日常こそ
草案はすぐに仕上がった。もともと細かい条件まで提示しているのだから、それを約定書として書き直すだけで造作もない。
内容は樹脂塗り器の取引方法――
総数千余りの器を三回に分けて納品する。バイガスラ領ラメアリス港にてバイガスラ国に品物を引き渡し、バイガスラ国が代金をジッチモンデ国から受け取ったのち国境まで商品を陸路で運び、ジッチモンデ国に引き渡す。
代金の総額と三回に分割された商品の明細と価格が明示される。費用は、港で引き受けてからジッチモンデに受け渡すまでの保管料と運送料はバイガスラの負担、その負担は仲介料から支払うこと、そしてバイガスラが受け取る仲介料が明記されていた。
グレリアウスに細かい指示を出しながら文章を作成させるサシーニャ、どうにも気怠げだ。魔法の効果で二日酔いはないが、酔わないのをいいことに飲み慣れない酒を相当量飲んでいる。それに寝足りない。起きてから湯を使ってみたが不調は大して変わらなかった。
サシーニャの不調をグレリアウスたちはどう受け止めたのか、腫物に触るような接し方をする。昨夜のことを誤解しているのだとは思うが、面倒だし時間もないので放置したサシーニャだ。
約束の刻限にテスクンカが迎えに来、グレリアウスを伴ってジロチーノモの居室に赴く。
「ジロチーノモさまはお元気になられましたか?」
尋ねるサシーニャにテスクンカが少し考えてから、
「晴れ晴れとしたお顔をなさっています」
と含羞んで答えた。
相変わらずジロチーノモは面紗で顔を隠していたが、公にする時を待っているのだろうとサシーニャは思った。
約定書は主にグレリアウスとテスクンカで協議した。その合間にサシーニャはこっそりジロチーノモに訊いている。『巧く行きましたか?』……酔い潰れて眠ってしまったふりをしなさいとジロチーノモに入知恵したのはサシーニャだ。
『テスクンカさまを呼んでわたしは帰ります。そのあと、なぜサシーニャを帰したのだとテスクンカさまを責めるのです』
テスクンカさまは慌ててサシーニャを呼びに行こうとするでしょう。それを引き止めて、おまえはここにいろと、おまえでなければダメだと言うのです。それでテスクンカさまには伝わります……
呼びに行くつもりが急に現れたテスクンカに慌てたが、きっとジロチーノモは巧くやったのだろう。サシーニャの問いに答えはしなかったが、頬を染めてニヤリと目で笑った。
グレリアウスが上手に辞退し、その夜の酒盛りは回避できた。残念そうなジロチーノモに『わたしがお相手いたします』とテスクンカ、瞬時見つめ合った二人に、サシーニャは心の中で微笑んでいた。
翌日、閣議の様子までは判らないものの、ジロチーノモは閣僚を説き伏せてくれたようだ。噂では、ジロチーノモには誰も逆らわないらしいから、ひょっとしたら取引条件を説明して『こうするからな』とジロチーノモが一声言って決定したのかもしれない。急な閣議で大臣がすぐには集められず、始めたのは昼過ぎ、知らせが来たのは夕刻前、協議する時間などなさそうに思えた。
その夜はジロチーノモからの誘いはなかった。大臣たちとの折衝で疲れたのかもしれない。夕食の手配に来たテスクンカが『ジッチモンデの最後の夜をお楽しみください』と言った後、今日は星空が美しいですと呟いて帰った。
シルグワイザは星降る都――名もなき山の緑が空気を澄み渡らせ、どこよりも美しい星空が見えるという。なるほど、庭に出てみると名もなき山をくっきりと縁取って煌めく星々、それが夜空に広がっていく。美しさに思わず溜息が出た。
「テスクンカさまに感謝ですね。見ずに帰るところでした」
グレリアウスがそっと呟いた。
翌朝、ジロチーノモが署名した三通の約定書を持って、ジッチモンデ王都シルグワイザをあとにした。車寄せまで見送りに来たジロチーノモが涙ぐみ、馬車に乗り込むサシーニャを引き留めてギュッと抱きついた。それだけでも周囲を驚かせたのに、笑ってそれを抱き返したサシーニャがさらにみなを驚かせる。
来た時と同様の隊列で、逆の道筋を辿って行く。サシーニャが昨夜のジロチーノモの様子を話し始めたのは国境の門を出て、森が深まってきた頃だった。それまで誰も言葉を発せず、気まずく押し黙っていた。
ワダがゲラゲラと笑う。
「なんでもっと早くその話をしなかった? その上、あの別れ際。てっきりそのなんだ、何かあったかと思っちまったじゃないか」
「いえいえ、わたしはそんなこと、思っていませんでした。サシーニャさまがジロチーノモさまに好きにさせるなんて有り得ないって言ったんですよ」
必死に弁解するグレリアウスにサシーニャが苦笑する。モスリムがボソッと『噂は噂に過ぎないんですね』と言ってワダに蹴飛ばされた。街の噂『サシーニャは男女問わず行ける』を想定してのモスリムの言葉だった。
順調に馬車は進み、バイガスラ王宮近くにあるワダ所有の宿に落ち着く。使いを出してジョジシアスの都合を問えばすぐにでも、と返事があった。
サシーニャの顔を見て喜んだジョジシアスだったが、ジッチモンデで約定書を作成してきたと聞いて表情を硬くした。が、文面を確認すると笑顔が戻る。すぐにでも署名しようというのをモフマルドが止め、サシーニャもゆっくりご検討くださいと言えば、閣議に掛けねばならないなとジョジシアスも納得する。
閣議での了承を得て、必ず署名したものを送ると確約するジョジシアス、モフマルドもケチの付けようがない約定書に同意するしかなく、何も言わずに頷いた。
宿に残した者たちを迎えに戻ると、チュジャンエラの飼い鳥カイナが来ていた。プリラエダの承諾した日は明日と書かれていて、さして休む間もなくすぐに出立する。ニュダンガ・ダンガシク軍本部到着は深夜、仮眠のみで翌朝にはリヒャンデルに挨拶する暇もなくプリラエダに向かう。国境に迎えの者を行かせるとプリラエダは通達してきたが、かなり早い時刻を指定していた。
一級魔術師にはリオネンデへの報告書を持たせフェニカリデへと先発させた。ワダとモスリムはダンガシクの自分の店に帰った。ワダとはプリラエダから戻って再び合流する約束になっている。
プリラエダに行くのはサシーニャとグレリアウスの二人、騎乗となる。サシーニャの個人的な訪プリラエダなのだから、大勢引き連れるわけにはいかない――
「なんとも美しい建物ですね」
プリラエダ王宮を見上げてグレリアウスが呟いた。白亜の宮殿は艶やかさはないものの、白く鈍い光を放つ。だが一転、内部の床は磨き上げられた石敷きだった。壁はやはり白亜で、その対比が不思議な空間を生み出している。
謁見の間でサシーニャを待っていたのは国王スザンナビテと王妃の姪ドレスティナの二人だった。
「サシーニャさま、お久しゅうございます」
ドレスティナは最後のニュダンガ王シシリーズの妃だった女だ。
「お元気そうで何よりです、ドレスティナさま。お子たちも健やかですか?」
ニュダンガを滅ぼしたのはグランデジア、先導を務めたのはサシーニャだったと目されている。が、王妃を見捨てたニュダンガ王に対し、サシーニャは王妃とその子どもたちを丁重に扱い、故郷プリラエダへ帰還の道を開いた。ドレスティナはその温情を忘れていないし、プリラエダ王スザンナビテもサシーニャの人となりを義姪から聞かされ、妻とともにサシーニャに感謝していた。
プリラエダ王宮での懇談は極めて和やかなものだった。特にドレスティナは大乗り気で、スザンナビテを苦笑させている。国王ともなればサシーニャの申し出の裏にあるものを考えないわけにはいかない。
「この件はリオネンデ王はご存知か?」
「はい、もちろん承知――しかし本決まりになるには検討ののちに出される正式な許しが必要かと存じます」
「ふむ……王族の配偶者ともなれば国を動かしかねない案件、ごもっともな話……しかし、少なくとも除外対象ではないと考えてよろしいのですね?」
「リオネンデ王は決して戦を好むものではありません。諸国と友好でありたいと願っています」
「諸国を従えるのではなく?」
「従える? 従属させることを仰っているのでしょうか?――その国にはその国の事情、また風土の違い、様々な相違がございます。一緒くたに統治するのは難しいと考えますが、いかかですか?」
「なるほど。我がプリラエダは貴国の何代かの前の王に背いて建国した。それを忘れようと仰るのですね?」
「いまさら昔の話をなさるのですか? 忘れたりはしませんが、貴国は既に国として成立している。それを蒸し返しても双方に利はないでしょう。ただ……」
サシーニャがスザンナビテを見据える。
「王が王の勤めを忘れ民を蔑ろにし、国土を荒れさせるようなことがあれば、貴国に限らずリオネンデ王は民を救うべく立ち上がることでしょう」
サシーニャたちは昼前にはプリラエダ王宮を出ている。多忙の中、スザンナビテがなんとか作った時間だったのだ。だから早い時刻の面会だった。
スザンナビテは積極的にサシーニャの配偶者候補を探すことを約束している。是非ともプリラエダからグランデジアの王族の妻を選んで欲しいとさえ言った。
「ドレスティナ……」
王宮の高い位置にある窓辺で、国境に向かうサシーニャを目で追いながらスザンナビテが義姪に語っている。
「サシーニャと言う男はおまえの言った通りの男だった。おまえがもう少し若くて子持でなければ、おまえを行かせたいくらいだ。そうしたらわたしはあの男の義伯父になれただろうに」
と笑い、
「リオネンデ王にも是非お目にかかりたいものだ」
と遠い目をした――
その足でダンガシクのワダの店に向かう。そこでグレリアウスとは別れ、ワダと合流し、寸詰街道からチャキナム街道と進み、ベルグを目指す。グレリアウスはそのままリヒャンデル軍に戻り、通常の任務となる。夜には妻子と再会するできるだろう。
ベルグで一泊するか迷ったが、馬を替えるだけにしてモリジナルまで足を延ばすことにし、そこに宿を取った。モリジナルに用があった。
二人で宝飾店に行って貴族の娘が普段使いにする髪飾りをサシーニャが選び、ワダが購入している。筆頭が女物を購入したと噂されないため、サシーニャに頼まれての事だ。ワダが立て替えた代金は後日返還する約束だ。
「女の気を惹きたいのなら、もっと豪華なもののほうがいいと思うよ」
「いつでも身に着けていられるものがいいんです」
照れるサシーニャ、ワダはニヤニヤしただけで、それ以上追求せずにいた。




