っているらしいわ」
サシーニャの寝室に、手を握ってくれた人はもういない。穏やかな眠りについたサシーニャの顔をしばらく見詰めていたが、帰ったようだ――




