馬車に揺られて
ベルグ街道を下りリッチエンジェを過ぎると荒野の向こうに険しい山々が見え始める。スカンポ山脈だ。
スカンポ山脈がベルグ街道へ山裾を徐々に近づけ、間近まで迫ってきたあたりがモリジナルになる。山々はそこから再び遠ざかり、ベルグのあたりでは遥か遠くに見える。
カルダナ高原の向こうに行くにはキャッシズ街道を使う。ベルグ街道からモリジナルで分岐してスカンポ山脈の山裾をぐるりと回り込むキャッシズ街道は、かつてのゴルドントとの国境の街キャッシズまで伸びていた。
キャッシズからカルダナ高原に向かうと高原の手前にグランデジア領ボポトリスがある。ボポトリスは完全に軍人の街でグランデジアの領地を守るためだけに存在していた。
旧ゴルドントとの国境は、実は曖昧で、キャッシズからボポトリスに向かう線上で終始小競り合いが勃発している状態だった。その小競り合いへの対応と、もっと重要なのがカルダナ高原を奪われて、グランデジアの重要都市ベルグに攻め込まれない備えがボポトリスという街の役目だった。
キャッシズからこのボポトリスに側道が新設されたのはゴルドンド制圧後、現在ベルグから見て、カルダナ高原の向こうに行くにはキャッシズ街道から側道を使い遠回りをするか、ベルグから出てすぐベルグ街道から分岐する通称〝モリグレンの細道〟を通るしかない。
ゴルドンド制圧によりボポトリスは役目を終えたと言っていい。だが、そのボポトリスにも新たな役目が与えられることになる――
五頭立てで籠も大型、そんな馬車が二輌、モリジナルへの道を急いでいた。昨夜はリッチエンジェに一泊し、朝発てば昼過ぎにはモリジナルに到着するはずだったが、『どうせならリッチエンジェも見物したい』と朝になってから急に言い出したララミリュースのお陰で、モリジナルの宿に知らせた時刻をかなり過ぎている。
二輌の馬車には、前の車輌に二人の上級魔術師、バチルデア王妃ララミリュースと王女ルリシアレヤ、そしてそれぞれの侍女、後ろの車輌にはバチルデアの護衛兵五人と分乗し、一等魔術師は御者席の隣に座して馬車をそれぞれ守っていた。
「お腹が空いたのではありませんか?」
チュジャンエラが自分の隣に座るルリシアレヤの侍女エリザマリを気遣っている。
「もうすぐ着きますよ――着いたらすぐに食事にして貰いましょう」
エリザマリが答える前にそう言ったのはサシーニャだ。自分に向けられたサシーニャの微笑みにエリザマリが頬を赤く染める。
ララミリュースとその侍女カガモリクは窓側の席に向き合って座り、窓の外を眺めては何やら笑いさざめいている。ララミリュースの隣にはルリシアレヤ・エリザマリと並び、カガモリクの隣にサシーニャ・チュジャンエラと並ぶ。
途中、馬車に酔ってしまったルリシアレヤとエリザマリに酔い止めの魔法を使いましょうと言ってサシーニャが手を差し出した。おずおずと手を重ねたルリシアレヤの『不思議……魔法って凄いのね。すごく楽になったわ』と感嘆の声を聞いて、遠慮していたエリザマリもサシーニャに手を任せた。
遠慮は無用ですよと微笑むサシーニャに、礼だけ口にしたエリザマリがやはりこの時も顔を赤くしている。
「エリザマリはね、父親と兄以外の男の人と手を繋いだことがないのよ」
だから恥ずかしがっているの、サシーニャの手を握りしめたままルリシアレヤが言えば、
「魔法をかけているだけです。男と手を繋いだなどと思ってはいけませんよ」
とサシーニャ、言われたエリザマリは俯いただけだった。
それから二人はずっとサシーニャに手を握られたまま馬車に酔うこともなく過ごしている。
「どうしてお母さまたちは酔わないのかしら?」
「ララミリュースさまもカガモリクさまも母親、肝が据わっておられるのです」
チュジャンエラの言葉に、母親は酔わないなんて話は聞いたことがないと、こっそり笑うのはサシーニャだ。
漸くモリジナルに到着し、宿の車寄せに乗り入れて馬車が停まる。宿は木造でフェニカリデに並ぶ建物とはずいぶんと違う趣を醸し出している。窓から見える帳は薄布ではなく、細い糸で透かし模様を編んだものだ。
車寄せの向こうにはスカンポの山に続く森が広がり、遠く見透かせば苔むしているのが判る。緩やかな風は緑を帯びて清々しい。
チュジャンエラが真っ先に馬車を降り、続いて降りたサシーニャが『ご婦人の手助けを』と言い置いて、後続の馬車に向かう。護衛兵たちは一様に蒼褪め、言葉少なにやっと立っている状態だ。サシーニャがその一人一人に声を掛け肩にそっと触れていけば、見る見るうちに護衛兵たちの顔に生気が戻っていく。
「ご気分はよくなられたでしょう? すぐに食事の用意をさせます」
そう言って戻っていくサシーニャの後ろで、『ホントだ』と、護衛兵たちが顔を見交わす。『そう言えば腹減ったなぁ』と情けなく呟く声もある。
馬車を降りていたルリシアレヤがそれを見ていて、
「わたしたちにもあの魔法でよかったんじゃないの?」
と、戻ってきたサシーニャに尋ねた。傍らでは、まるで上流貴族の館にいる使用人頭のような服装の男が、ララミリュースたちに何やら説明を始めている。男はきっと、この宿の支配人だろう。
「ルリシアレヤさまたちに施術したのと同じ、状態を正常に戻す魔法です。ただ、馬車に乗っていれば再び酔ってしまいます。だから施術し続けるため、手に触れさせていただきました」
「馬車の中で、ずっと魔法を使っていたの?」
「そう言うことになりますね」
「それじゃあ、お疲れでしょう? 大変だったわね」
ここでクスッとサシーニャが笑う。
「美しいお嬢さん二人の手を握っていて、疲れたとは言えませんよ」
「まぁ! サシーニャさまでもそんな冗談を仰るのね。それに、握っているのではなくって魔法を使っているのだってエリザマリに言ったわ」
「あ、そうでしたね。忘れてました――宿の中に入るようですよ」
見ると支配人に案内されて、ララミリュースとカガモリク、護衛兵たちが宿の中へと入っていく。先にお行きなさいとサシーニャに促され、ルリシアレヤとエリザマリがそれに続く。
「ルリシアレヤさまは苦手だったんじゃないの?」
最後になったサシーニャとチュジャンエラ、ひそひそとチュジャンエラがサシーニャに話しかける。
「今日のサシーニャさまは機嫌がいいよね?」
「旅行のお供で来ているのです。不愛想では興醒めでしょう」
「そりゃあそうだけど……急用で来ないんじゃなかった?」
「リオネンデから同行するよう命じられれば拒めません――わたしが来ると何か不都合でもありましたか?」
「えぇ!? そんなことありませんよぉ!」
慌てて言い繕うチュジャンエラだ。
夕食は、ララミリュースたちバチルデアのご婦人とサシーニャ・チュジャンエラの六人は宿のダイニングで、残りはそれぞれの部屋に用意された。バチルデアの護衛たちにも慰労をと考えての旅行だ。ララミリュースたちと一緒では心ゆくまでのんびりとはできないだろうと配慮した。旅行中は護衛をグランデジアにお任せくださいと、リオネンデからも通達している。二人の一等魔術師も護衛兵たちと同じ扱いにした。馬車の御者には宿が使用人部屋を提供していた。
「車寄せの奥に見えた森の中に湧水があるのでしょう?」
行く気満々のララミリュースに
「湧水に行かれるときは一等魔術師二人がお守りします。必ず四人ご一緒でお願いしますよ」
と、サシーニャが釘をさす。単独行動はするなということだ。
「あぁ、それで護衛の魔術師は女性だったのね」
「女性とは言え魔術師です。並の兵士よりは信用できる護衛と思召しください」
「湧水もいいけれど」
と言ったのはルリシアレヤだ。
「あの森も素敵ね。お散歩できるのかしら?」
「散策路が設えてあると聞いています。今日はもう遅いので、明日の昼間にでもご案内しますよ」
チュジャンエラが答えた。
「昼間じゃなくって、朝早くがいいわ。朝露でまだ濡れているうちに」
「それって夜明け直後ですか?」
戸惑うチュジャンエラ、サシーニャが、
「そんなに早い時間ならチュジャンエラは眠っていたいのでは?――わたしがご一緒しますよ」
助け船を出す。
「いいのですか?」
ルリシアレヤとチュジャンエラが声を揃え、もちろんとサシーニャが頷く。
「エリザマリも一緒に行くでしょ?」
ルリシアレヤがエリザマリに話しかけると、ご一緒しますと答えたものの、もじもじするエリザマリ、ルリシアレヤに何やらそっと耳打ちする。それを聞いたルリシアレヤがニッコリし、サシーニャを見る。
「サシーニャさま、お願いがあるのです――エリザマリがどうしてもサシーニャさまに聞いていただきたい話があると申しております。しかも今でなければ間に合わないとか……聞いてやっていただけますか?」
さすがに戸惑うサシーニャ、チュジャンエラとつい顔を見交わす。が、周囲を見渡して、
「それでは向こうの席に――あそこなら、話声も届かないでしょう」
広いダイニングの離れたテーブルを示して立ち上がる。
サシーニャとエリザマリを心配そうに見守るチュジャンエラをルリシアレヤが笑う。
「心配?」
「えぇ……エリザマリさまはサシーニャさまにどんなお話が?」
「さぁ? それよりチュジャンエラが心配なのはサシーニャさま? それともエリザマリ?」
「サシーニャさまに決まってます……サシーニャさまって頼られるのに弱いから」
「あら、そうだったの?」
サシーニャたちに気を取られていたチュジャンエラは、ルリシアレヤが少し寂しそうな顔をしたのに気付かない。
ララミリュースとカガモリクが酔いも手伝って賑やかに話す声で、サシーニャたちの話はまったく聞こえない。何かを懸命に訴えるエリザマリ、穏やかな笑みを浮かべて黙って聞いているサシーニャ、やがてエリザマリが話し終え、サシーニャがやはり穏やかに何か言っている。エリザマリはそれに何度も頷いている。
そのうち、サシーニャがエリザマリの頭を軽く撫で、エリザマリは嬉しそうな笑顔を見せた。話しはそれで終わったようだ……
その深夜――
寝静まった宿の廊下、こっそり部屋を抜け出したエリザマリが迷いの中で歩いている。二人の一等魔術師は気づいていたが、知らんふりをするようサシーニャに言われているので動かない。しかも途中でエリザマリの気配は消えた。誰かが魔法を使ったのだ。
やがて目指す部屋の前でエリザマリが立ち止まる――まだ迷っていたのに扉が開き、そっと抱きすくめられ部屋の中に引き入れられる。扉の閉まる音、穏やかな抱擁、そして夢のような接吻……大事にするよ、優しい声に導かれ寝室に向かった。




