華やかな笑い
朝靄の森に二人の影がぼんやり浮かぶ。
「寒くはありませんか?」
気遣うのはサシーニャ、
「いいえ、むしろヒンヤリして気持ちいいわ」
答えるのはルリシアレヤだ。
エリザマリったら、ぐっすり眠ってるみたい。扉を叩いたけれど起きてこないのよね……そう言って待ち合わせたダイニングに現れたルリシアレヤに『乗り慣れない馬車で疲れたのでしょう』と答えたサシーニャだ。ルリシアレヤが扉を開けて中を確認していないことにホッとしている。
『わたし一人でも森に連れて行ってくださる?』
『もちろんですよ』
ルリシアレヤが森に行っている間に、こっそり部屋に戻りなさい、エリザマリにはそう言ってある。すぐに帰られてはエリザマリと鉢合わせになり兼ねない。ルリシアレヤを連れて宿を出たサシーニャだ。
宿の庭は自然のままの森に、歩き易いように平らな石を適宜置き、起伏のある場所は木杭で石を固定した階段になっている。背の高い針葉樹が真っ直ぐ上に伸び、見あげると木の間から遠く朝ぼらけの空が見えた。歩くにつれ野鳥の囀りが移り変わっていく。
「声はするけど姿は見えないのね」
「そうですね。だけど……案外あちらはこちらが見えているかもしれませんよ」
ルリシアレヤの手を引いたサシーニャがのんびりと答えている。鳥の声をじっくり聴きたいのか、いつもより言葉数が少ないルリシアレヤに合わせているようだ。
時おり立ち止まっては鳥の声に耳を傾け、足元に咲く花や苔に気を取られる。
「あまり日差しは届かないようだけど、ちゃんと花が咲いているのね」
「どんな植物でも陽の光が大好きというわけではないのです。日影が好きなものもいれば、湿ったところが好き、乾燥したところが好きと様々です」
「そうなのね……草は、好きなところじゃないと巧く育たないってこと?」
「そうですね、自然の中では育たないでしょうね。適した環境ではないのに栽培したいときは工夫しなければなりません」
「人が手を加えればちゃんと育つの?」
「果樹園に行った時、温室をご覧になったでしょう?」
「なるほど、そう言うことね――サシーニャさま、わたしのこと、温室育ちだと思っているでしょう?」
苦笑するサシーニャ、
「思っていませんよ」
と答える。
「嘘だわ」
「嘘ではありません――確かに大事に育てられたお姫さまとは思っていますが。ルリシアレヤさまは甘やかされただけではないでしょう? 王族としての知性と理性を併せ持っていらっしゃいます。我慢することもよくご存じだ」
「我慢なんか、できなくてもよかったのに……」
その呟きにサシーニャは答えなかった。
「サシーニャさまは湧水にお入りになった?」
「いいえ、わたしは行きませんでした。チュジャンは行ったようですね」
「行けばよかったのに……湧水のところは空が開けていて、星が綺麗に見えたわ。今夜は行く?」
「部屋にもバスの用意はありますし、きっと行かないと思います」
「どうして行かないの?」
「部屋にいったん落ち着いてしまうと、動くのが面倒になるんです」
クスリとルリシアレヤが笑う。
「嘘でしょ?」
「本当ですよ――つい最近、妹にもサシーニャは嘘が好きだと言われました。なんでそう思われるのか心外です」
「レナリムさまに? それはサシーニャさまが頻繁に嘘を仰るからでは?」
「わたしは嘘なんか滅多なことでは言いませんよ? ただ……すべてを話さないこともあるだけです」
「それじゃ、好きなのは嘘ではなくて隠し事? なにかを隠していると感じて、それを嘘と思うのかもしれないわね」
「隠し事が好きなわけでもありません。わざわざ相手が混乱したり悲しむようなことを言いたくないだけです」
「そうなのね……わたしにも隠して言わなかったことがあるのかしら?」
それには苦笑したサシーニャだ。
「えぇ、ありますよ。多分ね」
「多分、なのね」
クスッとルリシアレヤが笑う。
探索路は森を周回していた。木立の隙間から宿の建屋がちらほらと見え始めれば、終わりが近い。
「散歩にはちょうどいい距離ね。お腹が空いてきたわ。朝食が待ち遠しいな」
呟くルリシアレヤにサシーニャが、
「朝はお好きな時に召し上がれるよう、ダイニングに用意されています。このまま真っ直ぐ行きましょう」
と微笑む。
「こんな早くに用意できているの?」
「夜明けに森を散策するから、帰ったらすぐ食べられるようにと宿にお願いしておきました」
「本当? 嬉しいわ――サシーニャさまもご一緒してくださる?」
「お一人ではお寂しいでしょう? ご相伴いたしますよ」
「じゃあ、急いで――」
早足になりそうなルリシアレヤ、が、危ないとサシーニャが止める前に早足をやめて、ゆっくりな元の歩調に戻す。
「ううん、ゆっくりでいいわ」
「おや、もっとお腹をすかせますか?」
「そうじゃないの――サシーニャさまと二人きりだなんて、今度はいつになるか判らないもの」
「ルリシアレヤさま……」
「二人きりだなんてバラ園以来ね」
サシーニャの歩みが止まる。ルリシアレヤも足を止め、サシーニャを見上げた。
「ねぇ、サシーニャさま。あのバラ園でわたしに言ったことにも嘘はない?」
ルリシアレヤを少しだけ見つめてからサシーニャが目を逸らす。
「バラ園での出来事は、すべて忘れるお約束。何を言ったか忘れてしまいました」
「あら、それは完全に嘘だわ」
クスクス笑うルリシアレヤに、
「何を話したかは忘れました。でも、お約束したことは忘れていません。その約束の内容も――だからルリシアレヤさまも、約束を忘れてはなりません」
真顔で答えるサシーニャだ。
「そうね、覚えていていいのはあの約束だけですものね」
やはり真顔でルリシアレヤが言った。
ダイニングに行くとエリザマリが来ていた。散策に遅れたことを謝り、心配でここで待っていたと言う。
「わたしがダイニングに行ったのにチュジャンが気が付いて……一緒に待ってくれました」
眠そうな顔のチュジャンエラがエリザマリの横で会釈する。
「それじゃあ四人で朝食にしましょう」
「申し訳ないが、エリザマリさまがいらっしゃるなら寂しくはないでしょう?」
部屋に戻って少し休みたいとサシーニャが言い、チュジャンエラも欠伸を噛み殺す。
「僕はもう少し眠りたいなぁ」
二人、連れ立って部屋へ戻ってしまった。
「エリザももう少し眠りたい?」
「いいえ、わたしはお腹が空いてしまって……」
「そう言えば昨夜、あんまり食べてなかったものね。何を悩んでいたの?」
「ううん、もう解決しました。心配かけてすみません」
「そうなの? それならよかった」
言いたがらないことを根掘り葉掘り聞くルリシアレヤではない。機嫌よく朝食の席に着く。
部屋に向かったサシーニャとチュジャンエラ、
「巧く行ったみたいで良かった」
と言うチュジャンエラに、苦笑するだけのサシーニャだ。
「サシーニャさまもお休みになるのですか? 起こしたほうがいいですよね?」
「いいえ、もう寝ませんよ。朝食に行くとき、声を掛けてくれればいい」
「お茶くらい淹れましょうか?」
「自分で淹れます」
「怒ってますか?」
「少しはね」
目の前で扉をばたりと閉められて、苦笑したチュジャンエラも自分の部屋に戻っていった。
朝食も済み、お茶を楽しむルリシアレヤ、隣で欠伸を噛み殺すエリザマリに苦笑する。
「よっぽど疲れていたのね。早朝に森を探索するのは今日だけにするわ」
「そんな……明日は頑張ってご一緒しようと思ってたのに」
「ただの森よ?」
「でも、靄って素敵だったって……いろんな野鳥の声も聞こえたって」
「明日も朝靄が出るとは限らないわ」
「靄らなければ、野鳥の姿が見えるかもしれませんよ?」
「上手に葉陰とかに隠れてしまうんじゃ?」
エリザマリが何度目かの欠伸をしてから
「ルリシアレヤさまは、もう行きたくないってことですね」
と諦めた。ルリシアレヤが気拙そうな顔になる。
そんなことよりも今日は宝飾店に連れて行って貰えるのよね、とすぐに明るい表情に戻したルリシアレヤ、
「どんな品物があるのかしら?」
と、話を変える。
「宝飾店ですから、宝石の類?」
「エリザ、さすがにそれは判るわ」
「指輪とか襟飾りとか、耳飾り?」
「耳飾りと言えば、魔術師さまたちは耳に開けた穴に耳飾りをなさっているわね」
「よくは判らないけれど、正式な魔術師になると耳に穴を開けるのですって」
「痛そうよね?」
「魔法を使うから痛くないそうです――その魔法は自分で掛けるんですって。自分の身体に傷をつける魔法を使えるようになって一人前ってことらしいですよ」
「随分と詳しいのね?」
「えぇ、チュジャンに聞いたんです」
「あら、いつの間に? チュジャンだったら訊けばペラペラ喋りそう」
「ね?」
若い女の子が二人してクスクス笑う。
「今日のサシーニャさまは黒くて透明感のある石を付けてらしたわ。昨日は金剛石だったけど。あれはなんて言う石なのかしら?」
「黒曜石だってチュジャンが。僕のは月の雫だよって。正式な魔術師になった時、サシーニャさまにいただいたんだって嬉しそうに言ってました」
「待っている間に話したのね? チュジャン、昨日は何だったっけ?」
「昨日も月の雫でしたよ」
「あら、よく見ているのね」
「えぇ、綺麗だなって思って、それで朝、訊いたんです」
「エリザが自分から訊いたの? 珍しいわね。ま、チュジャンは話し易いものね」
「はい、それにお優しいし」
「サシーニャさまとどっちが優しいかしら?」
「サシーニャさまもお優しい……それに大人って感じます。だけど少し素敵過ぎて近寄りがたいかも」
「サシーニャさまは素敵?」
「チュジャンが言ってました。サシーニャさまはとてもおモテになるって」
「チュジャンの言う事じゃあてにならないかも?」
「ま!? でも確かに……チュジャン自体がサシーニャさまのこと、とっても好きみたいですものね」
再びクスクス笑いがダイニングを華やがせる。
と、ルリシアレヤのクスクス笑いが不意に止まる。
「あら、綺麗な髪飾りね、初めて見るわ」
あっ、とエリザマリが髪に手をやる。
「えぇ、今日初めて着けてみたんです。可笑しくないですか?」
「可笑しいわけないじゃない、よく似合ってる。紫水晶? 墨壺を模ってるのね、素敵よ」
「石の種類は判らなくって……貰った物なんです」
「へぇ、誰から?」
ニヤニヤするルリシアレヤに、
「誰からかは忘れました」
泣きそうな声でエリザマリが答える。
「贈物は貰ったのにフッちゃったのね?」
またもクスクス笑いを始めるルリシアレヤ、エリザマリは真っ赤になって俯いていた。




