冷めない魔法
『さしーにゃ、白イ花、白イ蕾。会イタイ、会エタ。嬉シ――コレ恋』
恋、と聞いてサシーニャがゲッコーを見詰める。
『コレガ恋。姫ギミ、幸セ』
「なのに今日は泣いていた?」
『さしーにゃ、泣カセタ。知ランフリ』
「ルリシアレヤがそう言ったの?」
『知ランフリ、言ッタ。判ッテ、知ランフリ』
「そうですか……」
サシーニャがごろりと長椅子に横たわる。
「それでいいのですよ……思った通り、ルリシアレヤは賢いかたですね」
『ヨクナイ! さしーにゃ大嘘ツキ』
「またそれですか? なんでわたしを嘘吐きと言うんだか……」
『自分ニ嘘ツク大嘘ツキ』
それからしばらくゲッコーは
『さしーにゃ、泣カセタ』
を繰り返して長椅子の背凭れを行ったり来たりし、サシーニャは寝ころんだまま、そんなゲッコーを眺めては溜息をついていた。
何度目かの『さしーにゃ、泣カセタ』で、
「ゲッコー、もう判ったから、籠に入って寝たらどうです? わたしを虐めるのにもそろそろ飽きたでしょ?」
と、とうとうサシーニャが音をあげた。
『さしーにゃ、寝ルカ』
「もう少し起きているかな」
『姫ギミ、心配シテ』
「ヌバタムが今夜はルリシアレヤに付ききりでいてくれるそうです。心配なんかしませんよ」
『フン!』
ゲッコーが羽搏いて自分の籠の上に飛んでいった。
『さしーにゃ、ヤッパリ大嘘ツキ。自分ノ代ワリ、猫、行カセ』
そう言うと、さっさと籠に入り出入口を閉める。
『鍵、忘レルナ』
「えぇ、忘れず鍵をしますよ。テーブルを齧られたら堪りませんからね」
『ヒョッ! ちゅじゃ、何カ言ッタ?』
「チュジャン?」
『ちゅじゃ、大好キ、さしーにゃノ次』
クスリと笑うサシーニャ、昨日ゲッコーがテーブルを齧ったことは、魔法の痕跡で判っている。朝、目覚めてすぐに気付いた。テーブルに修復魔法を使ったのはチュジャンエラで間違いない。
ゲッコーが夕食時にチュジャンエラを歓迎したのは悪戯を内緒にしてくれたことが嬉しかったからだ。このまま知らないことにしておこうと思いながらゲッコーの籠に施錠し、目隠し布を被せる。
「おやすみ、ゲッコー」
『げっこー、寝タヨ』
ほどなく、寝室の扉が開いて閉じる音がゲッコーの耳に届いた。
部屋着に替えて寝台に横になる。まだ眠る気にはなれなかったが、何かする気にもならない。とりあえず、継続魔法が有効なのを確認する。継続魔法の大部分が解除されているのに気が付いたのも今朝の事だ。全てかけ直したが、手落ちがないか確かめたあと、ついでに王宮の庭を見渡す。既知の警備兵以外、庭を歩く者はいない。
(まだルリシアレヤは泣いているんだろうか?)
部屋を覗き見る魔法を使うか迷ってやめる。泣いていたとしても何かしてやれるわけではない。
右掌を上に向け、両目を覆うように置く。
「これが恋……か」
そっとサシーニャが呟く。
恋していることに喜びを感じた。だから嬉しい。それが昨夜。そして今日、現実をまざまざと思い出し、ルリシアレヤは泣いている。
『楽しい時間は続かないものだわ』
蘆橘捥ぎを終えるときのルリシアレヤの声が思い出される。
自分にとっての〝楽しい時間〟はルリシアレヤとの手紙だった。でも、それはもう終わってしまった。文通が再開されることはない。
「これが恋……か」
もう一度ゆっくりと、噛み締めるように呟いた――
ペリオデラがサシーニャを訪ねてきたのは朝食を終えた直後だった。塔の出入口で揉めているのを感知したサシーニャが、チュジャンエラを迎えに行かせ、自分の居室に通している。
「呼ばれてきたのに、筆頭さまに訊いてからでないと通せないと言われて参ってました。チュジャンエラさまのお姿を見た時には心底ほっとしましたよ」
「申し訳ありません。立ち番に言っておくのを忘れました」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ早朝に申し訳ない……筆頭さまに呼ばれるだけでも名誉なのに」
畏まるペリオデラに、何を言っても社交辞令の繰り返しになると感じたサシーニャが、早速本題に移る。翌日に控えた閲兵式の打ち合わせだ。午前中を指定したとはいえ、こんな時間に来たのはペリオデラの予定が詰まっているからだと察してもいる。早く終わらせてやらねばならない。
客人が飽きない程度の時間でできるだけ華々しくして欲しいと言うサシーニャにペリオデラがいろいろと提案し、そのほとんどをサシーニャが了承した。
「では委細はお任せします。王にはわたしから伝えておきますので――明日はよろしくお願いいたします」
サシーニャの言葉にペリオデラは恐縮し、すぐにでも予行演習を始めますと帰っていった。
そのあとは執務室に移り、厨房監督のポッポデハトスと打ち合わせ、街館に出向く人数と人員を決めた。これもポッポデハトスが決めていた事をサシーニャが承認するだけだった。
街館の食器を使うなら早めに行って、使う食器を選びたいと言うポッポデハトスに、
「正午から守り人さまと打ち合わせがあるので、それが終わったらすぐに向かいましょう」
と答えたサシーニャだ。
「全員と食材を乗せられる馬車を、正午に塔の正面へ回す手配をしておきます。打ち合わせが終わったら行きますから、必要なものを積み込んで馬車で待っていてください」
「えっ? 筆頭さまも馬車に同乗なさるのですか?」
これにはサシーニャが苦笑する。
「わたしとチュジャンエラは馬で行きます――客人と守り人さまは夕刻、馬車で来て貰いますから」
安心するポッポデハトス、チュジャンエラがソッポを向いてクスリと笑う。
ポッポデハトスが退出したあとはチュジャンエラが厩舎に行って馬車の手配を済ませた。執務室に戻るなり
「ジャジャが来るまで休憩しましょう――喉が渇いたのではありませんか? お茶を淹れますね」
と、お茶の支度を始める。自分が飲みたいのだなと察したサシーニャだが、そうとは言わず、
「ありがとうチュジャン。冷たい物がいいと我儘を言ってもいいですか?」
チュジャンエラに注文する。
「それくらいで我儘なんて言ってるから、僕の事を我儘って言えるんですね」
変な冗談でチュジャンエラがサシーニャを笑わせた。
「それ、チュジャンは我儘じゃないって聞こえますよ?」
「えぇ、僕は結構我慢強くて我儘なんて言いませんから」
発酵させた茶葉と桜桃の実をポットに入れて熱湯を注ぐ。
「ハチミツはどうします?」
「チュジャンに合わせていいよ」
「ほらね、僕が我儘なんじゃなくって、サシーニャさまが僕を甘やかしてるんです」
「あれ? そう言われるとそんな気がしてきました」
くすくす笑うサシーニャに、『本当にもう!』と拗ねながらチュジャンエラも笑ってしまう。
熱い桜桃茶を、氷をたっぷり入れた椀に注ぎ、桜桃の実を一粒放り込む。
「贅沢なお茶ですね」
クスクス笑いが止められなくなったサシーニャが、椀の桜桃の軸を摘まんで口に入れた――
日没までにはまだ間があるが、すでに篝火が焚かれ、テーブルに並べられた皿には蝿帳が被せてある。サシーニャの街館だ。
供応する料理はすべて出来上がっていて、手伝いに呼んだ魔法使いたちは乗ってきた馬車で魔術師の塔へ戻った。残っているのはサシーニャとチュジャンエラの二人だけだ。
館の広間に面した出入窓から続く露台に料理は用意されていた。出入窓を塞ぐように横並びにされたテーブルに大皿で並べられている。窓には帳が降ろされ、館の中を窺えないようにしてあった。
露台の周囲は様々な植栽に溢れ、庭に降りれば右手奥に広がるバラ園に繋がっている。
「八仙花が蕾を着けてる……」
チュジャンエラの呟きに、
「もうすぐ雨期、八仙花の季節がやってきます」
サシーニャが答える。準備が整った露台の椅子に腰かけるのはサシーニャ、顎を乗せた肘を立てている丸い小テーブルは、取り分けてきた料理を座って食べるためのものだ。チュジャンエラは露台から降りて、咲く花を眺めている。
「バラ園にもご案内するのですか?」
「ご要望があれば、拒めないと思います」
「通路の脇に可愛い花が咲いてますね、これは?」
「花滑莧の事かな? 色とりどりの小さな花でしょう? 踏まないように気を付けなさい。滑りますから」
「滑るのに通路脇?」
「父が植えたものなのだけど零れ種でどんどん増えてしまい、今では庭中あちこちで咲いてます。石畳の隙間にも生えてくるから、それは抜いていますよ」
「サシーニャさまがってことですよね?」
「驚くことはないでしょう? 魔法を使うので造作もありません」
「あぁ、なるほど」
「手作業だと、この広さの庭はいくらなんでも大変すぎます――馬車が南裏門を出ました。玄関でお迎えしましょう」
王宮南裏門は、裏門と言ってもなかなか立派なものだ。門を出ると道を隔ててサシーニャの街館が建つだけで他には何もない。だが、しばらく行けば中央広場に出られるし、反対側はサシーニャの館をぐるりと周回してコルヌス大通りに繋がっている。裏通りと言えど道幅も広く、人や馬車の通行はそれなりにある通りだ。
「あら? もう止まってしまったわ」
館に入るため方向を変えようと停まった馬車を、ルリシアレヤが不審がる。
「お屋敷に着いたのですよ」
ジャルスジャズナが微笑んで答える。
「えっ? もう?」
窓から身を乗り出して後方を確認するルリシアレヤ、
「こら! 端ない!」
驚いたララミリュースが止めるが間に合わない。
「今、出てきた裏門がすぐそこ……サシーニャさまの街館は王宮のお隣なのね」
馬車が動き出し、慌てて座るルリシアレヤがほっこりと笑んだ。
馬車は車寄せではなく建屋の横を抜けて、庭に面した場所に停まる。降りてくる女性たちに手を貸すのはチュジャンエラだ。簡単な挨拶を交わし、サシーニャが庭の散策路を露台へと案内する。馬車は静かに車寄せに移動した。
露台が見える場所まで来ると、テーブルの蝿帳がふっと消えた。サシーニャが魔法を使ったのか、それともチュジャンエラか? 湯気を立てている皿があるのは、冷めない魔法を使ったからだ。
ララミリュースにはジャルスジャズナ、ルリシアレヤにはチュジャンエラがそれぞれついて、料理や食べ方の説明している。いちいち自分で料理を取り分け、それを小テーブルに運んで食べるのは面倒がられるかと危ぶんでいたが、考えてみればバチルデアの風習に似ていなくもない。あちらはテーブルには着かず立ったまま食するという違いだけだ。
ララミリュースはきっとサシーニャに話しかけてくる。後ろ盾の件を詰めたいはずだ。話しかけ易くするため、この形式を選んだサシーニャだった。




