傷を負った魔法使い
先ほどの件は、あれで終わりにしたはずだと、礼も謝罪もリオネンデは許さなかった。王の執務室、ララミリュースとルリシアレヤを迎えての食事会の席で、サシーニャに礼を言おうとしたララミリュースをリオネンデが止めた。
「でもそれでは……」
気が済まないと言うララミリュースに、
「サシーニャは自分の役目を果たしたまで。礼も謝罪ももともと不要です」
リオネンデは取り合わない。サシーニャ本人もリオネンデの言を繰り返せば、ララミリュースも引っ込むしかなかった。
この時、ララミリュースはごく普通にサシーニャに向き合っていて、大きな前進と喜んでいるリオネンデ、もちろん口にしないし表情にも出さない。
いっぽう、サシーニャのほうは不自然ではない程度にララミリュースを避けていると、リオネンデは感じている。これに関しては後でスイテアの意見を聞こうと密かに考えていた。
ララミリュースのあとに、自分もサシーニャに礼を言おうと思っていたルリシアレヤはリオネンデの制止にがっかりしている。母親が遠慮したことを自分がするわけにはいかない。が、同時にホッとしてもいる。迎えに来たリヒャンデルに案内されて王の執務室に行くと、サシーニャはすでに来ていた。その姿を見た途端、心臓が音を立て始めてサシーニャに近寄ることに不安を感じていたからだ。
「なんだサシーニャ、着替えたのか」
サシーニャを見るなりリヒャンデルがそう言うと、答えたのはリオネンデ、
「衣装の色で顔色が悪く見えたのは嘘だと、やっとコイツ、白状したぞ」
と笑う。薄朱色の衣装に替えていても、サシーニャの顔色は悪く、むしろ先ほどよりもさらに血の気が引いて見える。
「いささか止血するのが遅すぎたようです」
気怠げにサシーニャが言った。
そんなわけで相伴は辞退し、魔術師の塔に帰ると言うサシーニャ、
「塔に戻り、守り人さまに回復魔法を掛けて貰って、一晩眠れば明日には全快しております」
言外に『心配無用』と言っている。『回復魔法とやらは、自分には掛けられないものなのか?』とリオネンデが問えば、チュジャンエラが『術者の体力を対象に移す一面があるので、効率が悪くなります』とサシーニャに代わって答えた。
「すると守り人が今度は体力を失うのでは?」
重ねて問うリオネンデに、やはりチュジャンエラが、
「術者が弱ってなければ問題ありません。それにジャルスジャズナさまの癒術魔法はサシーニャさまより強力です」
と答えると、リオネンデがムッとした。
「ならばすぐに帰れ」
サシーニャを追い立てるようなことを言う。
そうさせていただきます、と立ち上がるサシーニャに、塔まで送ると言うチュジャンエラ、不要とサシーニャは断るが、リオネンデが、
「魔術師チュジャンエラに、サシーニャを自室まで送ることを命じる――さっさと行って、とっとと戻って来い」
と言えば、サシーニャも拒めない。
見守っていたスイテアが、
「こちらをお持ちになってください」
チュジャンエラに包みを渡す。
「サシーニャさまに――お出しする予定の中でも果物を盛り合わせておきました。ジャルスジャズナさまと召し上がってくださいませ」
王の執務室に来たサシーニャを見た途端、後宮に下がったスイテアだった。どうしたのだろうと思っていたチュジャンエラ、このためだったかと納得している。
「俺も行こうか?」
と言うリヒャンデルに苦笑し、
「お大事になさいませ」
と声を掛けてきたララミリュースに会釈して、出入口へと向かうサシーニャをルリシアレヤが見詰めている。サシーニャが王の執務室を出るには、ルリシアレヤの横を通るのが自然な位置関係だ。
進む先にはじっと自分を見詰めるルリシアレヤ、サシーニャの目はその後方、出入り口だけを見ている。ルリシアレヤには目もくれない――サシーニャがルリシアレヤを見たのはすれ違いざまの一瞬だけ、僅かに二人の視線が交錯する。
「そんな顔をしないでください」
ルリシアレヤだけに聞こえるよう小さな声で囁いて、ついっと視線を出口に戻したサシーニャ、そのまま部屋を出て行った。突然のことに何を言われたのか、それどころか、自分に向けられた言葉だともすぐには理解できないルリシアレヤには、返す言葉もなく、振り返って姿を追うこともできない。
「行ってきますね」
サシーニャの後ろに続くチュジャンエラが同じように擦れ違いざまに声を掛け、ようやく我を取り戻す。チュジャンエラの声は、近くに居る者には普通に聞こえる大きさだ。
「行ってらっしゃい」
微笑んだルリシアレヤがチュジャンエラを見送った。
執務室の中央では、後宮から数人の女たちが料理を運び始め、
「こちらにおかけください」
と、スイテアが椅子を引いてララミリュースに微笑みかけている。
リオネンデが『おまえはそこだ』とララミリュースの隣の席をリヒャンデルに示し、自分はリヒャンデルとララミリュースを挟む席に座った。リオネンデが座るのを見てジャッシフも決められた席に着き、スイテアがジャッシフの隣の椅子を引いた。
「ルリシアレヤさまはこちらに……どうぞお掛けください」
その間も次々に料理が運ばれ、広いテーブルが埋められていく。料理を運んでくるのはすべて女、執務室の奥の帳の中から出て来ては、次の料理を取りに戻る。時おりスイテアに何か指示を仰ぐ女もいた。スイテアはその女たちに優し気な笑みを浮かべて答えている。
ルリシアレヤが座ると、リオネンデとルリシアレヤの間に椅子が二つ残っていた。一つはチュジャンエラ、もう一つはスイテアの席だ。サシーニャの席は料理を運び込む前に取り除かれている。
杯や酒も運び込まれたころ、スイテアがリオネンデに何か耳打ちした。驚いたリオネンデがルリシアレヤを盗み見て、二言・三言スイテアに言ったが、それにスイテアは微笑んで答えている。少し考えてからリオネンデが頷くと、嬉しそうにスイテアも頷いた。
「お好きと伺いましたのでブドウ酒をご用意しております。他にお望みがあれば遠慮なくお申し付けください」
ララミリュースにそう言うと、スイテアが向かったのはルリシアレヤの隣の席だ。
「本来この席はチュジャンエラなのですが、戻るまでわたしが座ってもよろしいでしょうか?」
言われたルリシアレヤがスイテアを見上げ、
「もちろんです」
一瞬、驚いたがすぐに笑顔でそう答えた。
スイテアが座るのを待ってリオネンデが立ちあがり、
「今宵はララミリュースさま、ルリシアレヤさまと親しくなりたいと、身内とも言える親しい者のみを集めました……」
簡単な挨拶のあと食事会が始まった――
塔に戻るとチュジャンエラは、まず居室にサシーニャを連れて行った。ゲッコーが窓に戻っていたので中に入れてから、すぐさまジャルスジャズナを呼びに行く。
すっ飛んできたジャルスジャズナに、居室の長椅子に半ば横たわっていたサシーニャは苦笑するが、ジャルスジャズナはひと目サシーニャを見て、
「なんでもっと早くわたしを呼ばない!?」
と大声で怒鳴った。一緒に戻ってきていたチュジャンエラが怯えて身を竦め、止まり木でウトウトしていたゲッコーが『ギョッ』と鳴く。
「これほどとは自分でも判らなかったのですよ」
身体を起こしながらサシーニャが言えば、
「まったく、おまえは! いつも無理をし過ぎる。少しは自重したらどうだ?」
ジャルスジャズナは泣きだしそうだ。
「いいから傷を見せてみろ」
「傷はもう治っています。止血に手間取って、血を失い過ぎたようです」
「それは顔を見れば判る。なぜ、すぐに止血しなかったんだ?」
「刃毀れが――」
「そんな嘘は聞きたくない。リヒャンデルは騙せても、あの場に居たわたしまで騙せると思うな」
ぴしゃりと言われたサシーニャが観念する。
「魔法が効きませんでした。修復できたのは衣装だけでした」
テーブルではチュジャンエラが、スイテアに持たされた果物を皿に移し、魔術師の塔の調理室で作られたものを追加している。
「おまえの魔法が効かなかった?」
「えぇ、はっきりしたことは言えませんが、ハルヒムンドの剣を避けるために使った魔法が誤作動しているのだと思います。慌てて施術したので、何かヘマをしたのでしょう」
「あぁ……」
サシーニャの嘘に、今度はジャルスジャズナも納得する。
「あの鈍い音は剣除けの魔法がハルヒムンドの剣を弾いた音か……しかし魔法が効かないとして、どうやって傷を治したんだ? おまえの剣除け術なら、まだ効果が続いていそうだが?」
「高速修復薬を使いました」
「はっ? 馬鹿かおまえは!」
ジャルスジャズナが呆れかえる。
「あの薬、効果は早いが身体への負担も大きい。失血が多い時には原則使わないし、修復過程での痛みが半端なくてそれだけでも体力を奪う、判っているだろうが?」
「えぇ、使いたくはなかったですね。焼けるような鋭い痛みでした――チュジャン、いろいろありがとう。リオネンデたちが待っているよ」
すっかりチュジャンエラを忘れていたジャルスジャズナも振り返り、
「うん、わたしに任せて大丈夫だよ。ちゃんと食べさせるし寝かせるし。明日はいつも通りに戻っているから心配ないよ」
と、チュジャンエラに声を掛ける。
サシーニャは気になるが、王の執務室も気になる。残る理由も見つけられず、お願いしますとジャルスジャズナに会釈して、チュジャンエラはサシーニャの部屋を出ていった。
サシーニャの横にジャルスジャズナが向き合うように座る。サシーニャの手の甲を両手で片方ずつ覆って持つと、回復魔法を流し込み始めた。
「なんで剣を回避できなかった?」
施術しながらサシーニャを見ずにジャルスジャズナが問う。
「おまえなら、魔法を使わなくても回避できただろうに」
チラリとジャルスジャズナを見てサシーニャが答える。
「ヘンなところで抜けてるってリオネンデやチュジャンによく言われます。それが出たのでは?」
「そうだね、サシーニャ。おまえはどこか足りない。でも魔術師として、そんな部分が出ることはないよね?」
部屋に入ってきたときとは違い、ジャルスジャズナの声は優しい。
「ジャジャの回復魔法は温かいのですね」
話を変えたサシーニャをジャルスジャズナが笑う。
「回復魔法は温かいと相場が決まってる」
「そうですね、でも特別温かく感じます」
ふっと軽く息を吐いてジャルスジャズナが手を放し、サシーニャを見る。
「随分顔色も戻ってきている。どうりで減らず口を言い出すわけだ」
「ジャジャのお陰だよ」
「今夜はわたしを〝ジャジャ〟と呼ぶんだね」
「……たまにはいいでしょう?」
「わたしとしてはいつもジャジャと呼んで欲しいがね」
「それでは、わたしの甘えた心が出てきてしまいそうです」
「甘えればいいじゃないか」
ジャルスジャズナが立ち上がる。
「サシーニャ、おまえはもっと周囲に甘えたほうがいい。おまえが甘えたって誰もおまえを嫌ったりしないし、むしろ喜ぶとわたしは思う。おまえが孤独なのは、おまえが周囲を遠ざけるからだよ」
テーブルに向かっていたジャルスジャズナにはサシーニャの表情が強張ったことに気付けない。
「さっさと食べて、今日は早くお休み。食事にしよう、サシーニャ」
「そうですね」
そう言って立ち上がったサシーニャは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。




